キートンはMGMとの契約終了以降36編の短編、3作の長編主演作があるそうですが、アメリカでの短編はいずれも長編の添え物扱いの余興的作品として製作・公開され、長編3作はフランスで1作、イギリスで1作、メキシコで1作といった具合でアメリカではずっと後になってからの公開、日本では比較的早く公開されたようですがアメリカのメジャー映画社の配給作品ではないためほとんど宣伝されずに短期間の公開で消えていったといいます。アメリカ本国でのキートンの長編作品は『キートンの馬鹿息子』'20から『キートンの麦酒王』'33まで20作、うち最初のメトロ作品『馬鹿息子』を含めてキートンの監督・脚本ではないMGM作品が10作、キートンの監督・脚本によるバスター・キートン・プロダクション製作作品が10作でヒット戯曲を原作とする『セブン・チャンス』と『ラスト・ラウンド』以外はキートンが原作も兼ねており、キートンの名作傑作はバスター・キートン・プロダクション製作作品10作で、MGM作品は最上のものでもキートン・プロの10作には及はないのは残念です。しかも『キートンのカメラマン』'28以降MGMと専属俳優契約を結んでからのほとんどのキートン作品は、MGMの宣伝力の大きさが功を奏して、サウンド・トーキー作品になってからもキートン・プロ作品の最大ヒット作と同等かそれ以上の興行収入を上げており、にもかかわらず後世には、MGMでのキートンのトーキー作品は凋落著しい凡作としてほとんど顧みられなくなるという二重三重の皮肉を生むことになりました。MGM時代にキートンは年間2作のペースで2作のサイレント長編、7作のトーキー長編に主演し'33年には出演拒否を理由に実質的には解雇、馘首されたので、それは'32年の『キートンの歌劇王』製作準備中から私生活では親権をめぐって前夫人との離婚訴訟のもつれがあり、またMGMの上意下達式の製作体制下での映画出演に向ける意欲も低下し、それらが飲酒癖を悪化させて撮影出勤をさぼる、拒否する、出てきても酒を飲んでいて撮影にならない、という事態が多発しました。トーキー長編も年代順にもう5作も続けて観直すと、ほとんど期待する気持もない上にそうした舞台裏を知ると、一般的に後になればなるほど悪いと言われるMGMのキートンのトーキー長編ですが、結果的に最後の2作になった今回の『キートンの歌劇王』『キートンの麦酒王』などはキートンが迷い込んだ悪条件の中ではよく健闘した作品で、腐ってもキートンというか、一応観ていられる作品になっているだけでも十分ではないかという気がしてくるのです。映像ソフト化もされず少なくともこの30年以上上映されたという話を聞かず、フィルムが現存しているのかもわからないフランス、イギリス、メキシコでの主演長編を観られる機会が今後あるかはわかりませんが、MGMの末期ですらすでにキートンが映画に出ているだけで涙ぐましい気分で、初登場の『キートンの決闘狂』であれだけうっとうしかった共演者ジミー・デュランテでさえ作品ごとに役割分担ができていてそれなりに貢献を認めずにはいられないくらいですから、キートンのキャリアの長い長い蛇足のようなMGMのトーキー長編ですら、ないよりはあった方がやはり良かったと思えるものです。引き際がしょぼくてもキートンほど輝かしい全盛期を誇った人に贅沢は言えた義理ではないでしょう。名作傑作のキートンを観たければサイレント時代に両手の指の数ほどもあるのです。20作の長編、そのうち少なくともキートン自身の監督・脚本による作品10作はアメリカのサイレント喜劇最高の作品群なのですから、ほぼ同数の平凡な主演作があるからといってキートンの業績を低く見るのは不当で、見所の少ない作品ですらキートンの出演場面だけは映画の救いになっているのです。
●7月19日(木)
『キートンの歌劇王』Speak Easily (監督エドワード・セジウィック、MGM'32)*81min, B/W; 本国公開1932年8月13日; https://youtu.be/SEU7CawL9Nc
○あらすじ(DVDジャケット解説より) 大学教授のポスト(キートン)はある日突然75万ドルもの財産を相続することになる。健康上の問題により休職を許可されたのをチャンスと旅に出た彼は、二ューヨークへ向かう途上トラブル続きの三流ミュージカル・ショウの一団に出会い、彼らをブロードウェイの大舞台に立たせる決心をするのだった。 自身で「お気に入りの1本」と公言した作品。恋も歌もドタバタもすべて詰まったキートン流エンターテインメント!
