本作も例によってライオンが吠えるMGMのTMタイトルとクレジット・タイトル(前作から「Metro Goldwyn-Mayer/PRESENTS/Buster KEATON and Jimmy DURANTE/in/"What! No Beer?"」と完全に連名主演になりました)が終わると、映画本編は「フリズビー候補に一票を」の選挙運動行進の模様から「バッツ剥製店」の店の看板、店から出てくるエルマーことキートンの姿が映り、キートンは「禁酒主義大会」の会場前で送迎車から出てきた美女(フィリス・バリー)に見とれて車の発進にひっくり返ります。美女の隣に座ったキートンは美女が連れの男(ジョン・ミルジャン)とビールが売れればいいのにと会話しているのを聞きますが、椅子がひっくり返って警備員に連れ出されますが、翌日に床屋のジミー(ジミー・デュランテ)が釣った大魚を剥製に持ち込んでも前日の美女ホーテンスを思ってボーッとしたままです。とりあえず選挙に行こうと解禁派候補に投票しに行きます。解禁派候補は票を伸ばし、一方では昨夜の男ブッチ・ラレードが解禁派候補の優勢に激怒している様子で密造酒商売の男とわかり(男が「ラジオはもういい!」と怒ってピストルを撃つと、選挙ニュースの声が「……うーん」とうめき声を上げて消えるギャグあり)、解禁派候補の就任決定でキートンとデュランテはさっそくあり金をはたき下町仲間を集めて廃工場をビール醸造所に改造し始めます。キートンとデュランテたちは朝まで醸造器を設置し試作に格闘しますが、朝になって警察に踏み込まれ連行されてしまいます。キートンたちは醸造したのがまったく水も同様の麦水だったので密造酒製造懲役6年を免れ無罪放免となりますが、結婚資金も水の泡とキートンが意気消沈していた所を、デュランテが元ビール職人の老人を紹介されてビール製造に成功します。キートンは本物のビール製造の成功を知らずにビール風味の炭酸飲料だと思ったままです。密造酒売買の闇屋たちが密造酒相場の下落をたどってキートンの会社を突き止め、乗り込んできた密造酒売買の大物ボス、スパイク(エディ・ブロフィ)はキートンの会社が警察のお目こぼしになって売買どころか工場で自前のビールを大量醸造しているのを知って大口の取引を結びます。スパイクと敵対するラレード組のブッチは愛人のホーテンスをキートンの会社にスパイに送り、キートンの会社はラレード組の脅迫に遭います。キートンはビール樽の配達に行って坂道で駐車したトラックから樽を下ろそうとして樽を全部ぶちまけてしまい、戻ったところをデュランテにビールが本物なこと、スパイク組とラレード組の本物のギャングの抗争に巻き込まれていることを教えます。その最中スパイク組摘発の報にデュランテとキートンはほっとしますが、ラレード組がキートンたちの工場を乗っ取りに来ます。警察の突入を知らせる伝言がホーテンスからキートンに届き、キートンは工場の乱闘から抜け出してビール無料飲み放題の看板を掲げて街中を走り回ります。人々がビール工場に殺到し、警察が着いてラレード組はお縄になり、ビール樽はすべて空っぽになっています。「市民の団結でギャングは一掃されました。今こそビール解禁を!」と演説する議員。ビール解禁の祝いに続いて麦畑、ビール工場、運輸トラックとドキュメント映像が次々モンタージュされ、「バッツ・ビール・ガーデン」の豪邸の門をくぐるとデュランテ、ヒロイン、キートンと並んだ車上から「ビール解禁の英雄エルマーに祝杯を!」とデュランテ。車から引きずり下ろされサイン帳攻めにあい、もみくちゃにされて下着だけに身ぐるみ剥がされたデュランテとキートン。キートンに寄り添うヒロイン。デュランテのアップがカメラ目線で「皆さんも一緒に飲みませんか?」とジョッキの泡を吹きビールをぐいっと飲んで、エンドマーク。