ライオンが吠えるMGMのTMタイトルとクレジット・タイトルが終わると、「ポッツ大学」の校章から映画本編は始まります。教頭室に座ったポスト教授ことキートンは学生とのやり取りの後、助手の教授に働きすぎを忠告され、歴代の教頭が過労で心身を壊し自殺した教頭もいる、と言ってキートンに休暇を勧めますが、キートンは貯金は6454ドルしかないと諦めます。そこに手紙が届き、キートンは75万ドルの相続人となったことを知ります。キートンは早速スーツケースを抱えて旅行の列車に乗り込みます。列車のホームはジミー・デュランテ率いる芸人一座の移動でごった返しています。やがて検札でキートンは乗り換え・乗り損ねのごたごたに巻き込まれますが何とか劇団と一緒の列車に同乗します。一方キートンの助手の教授は校長に遺産相続はキートンが学校以外の世界を見てくるつもりにさせるために自分が書いた偽手紙で、自分の浅慮と貯金をはたいて出ていったキートンへの心配を打ち明けます。保守的なやつだからどうせ大したことにならないだろう、と校長。キートンは劇団が降りた駅で自分も降りてデュランテに近づいて列車で席を隣りあわせたパンジー(ルース・セルウィン)の名前を聞き出し、リハーサルを見学してますますパンジーに惚れこみ、保安官を引き連れて荷物の運送屋が到着して運賃を清算しないと荷物を渡さない、という保安官に劇団に代わって50ドルを払います。このままスポンサーになってくれないかというデュランテをパンジーは図々しすぎると止めますが、デュランテはキートンに劇団運営をすべて任せると持ちかけ、ニューヨークに行くつもりだったキートンは劇団のブロードウェイ公演を計画します。しかしブロードウェイではプロモーターに劇団もコメディアンもダンサーも全然使えないと断られますが、プロモーターはキートンがパンジーにきみのダンスのためなら75万ドルも惜しくはないんだ、と聞くとそういうことでしたら、とにやにや笑って去って行きます。パンジーはブロードウェイ公演は無理だとキートンを説き伏せようとしますが、キートンとデュランテは乗り気でピアノに向かいながら相談している最中に、女優のエリノア・エスペア(セルマ・トッド)が「100万ドルの興行をするんですって?」と乗り込んできます。100万ドルじゃない、とキートンが答えるとエリノアは露骨に興ざめな顔をしますが、「75万ドルだ」とキートンが言い直すと目を輝かせてすり寄ってきます。キートンとデュランテはスピーク・イージー(もぐり酒場)に行きましょう、というエリノアの言葉を知らずスピーク・イージー(何か適当な)よりスピーク・イージリー(何でもあり)の方が良い、と劇の演目を「スピーク・イージリー」というタイトルで台本を書くことにします。エリノアはキートン名義で高級ホテルの部屋を取りあの手この手で露骨な誘惑にかかります。ブロードウェイの演出家の手配も済み、キートンとデュランテの劇団の「スピーク・イージリー」の広告が華々しく新聞を飾ります。しかし劇場主が公演当日までに1万ドルの保証金を払わないと開幕させないと通達してきます。朝、エリノアが酔いつぶれて起き出し、キートンはエリノアに結婚を迫られ、例のプロモーターが乗り込んできます。窓の外で待ち受けていたデュランテが抜け出したキートンと入れ替わり、「私と結婚したいんですか?」とその場をごまかします。さてその夜の開演初日、開演前の劇場に劇場主が保証金を取り立てに来ています。劇はなし崩しに始まってしまい、ちょうどパンジーに教授は私と結婚するのよと絡んでいたエリノアの間に割って入っていたキートンは開幕と同時に舞台に転がり出て受けてしまい、演出家は怒り出しますが舞台はダンサーたちの失策をきっかけに次第にキートンとデュランテのアドリブばかりになり、演出家も怒り心頭に達して舞台に土砂降りを降らしてしまいます。第2部も同様にいつの間にかキートンが舞台で大道具にからまった振り回された挙げ句オーケストラ・ピットに転げ落ちることになり、観客にはコメディ劇として大受けで、1万ドルの保証金を迫られたキートンは老舗プロモーターからこの舞台の興行を10万ドルの契約金でもちかけられます。キートンがパンジーと喜んでいるとエリノアから私はどうなるのと迫られ、キートンははっきりエリノアに立ち去るように言い、キートンとパンジーが抱きあいキスして、エンドマーク。
本作は前作『キートンの決闘狂』が19日間で撮影されたのに倣って撮影期間23日を予定して撮影開始されましたが、11日間キートンの出勤拒否によって中断したので撮影期間は34日に渡ることになり、この出勤拒否のための損害が3万3,000ドルにも及んで、MGMでのキートンの映画中初トーキー作品『キートンのエキストラ』(50万ドル)に次ぐ2番目に製作費の高くついた作品(42万ドル)になりました。興行収入は75万ドル近くに上りましたが純益は3万3,000ドルにとどまったので、製作費27万ドル・興行収入80万ドルを上げた『キートンの決死隊』『紐育の歩道』より収益は後退しています。しかし75万ドルの興行収入はバスター・キートン・プロダクション時代の長編では最大のヒット作『キートンのラスト・ラウンド』と並ぶので、キートン・プロ二番目のヒット作が『海底王キートン』の68万ドルですから大メジャーのMGMの自社作品への宣伝の力の入れ方がわかります(バスター・キートン・プロダクションは独立プロだったので長編第7作『ラスト・ラウンド』まではMGM配給、長編第8作『列車大追跡』から第10作でキートン・プロ製作最終作『蒸気船』はユナイテッド・アーティスツ配給で、ユナイテッド・アーティスツ配給は宣伝力の弱さで壊滅的な大赤字を出しました)。本作はキートン自身がMGMでの他の作品同様不満を洩らしもする一方、気に入った作品ともしている作品ですが、舞台を滅茶苦茶にするシーンはセットに意を凝らして体を張ったドタバタのギャグが豊富なので、メカニカルなギャグ好きのキートンには回転舞台やロープを使ったアクロバット芸でつないでいるクライマックスが気に入ったのだろうと思われます。またキートンは基本アイディアと脚本も褒めていますが、『馬鹿息子』に原型があり『海底王』『ラスト・ラウンド』『決死隊』『紐育の歩道』と続く金持ちの世間知らずキャラクターながら本作の偽の遺産相続というのは風刺にもなっておらず悪質で、主人公キートンは最後まで真相を知らずに終わりますがしくじっていたらそれこそ身の破滅です。また本作の主人公が強気で通しているのは75万ドルの遺産相続を信じ込んでいるからで、財力がものを言うという価値観ではキートンに色仕掛けで迫るセルマ・トッド(後年のおばさんの印象しか持たずに観ると若い!そう言えば同時期のマルクス兄弟映画にもコメディエンヌとして出演しています)と大差ない俗物ということになります。そうした基本的な設定への疑問を度外視すれば、ダンサーのひとりに惚れたばかりに芸能オンチで財力しか能がない(偽の相続、という設定は結局サスペンスを生むわけでもなく生かされないので、余計な付け足しで、相続の話は本当だった方がすっきりしていたと思います)主人公がスポンサー気取りで財力だけで無理を通す滑稽さが喜劇映画としては骨組みになっており、本番舞台だというのにリハーサルでしていたのと同様に大道具小道具の不足や不備をどうにかしようと舞台に上がってしまう主人公、とそれなりにきっかけは作ってありますが、本番もリハーサルも区別がつかない行動をする主人公のキャラクターは明らかに行きすぎているのに、本作は観ている間はキートンのキャラクターにそれほど度を過ぎた誇張を感じさせない勢いがあります。トーキー作品になってからのキートンは受け身のキャラクターが多かったので他の登場人物ばかりがばたばたと話を運び、キートンがぽつりと孤立するような面が強かったのですが、本作は『紐育の歩道』と並んでキートンが積極的なキャラクターになってストーリーの中心にいるのが、キートン自身は無口なキャラクターで映画のテンポは他のしゃべりまくりキャラクターによってせわしなかったり弛んでしまったりしても、キートンが作品の中心にいるというだけで安定感があります。本作ではジミー・デュランテは一座のリーダー的ピアニスト兼コメディアン役でキートンとの絡みよりもストーリーの推進役の方を担うので前作『決闘狂』のような余計なコメディ・リリーフではなくなっているのも功を奏しています。キートンの二日酔いで撮影中断する事態もあった、修羅場のような酸悲な製作下で作られた作品という感じは仕上がりからは見られません。本作からは海外版の撮影がないことからも、おそらく本作からは同時録音撮影ではなくサウンドのダビング技術が導入され、それが本作と次作『キートンの麦酒王』の仕上がりを無理のないものにしたと思われるのです。
●7月20日(金)
『キートンの麦酒王』What! No Beer? (監督エドワード・セジウィック、MGM'33)*65min, B/W; 本国公開1933年2月10日; https://youtu.be/Hb4uUeFvJwg
○あらすじ(DVDジャケット解説より) 剥製屋のエルマー(キートン)は禁酒主義大会に出席し、会場でホーテンスという美しい娘に一目惚れ。彼は彼女を社交界に新星のごとく現れた令嬢と勘違い。実はビール密造ギャングの情婦だった。彼女と結婚するために一攫千金を狙い町の理髪師ジミー・ポッツを口説いて、エルマーは全財産を投じてビール製造に着手。が、あっという間に警察に知られて逮捕されてしまう……。 キートン最後のMGM作品。終盤の坂を転げ落ちる麦酒樽の超絶アクションは必見!