キートン評伝の著者トム・ダーディスがキートンのMGMのトーキー作品中『紐育の歩道』と並ぶキートン作品中の最低の代物とくさすのが本作で、製作は前作『歌劇王』ほどではないにせよキートンが撮影に出て来ない、出てきてもへべれけか二日酔い、という始末で、本作の製作時には次作にキートンにデュランテ共演、ジャッキー・クーパー(チャップリンの『キッド』'21で子役デビュー。次作企画時12歳)で企画とシナリオまで着手されていたのですが、結局MGMはキートンの怠慢を理由に本作の公開を待ってキートンとの専属俳優契約を解約してしまいます。早い話が解雇、馘首されたので、キートンはフランスで『キートンの爆弾成金』'34、イギリスで『キートンのスペイン嬌乱』'36の2長編に主演し、アメリカではエデュケーショナル社で'34年~'37年に短編16本、コロンビア社で'39年~'41年に10本の短編、またさまざまな会社で'36年~'66年に10本の短編に主演し、戦後唯一の主演長編が『現代版青ひげ物語』'46でメキシコ映画でしたが、これらはすべてキートン以外の監督により、キートン自身の企画・監督作品は作られませんでした。さて『キートンの麦酒王』ですが、キートンとデュランテが同格主演かとがっくりするのもつかの間、キートンは晩年の回想録でもデュランテのことを良く言ってはいませんが、共演3作目ともなると、次回作まで予定していただけあってMGMの脚本部もデュランテもキートンの見せ場とかぶって相殺してしまうことなく、それでいて主演コンビとして上手く役割分担が成り立つように、よくある手ですがキートンがボケ、デュランテが突っ込みという具合に相棒ものに仕立てたので、本作ではぼんやりしていて真面目なキートンに機転は効いて行動力はあるがうっかり者のデュランテ、というコンビにしており、コメディアン同士の共演ならもっと早くこの安定した組み合わせになっていても良さそうなものですが、キートンとデュランテではあまりに芸風が違うどころか同じ世界の住人とも思えないくらいかけ離れているので、誰もすぐには思いつかなかったのでしょう。MGM脚本部もあながち無能でないのは主人方(キートン含む)の恋愛模様を観察して興じる従僕(デュランテ)という古いフランス艶笑劇そのままの踏襲から、パトロン(キートン)と芸人(デュランテ)という配置が最後にはパトロンも芸人も区別がなくなる『歌劇王』で両者の距離を縮めた後で、本作『麦酒王』ではにわかビール醸造工場主の共同経営者コンビに進めてきたので、『決闘狂』ではキートン映画(としても異色、ただし『結婚狂』が先行作としてあり)に無理にデュランテの役柄をくっつけたようなものだったのを、『歌劇王』では今までにもあったキートン映画のパターンにデュランテが無理なくはまる役柄を見つけ、本作『麦酒王』でようやくキートンとデュランテ双方が基本はコンビながら同時進行に別々の面からドラマを担う、という分担に至ります。本作の見所は誰もがキートンがビール樽を配達に行き、坂道の店だったので下ろそうとしたビール樽が全部転がっていってしまいキートンが受けとめようと必死になる1分間ほどの場面を上げますが、単刀直入に『セブン・チャンス』の岩石の落下を思い出させるこの場面が際立っているかと言えばそれほどでもなく、ギャグには乏しい作品ながら全体的な流れのそつなさで快適に観られる作品になっていて、映画史家ダーディスの見識には敬意を払いながらも本作は『エキストラ』や『決死隊』、『恋愛指南番』『決闘狂』よりもずっと親しみやすく、楽しんで観ることができる仕上がりになっています。キートンらしさはデュランテの存在感の分控えめになり、本作のラスト・カットもデュランテでしかもアップのカメラ目線で「皆さんも一緒に飲みませんか?」には呆れて物も言えませんが、そういう映画として一貫しているとは認めないではいられません。おそらくMGMのトーキー作品をバスター・キートン・プロダクション時代のサイレント作品と比較すること自体が見当違いなので、別種の映画として見れば世評とは逆に後になるほどトーキー映画としては練れており、素直に楽しめる出来になっているとも言えるのではないでしょうか。