本作も例によってライオンが吠えるMGMのTMタイトルとクレジット・タイトル(前作から「Metro Goldwyn-Mayer/PRESENTS/Buster KEATON and Jimmy DURANTE/in/"What! No Beer?"」と完全に連名主演になりました)が終わると、映画本編は「フリズビー候補に一票を」の選挙運動行進の模様から「バッツ剥製店」の店の看板、店から出てくるエルマーことキートンの姿が映り、キートンは「禁酒主義大会」の会場前で送迎車から出てきた美女(フィリス・バリー)に見とれて車の発進にひっくり返ります。美女の隣に座ったキートンは美女が連れの男(ジョン・ミルジャン)とビールが売れればいいのにと会話しているのを聞きますが、椅子がひっくり返って警備員に連れ出されますが、翌日に床屋のジミー(ジミー・デュランテ)が釣った大魚を剥製に持ち込んでも前日の美女ホーテンスを思ってボーッとしたままです。とりあえず選挙に行こうと解禁派候補に投票しに行きます。解禁派候補は票を伸ばし、一方では昨夜の男ブッチ・ラレードが解禁派候補の優勢に激怒している様子で密造酒商売の男とわかり(男が「ラジオはもういい!」と怒ってピストルを撃つと、選挙ニュースの声が「……うーん」とうめき声を上げて消えるギャグあり)、解禁派候補の就任決定でキートンとデュランテはさっそくあり金をはたき下町仲間を集めて廃工場をビール醸造所に改造し始めます。キートンとデュランテたちは朝まで醸造器を設置し試作に格闘しますが、朝になって警察に踏み込まれ連行されてしまいます。キートンたちは醸造したのがまったく水も同様の麦水だったので密造酒製造懲役6年を免れ無罪放免となりますが、結婚資金も水の泡とキートンが意気消沈していた所を、デュランテが元ビール職人の老人を紹介されてビール製造に成功します。キートンは本物のビール製造の成功を知らずにビール風味の炭酸飲料だと思ったままです。密造酒売買の闇屋たちが密造酒相場の下落をたどってキートンの会社を突き止め、乗り込んできた密造酒売買の大物ボス、スパイク(エディ・ブロフィ)はキートンの会社が警察のお目こぼしになって売買どころか工場で自前のビールを大量醸造しているのを知って大口の取引を結びます。スパイクと敵対するラレード組のブッチは愛人のホーテンスをキートンの会社にスパイに送り、キートンの会社はラレード組の脅迫に遭います。キートンはビール樽の配達に行って坂道で駐車したトラックから樽を下ろそうとして樽を全部ぶちまけてしまい、戻ったところをデュランテにビールが本物なこと、スパイク組とラレード組の本物のギャングの抗争に巻き込まれていることを教えます。その最中スパイク組摘発の報にデュランテとキートンはほっとしますが、ラレード組がキートンたちの工場を乗っ取りに来ます。警察の突入を知らせる伝言がホーテンスからキートンに届き、キートンは工場の乱闘から抜け出してビール無料飲み放題の看板を掲げて街中を走り回ります。人々がビール工場に殺到し、警察が着いてラレード組はお縄になり、ビール樽はすべて空っぽになっています。「市民の団結でギャングは一掃されました。今こそビール解禁を!」と演説する議員。ビール解禁の祝いに続いて麦畑、ビール工場、運輸トラックとドキュメント映像が次々モンタージュされ、「バッツ・ビール・ガーデン」の豪邸の門をくぐるとデュランテ、ヒロイン、キートンと並んだ車上から「ビール解禁の英雄エルマーに祝杯を!」とデュランテ。車から引きずり下ろされサイン帳攻めにあい、もみくちゃにされて下着だけに身ぐるみ剥がされたデュランテとキートン。キートンに寄り添うヒロイン。デュランテのアップがカメラ目線で「皆さんも一緒に飲みませんか?」とジョッキの泡を吹きビールをぐいっと飲んで、エンドマーク。
キートン評伝の著者トム・ダーディスがキートンのMGMのトーキー作品中『紐育の歩道』と並ぶキートン作品中の最低の代物とくさすのが本作で、製作は前作『歌劇王』ほどではないにせよキートンが撮影に出て来ない、出てきてもへべれけか二日酔い、という始末で、本作の製作時には次作にキートンにデュランテ共演、ジャッキー・クーパー(チャップリンの『キッド』'21で子役デビュー。次作企画時12歳)で企画とシナリオまで着手されていたのですが、結局MGMはキートンの怠慢を理由に本作の公開を待ってキートンとの専属俳優契約を解約してしまいます。早い話が解雇、馘首されたので、キートンはフランスで『キートンの爆弾成金』'34、イギリスで『キートンのスペイン嬌乱』'36の2長編に主演し、アメリカではエデュケーショナル社で'34年~'37年に短編16本、コロンビア社で'39年~'41年に10本の短編、またさまざまな会社で'36年~'66年に10本の短編に主演し、戦後唯一の主演長編が『現代版青ひげ物語』'46でメキシコ映画でしたが、これらはすべてキートン以外の監督により、キートン自身の企画・監督作品は作られませんでした。さて『キートンの麦酒王』ですが、キートンとデュランテが同格主演かとがっくりするのもつかの間、キートンは晩年の回想録でもデュランテのことを良く言ってはいませんが、共演3作目ともなると、次回作まで予定していただけあってMGMの脚本部もデュランテもキートンの見せ場とかぶって相殺してしまうことなく、それでいて主演コンビとして上手く役割分担が成り立つように、よくある手ですがキートンがボケ、デュランテが突っ込みという具合に相棒ものに仕立てたので、本作ではぼんやりしていて真面目なキートンに機転は効いて行動力はあるがうっかり者のデュランテ、というコンビにしており、コメディアン同士の共演ならもっと早くこの安定した組み合わせになっていても良さそうなものですが、キートンとデュランテではあまりに芸風が違うどころか同じ世界の住人とも思えないくらいかけ離れているので、誰もすぐには思いつかなかったのでしょう。MGM脚本部もあながち無能でないのは主人方(キートン含む)の恋愛模様を観察して興じる従僕(デュランテ)という古いフランス艶笑劇そのままの踏襲から、パトロン(キートン)と芸人(デュランテ)という配置が最後にはパトロンも芸人も区別がなくなる『歌劇王』で両者の距離を縮めた後で、本作『麦酒王』ではにわかビール醸造工場主の共同経営者コンビに進めてきたので、『決闘狂』ではキートン映画(としても異色、ただし『結婚狂』が先行作としてあり)に無理にデュランテの役柄をくっつけたようなものだったのを、『歌劇王』では今までにもあったキートン映画のパターンにデュランテが無理なくはまる役柄を見つけ、本作『麦酒王』でようやくキートンとデュランテ双方が基本はコンビながら同時進行に別々の面からドラマを担う、という分担に至ります。本作の見所は誰もがキートンがビール樽を配達に行き、坂道の店だったので下ろそうとしたビール樽が全部転がっていってしまいキートンが受けとめようと必死になる1分間ほどの場面を上げますが、単刀直入に『セブン・チャンス』の岩石の落下を思い出させるこの場面が際立っているかと言えばそれほどでもなく、ギャグには乏しい作品ながら全体的な流れのそつなさで快適に観られる作品になっていて、映画史家ダーディスの見識には敬意を払いながらも本作は『エキストラ』や『決死隊』、『恋愛指南番』『決闘狂』よりもずっと親しみやすく、楽しんで観ることができる仕上がりになっています。キートンらしさはデュランテの存在感の分控えめになり、本作のラスト・カットもデュランテでしかもアップのカメラ目線で「皆さんも一緒に飲みませんか?」には呆れて物も言えませんが、そういう映画として一貫しているとは認めないではいられません。おそらくMGMのトーキー作品をバスター・キートン・プロダクション時代のサイレント作品と比較すること自体が見当違いなので、別種の映画として見れば世評とは逆に後になるほどトーキー映画としては練れており、素直に楽しめる出来になっているとも言えるのではないでしょうか。
●7月19日(木)
『キートンの歌劇王』Speak Easily (監督エドワード・セジウィック、MGM'32)*81min, B/W; 本国公開1932年8月13日; https://youtu.be/SEU7CawL9Nc
○あらすじ(DVDジャケット解説より) 大学教授のポスト(キートン)はある日突然75万ドルもの財産を相続することになる。健康上の問題により休職を許可されたのをチャンスと旅に出た彼は、二ューヨークへ向かう途上トラブル続きの三流ミュージカル・ショウの一団に出会い、彼らをブロードウェイの大舞台に立たせる決心をするのだった。 自身で「お気に入りの1本」と公言した作品。恋も歌もドタバタもすべて詰まったキートン流エンターテインメント!
ライオンが吠えるMGMのTMタイトルとクレジット・タイトルが終わると、「ポッツ大学」の校章から映画本編は始まります。教頭室に座ったポスト教授ことキートンは学生とのやり取りの後、助手の教授に働きすぎを忠告され、歴代の教頭が過労で心身を壊し自殺した教頭もいる、と言ってキートンに休暇を勧めますが、キートンは貯金は6454ドルしかないと諦めます。そこに手紙が届き、キートンは75万ドルの相続人となったことを知ります。キートンは早速スーツケースを抱えて旅行の列車に乗り込みます。列車のホームはジミー・デュランテ率いる芸人一座の移動でごった返しています。やがて検札でキートンは乗り換え・乗り損ねのごたごたに巻き込まれますが何とか劇団と一緒の列車に同乗します。一方キートンの助手の教授は校長に遺産相続はキートンが学校以外の世界を見てくるつもりにさせるために自分が書いた偽手紙で、自分の浅慮と貯金をはたいて出ていったキートンへの心配を打ち明けます。保守的なやつだからどうせ大したことにならないだろう、と校長。キートンは劇団が降りた駅で自分も降りてデュランテに近づいて列車で席を隣りあわせたパンジー(ルース・セルウィン)の名前を聞き出し、リハーサルを見学してますますパンジーに惚れこみ、保安官を引き連れて荷物の運送屋が到着して運賃を清算しないと荷物を渡さない、という保安官に劇団に代わって50ドルを払います。このままスポンサーになってくれないかというデュランテをパンジーは図々しすぎると止めますが、デュランテはキートンに劇団運営をすべて任せると持ちかけ、ニューヨークに行くつもりだったキートンは劇団のブロードウェイ公演を計画します。しかしブロードウェイではプロモーターに劇団もコメディアンもダンサーも全然使えないと断られますが、プロモーターはキートンがパンジーにきみのダンスのためなら75万ドルも惜しくはないんだ、と聞くとそういうことでしたら、とにやにや笑って去って行きます。パンジーはブロードウェイ公演は無理だとキートンを説き伏せようとしますが、キートンとデュランテは乗り気でピアノに向かいながら相談している最中に、女優のエリノア・エスペア(セルマ・トッド)が「100万ドルの興行をするんですって?」と乗り込んできます。100万ドルじゃない、とキートンが答えるとエリノアは露骨に興ざめな顔をしますが、「75万ドルだ」とキートンが言い直すと目を輝かせてすり寄ってきます。キートンとデュランテはスピーク・イージー(もぐり酒場)に行きましょう、というエリノアの言葉を知らずスピーク・イージー(何か適当な)よりスピーク・イージリー(何でもあり)の方が良い、と劇の演目を「スピーク・イージリー」というタイトルで台本を書くことにします。エリノアはキートン名義で高級ホテルの部屋を取りあの手この手で露骨な誘惑にかかります。ブロードウェイの演出家の手配も済み、キートンとデュランテの劇団の「スピーク・イージリー」の広告が華々しく新聞を飾ります。しかし劇場主が公演当日までに1万ドルの保証金を払わないと開幕させないと通達してきます。朝、エリノアが酔いつぶれて起き出し、キートンはエリノアに結婚を迫られ、例のプロモーターが乗り込んできます。窓の外で待ち受けていたデュランテが抜け出したキートンと入れ替わり、「私と結婚したいんですか?」とその場をごまかします。さてその夜の開演初日、開演前の劇場に劇場主が保証金を取り立てに来ています。劇はなし崩しに始まってしまい、ちょうどパンジーに教授は私と結婚するのよと絡んでいたエリノアの間に割って入っていたキートンは開幕と同時に舞台に転がり出て受けてしまい、演出家は怒り出しますが舞台はダンサーたちの失策をきっかけに次第にキートンとデュランテのアドリブばかりになり、演出家も怒り心頭に達して舞台に土砂降りを降らしてしまいます。第2部も同様にいつの間にかキートンが舞台で大道具にからまった振り回された挙げ句オーケストラ・ピットに転げ落ちることになり、観客にはコメディ劇として大受けで、1万ドルの保証金を迫られたキートンは老舗プロモーターからこの舞台の興行を10万ドルの契約金でもちかけられます。キートンがパンジーと喜んでいるとエリノアから私はどうなるのと迫られ、キートンははっきりエリノアに立ち去るように言い、キートンとパンジーが抱きあいキスして、エンドマーク。
本作は前作『キートンの決闘狂』が19日間で撮影されたのに倣って撮影期間23日を予定して撮影開始されましたが、11日間キートンの出勤拒否によって中断したので撮影期間は34日に渡ることになり、この出勤拒否のための損害が3万3,000ドルにも及んで、MGMでのキートンの映画中初トーキー作品『キートンのエキストラ』(50万ドル)に次ぐ2番目に製作費の高くついた作品(42万ドル)になりました。興行収入は75万ドル近くに上りましたが純益は3万3,000ドルにとどまったので、製作費27万ドル・興行収入80万ドルを上げた『キートンの決死隊』『紐育の歩道』より収益は後退しています。しかし75万ドルの興行収入はバスター・キートン・プロダクション時代の長編では最大のヒット作『キートンのラスト・ラウンド』と並ぶので、キートン・プロ二番目のヒット作が『海底王キートン』の68万ドルですから大メジャーのMGMの自社作品への宣伝の力の入れ方がわかります(バスター・キートン・プロダクションは独立プロだったので長編第7作『ラスト・ラウンド』まではMGM配給、長編第8作『列車大追跡』から第10作でキートン・プロ製作最終作『蒸気船』はユナイテッド・アーティスツ配給で、ユナイテッド・アーティスツ配給は宣伝力の弱さで壊滅的な大赤字を出しました)。本作はキートン自身がMGMでの他の作品同様不満を洩らしもする一方、気に入った作品ともしている作品ですが、舞台を滅茶苦茶にするシーンはセットに意を凝らして体を張ったドタバタのギャグが豊富なので、メカニカルなギャグ好きのキートンには回転舞台やロープを使ったアクロバット芸でつないでいるクライマックスが気に入ったのだろうと思われます。またキートンは基本アイディアと脚本も褒めていますが、『馬鹿息子』に原型があり『海底王』『ラスト・ラウンド』『決死隊』『紐育の歩道』と続く金持ちの世間知らずキャラクターながら本作の偽の遺産相続というのは風刺にもなっておらず悪質で、主人公キートンは最後まで真相を知らずに終わりますがしくじっていたらそれこそ身の破滅です。また本作の主人公が強気で通しているのは75万ドルの遺産相続を信じ込んでいるからで、財力がものを言うという価値観ではキートンに色仕掛けで迫るセルマ・トッド(後年のおばさんの印象しか持たずに観ると若い!そう言えば同時期のマルクス兄弟映画にもコメディエンヌとして出演しています)と大差ない俗物ということになります。そうした基本的な設定への疑問を度外視すれば、ダンサーのひとりに惚れたばかりに芸能オンチで財力しか能がない(偽の相続、という設定は結局サスペンスを生むわけでもなく生かされないので、余計な付け足しで、相続の話は本当だった方がすっきりしていたと思います)主人公がスポンサー気取りで財力だけで無理を通す滑稽さが喜劇映画としては骨組みになっており、本番舞台だというのにリハーサルでしていたのと同様に大道具小道具の不足や不備をどうにかしようと舞台に上がってしまう主人公、とそれなりにきっかけは作ってありますが、本番もリハーサルも区別がつかない行動をする主人公のキャラクターは明らかに行きすぎているのに、本作は観ている間はキートンのキャラクターにそれほど度を過ぎた誇張を感じさせない勢いがあります。トーキー作品になってからのキートンは受け身のキャラクターが多かったので他の登場人物ばかりがばたばたと話を運び、キートンがぽつりと孤立するような面が強かったのですが、本作は『紐育の歩道』と並んでキートンが積極的なキャラクターになってストーリーの中心にいるのが、キートン自身は無口なキャラクターで映画のテンポは他のしゃべりまくりキャラクターによってせわしなかったり弛んでしまったりしても、キートンが作品の中心にいるというだけで安定感があります。本作ではジミー・デュランテは一座のリーダー的ピアニスト兼コメディアン役でキートンとの絡みよりもストーリーの推進役の方を担うので前作『決闘狂』のような余計なコメディ・リリーフではなくなっているのも功を奏しています。キートンの二日酔いで撮影中断する事態もあった、修羅場のような酸悲な製作下で作られた作品という感じは仕上がりからは見られません。本作からは海外版の撮影がないことからも、おそらく本作からは同時録音撮影ではなくサウンドのダビング技術が導入され、それが本作と次作『キートンの麦酒王』の仕上がりを無理のないものにしたと思われるのです。
●7月20日(金)
『キートンの麦酒王』What! No Beer? (監督エドワード・セジウィック、MGM'33)*65min, B/W; 本国公開1933年2月10日; https://youtu.be/Hb4uUeFvJwg
○あらすじ(DVDジャケット解説より) 剥製屋のエルマー(キートン)は禁酒主義大会に出席し、会場でホーテンスという美しい娘に一目惚れ。彼は彼女を社交界に新星のごとく現れた令嬢と勘違い。実はビール密造ギャングの情婦だった。彼女と結婚するために一攫千金を狙い町の理髪師ジミー・ポッツを口説いて、エルマーは全財産を投じてビール製造に着手。が、あっという間に警察に知られて逮捕されてしまう……。 キートン最後のMGM作品。終盤の坂を転げ落ちる麦酒樽の超絶アクションは必見!
本作も例によってライオンが吠えるMGMのTMタイトルとクレジット・タイトル(前作から「Metro Goldwyn-Mayer/PRESENTS/Buster KEATON and Jimmy DURANTE/in/"What! No Beer?"」と完全に連名主演になりました)が終わると、映画本編は「フリズビー候補に一票を」の選挙運動行進の模様から「バッツ剥製店」の店の看板、店から出てくるエルマーことキートンの姿が映り、キートンは「禁酒主義大会」の会場前で送迎車から出てきた美女(フィリス・バリー)に見とれて車の発進にひっくり返ります。美女の隣に座ったキートンは美女が連れの男(ジョン・ミルジャン)とビールが売れればいいのにと会話しているのを聞きますが、椅子がひっくり返って警備員に連れ出されますが、翌日に床屋のジミー(ジミー・デュランテ)が釣った大魚を剥製に持ち込んでも前日の美女ホーテンスを思ってボーッとしたままです。とりあえず選挙に行こうと解禁派候補に投票しに行きます。解禁派候補は票を伸ばし、一方では昨夜の男ブッチ・ラレードが解禁派候補の優勢に激怒している様子で密造酒商売の男とわかり(男が「ラジオはもういい!」と怒ってピストルを撃つと、選挙ニュースの声が「……うーん」とうめき声を上げて消えるギャグあり)、解禁派候補の就任決定でキートンとデュランテはさっそくあり金をはたき下町仲間を集めて廃工場をビール醸造所に改造し始めます。キートンとデュランテたちは朝まで醸造器を設置し試作に格闘しますが、朝になって警察に踏み込まれ連行されてしまいます。キートンたちは醸造したのがまったく水も同様の麦水だったので密造酒製造懲役6年を免れ無罪放免となりますが、結婚資金も水の泡とキートンが意気消沈していた所を、デュランテが元ビール職人の老人を紹介されてビール製造に成功します。キートンは本物のビール製造の成功を知らずにビール風味の炭酸飲料だと思ったままです。密造酒売買の闇屋たちが密造酒相場の下落をたどってキートンの会社を突き止め、乗り込んできた密造酒売買の大物ボス、スパイク(エディ・ブロフィ)はキートンの会社が警察のお目こぼしになって売買どころか工場で自前のビールを大量醸造しているのを知って大口の取引を結びます。スパイクと敵対するラレード組のブッチは愛人のホーテンスをキートンの会社にスパイに送り、キートンの会社はラレード組の脅迫に遭います。キートンはビール樽の配達に行って坂道で駐車したトラックから樽を下ろそうとして樽を全部ぶちまけてしまい、戻ったところをデュランテにビールが本物なこと、スパイク組とラレード組の本物のギャングの抗争に巻き込まれていることを教えます。その最中スパイク組摘発の報にデュランテとキートンはほっとしますが、ラレード組がキートンたちの工場を乗っ取りに来ます。警察の突入を知らせる伝言がホーテンスからキートンに届き、キートンは工場の乱闘から抜け出してビール無料飲み放題の看板を掲げて街中を走り回ります。人々がビール工場に殺到し、警察が着いてラレード組はお縄になり、ビール樽はすべて空っぽになっています。「市民の団結でギャングは一掃されました。今こそビール解禁を!」と演説する議員。ビール解禁の祝いに続いて麦畑、ビール工場、運輸トラックとドキュメント映像が次々モンタージュされ、「バッツ・ビール・ガーデン」の豪邸の門をくぐるとデュランテ、ヒロイン、キートンと並んだ車上から「ビール解禁の英雄エルマーに祝杯を!」とデュランテ。車から引きずり下ろされサイン帳攻めにあい、もみくちゃにされて下着だけに身ぐるみ剥がされたデュランテとキートン。キートンに寄り添うヒロイン。デュランテのアップがカメラ目線で「皆さんも一緒に飲みませんか?」とジョッキの泡を吹きビールをぐいっと飲んで、エンドマーク。
キートン評伝の著者トム・ダーディスがキートンのMGMのトーキー作品中『紐育の歩道』と並ぶキートン作品中の最低の代物とくさすのが本作で、製作は前作『歌劇王』ほどではないにせよキートンが撮影に出て来ない、出てきてもへべれけか二日酔い、という始末で、本作の製作時には次作にキートンにデュランテ共演、ジャッキー・クーパー(チャップリンの『キッド』'21で子役デビュー。次作企画時12歳)で企画とシナリオまで着手されていたのですが、結局MGMはキートンの怠慢を理由に本作の公開を待ってキートンとの専属俳優契約を解約してしまいます。早い話が解雇、馘首されたので、キートンはフランスで『キートンの爆弾成金』'34、イギリスで『キートンのスペイン嬌乱』'36の2長編に主演し、アメリカではエデュケーショナル社で'34年~'37年に短編16本、コロンビア社で'39年~'41年に10本の短編、またさまざまな会社で'36年~'66年に10本の短編に主演し、戦後唯一の主演長編が『現代版青ひげ物語』'46でメキシコ映画でしたが、これらはすべてキートン以外の監督により、キートン自身の企画・監督作品は作られませんでした。さて『キートンの麦酒王』ですが、キートンとデュランテが同格主演かとがっくりするのもつかの間、キートンは晩年の回想録でもデュランテのことを良く言ってはいませんが、共演3作目ともなると、次回作まで予定していただけあってMGMの脚本部もデュランテもキートンの見せ場とかぶって相殺してしまうことなく、それでいて主演コンビとして上手く役割分担が成り立つように、よくある手ですがキートンがボケ、デュランテが突っ込みという具合に相棒ものに仕立てたので、本作ではぼんやりしていて真面目なキートンに機転は効いて行動力はあるがうっかり者のデュランテ、というコンビにしており、コメディアン同士の共演ならもっと早くこの安定した組み合わせになっていても良さそうなものですが、キートンとデュランテではあまりに芸風が違うどころか同じ世界の住人とも思えないくらいかけ離れているので、誰もすぐには思いつかなかったのでしょう。MGM脚本部もあながち無能でないのは主人方(キートン含む)の恋愛模様を観察して興じる従僕(デュランテ)という古いフランス艶笑劇そのままの踏襲から、パトロン(キートン)と芸人(デュランテ)という配置が最後にはパトロンも芸人も区別がなくなる『歌劇王』で両者の距離を縮めた後で、本作『麦酒王』ではにわかビール醸造工場主の共同経営者コンビに進めてきたので、『決闘狂』ではキートン映画(としても異色、ただし『結婚狂』が先行作としてあり)に無理にデュランテの役柄をくっつけたようなものだったのを、『歌劇王』では今までにもあったキートン映画のパターンにデュランテが無理なくはまる役柄を見つけ、本作『麦酒王』でようやくキートンとデュランテ双方が基本はコンビながら同時進行に別々の面からドラマを担う、という分担に至ります。本作の見所は誰もがキートンがビール樽を配達に行き、坂道の店だったので下ろそうとしたビール樽が全部転がっていってしまいキートンが受けとめようと必死になる1分間ほどの場面を上げますが、単刀直入に『セブン・チャンス』の岩石の落下を思い出させるこの場面が際立っているかと言えばそれほどでもなく、ギャグには乏しい作品ながら全体的な流れのそつなさで快適に観られる作品になっていて、映画史家ダーディスの見識には敬意を払いながらも本作は『エキストラ』や『決死隊』、『恋愛指南番』『決闘狂』よりもずっと親しみやすく、楽しんで観ることができる仕上がりになっています。キートンらしさはデュランテの存在感の分控えめになり、本作のラスト・カットもデュランテでしかもアップのカメラ目線で「皆さんも一緒に飲みませんか?」には呆れて物も言えませんが、そういう映画として一貫しているとは認めないではいられません。おそらくMGMのトーキー作品をバスター・キートン・プロダクション時代のサイレント作品と比較すること自体が見当違いなので、別種の映画として見れば世評とは逆に後になるほどトーキー映画としては練れており、素直に楽しめる出来になっているとも言えるのではないでしょうか。