[ 八木重吉(1898-1927)大正13年=1924年5月26日、長女桃子満1歳の誕生日に。重吉26歳、妻とみ子19歳 ]
東京府南多摩郡堺村(現東京都町田市)生まれの英語教師・キリスト教徒の詩人、八木重吉(1898年=明治31年2月9日生、1927年=昭和2年10月26日没、享年29歳8か月)の第1詩集『秋の瞳』(1925年=大正14年8月1日・新潮社刊)については前回まで十数週に渡りご紹介しました。八木の生前刊行の詩集は『秋の瞳』だけに終わりましたが、八木は晩年1年半に渡る闘病生活中に『秋の瞳』編集完了の大正14年春~逝去半年前の昭和2年春までの新作から第2詩集『貧しき信徒』の編集を済ませて、第1詩集刊行時にも世話になった又従兄弟の小説家・編集者の加藤武雄に託していました。第2詩集『貧しき信徒』は全103編を収録し、編数では全117編と自序を収めた第1詩集『秋の瞳』より15編ほど少ないだけですが、短詩傾向は『秋の瞳』より進み本文の詩の行数は『秋の瞳』の2/3以下の分量しかありません。『貧しき信徒』はその後の再刊本で詩編の配列、用字や送り仮名、かな使いの表記に刊本ごとの編者による見解から異同がありますが、ここでは用字を当用略字体に改めた他は詩編の配列、基本的な用字、かな使いとも加藤武雄による野菊社からの初版本の本文に従いました。詳しい案内は次回以降にして、今回はほとんど小冊子程度の行数しかない詩集『貧しき信徒』全編をご紹介します。
八木重吉詩集『貧しき信徒』
昭和3年(1928年)2月20日・野菊社刊
序
八木重吉君は私の再従兄弟である。曾て郷里の小学校で私の教え子であつた事もある。二三年前詩集『秋の瞳』を世に問ひ詩名を一部に知られてゐたが、昨年十月肺を病んで倒れた。行年三十。君の死の前、君から此の集の出版を嘱せられ、しかもいろ\/の故障の故にそれを果し得なかつた私は、今此の集を梓にのぼすに当り、感慨の云ふ可からざるものあるを覚ゆる。剣を墓木に掛けし古人の例(ためし)もあり、私は今、此書の成るを君が霊前に告げて、疎懶の罪を謝さうと思ふ。
君の詩が最近詩壇の一異彩たりしは識者の等しく知るところ、私は君が年少早く心を生死の大事に労し、まことに求道者の姿ありし事を思ひ出す。此の集の価値は、此の集それ自体が語るであらう。
昭和三年一月
市外砧村の草堂にて
加 藤 武 雄
貧 し き 信 徒
八 木 重 吉
母の瞳
ゆふぐれ
瞳をひらけば
ふるさとの母うへもまた
とおくみひとみをひらきたまひて
かあゆきものよといひたまふここちするなり
お月見
月に照らされると
月のひかりに
こころがうたれて
芋の洗つたのや
すすきや豆腐をならべたくなる
お月見だお月見だとさわぎたくなる
花がふつてくると思ふ
花がふつてくると思ふ
花がふつてくるとおもふ
この てのひらにうけとらうとおもふ
涙
つまらないから
あかるい陽(ひ)のなかにたつてなみだを
ながしてゐた
秋
こころがたかぶつてくる
わたしが花のそばへいつて咲けといへば
花がひらくとおもわれてくる
光
ひかりとあそびたい
わらつたり
哭(な)いたり
つきとばしあつたりしてあそびたい
母をおもふ
けしきが
あかるくなつてきた
母をつれて
てくてくあるきたくなつた
母はきつと
重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだらう
風が鳴る
とうもろこしに風が鳴る
死ねよと 鳴る
死ねよとなる
死んでゆかうとおもふ
こどもが病(や)む
こどもが せきをする
このせきを癒(なお)さうとおもふだけになる
じぶんの顔が
巨(おお)きな顔になつたやうな気がして
こどもの上に掩(おお)ひかぶさらうとする
ひびいてゆかう
おおぞらを
びんびんと ひびいてゆかう
美しくすてる
菊の芽をとり
きくの芽をすてる
うつくしくすてる
美しくみる
わたしの
かたはらにたち
わたしをみる
美しくみる
路(みち)
路をみれば
こころ おどる
かなかな
かなかなが 鳴く
こころは
むらがりおこり
やがて すべられて
ひたすらに 幼(をさな)く 澄む
山吹
山吹を おもへば
水のごとし
ある日
こころ
うつくしき日は
やぶれたるを
やぶれたりとせど かなしからず
妻を よび
児(こ)をよびて
かたりたはむる
憎しみ
にくしみに
花さけば
こころ おどらむ
夜
夜になると
からだも心もしづまつてくる
花のやうなものをみつめて無造作に
すわつてゐる
日が沈む
日はあかるいなかへ沈んではゆくが
みてゐる私の胸をうつてしづんでゆく
果物(くだもの)
秋になると
果物はなにもかも忘れてしまつて
うつとりと実のつてゆくらしい
壁
秋だ
草はすっかり色づいた
壁のところへいつて
じぶんのきもちにききいつてゐたい
赤い寝衣(ねまき)
湯あがりの桃子は赤いねまきを着て
おしやべりしながら
ふとんのあたりを跳ねまわつてゐた
まつ赤かなからだの上したへ手と足とがとびだして
くるつときりようのいい顔をのせ
ひよこひよこおどつてゐたが
もうしづかな障子のそばへねむつてゐる
奇蹟
癩病の男が
基督のところへ来て拝んでゐる
旦那
おめえ様が癒してやつてくれべいとせえ思やあ
わしの病気やすぐ癒りまさあ
旦那なおしておくんなせい
拝むから 旦那 癒してやつておくんなせい 旦那
基督は悲しいお顔をなさつた
そしてその男のからだへさはつて
よし さあ潔(きよ)くなれ
とお言ひになると
見てゐるまに癩病が癒つた
私
ながいこと病んでゐて
ふと非常に気持がよいので
人の見てないとこでふざけてみた
花
おとなしくして居ると
花花が咲くのねつて 桃子が云ふ
冬
木に眼(め)が生(な)つて人を見てゐる
不思議
こころが美しくなると
そこいらが
明るく かるげになつてくる
どんな不思議がうまれても
おどろかないとおもへてくる
はやく
不思議がうまれればいいなあとおもへてくる
人形
ねころんでいたらば
うまのりになつてゐた桃子が
そっとせなかへ人形をのせていつてしまつた
うたをうたひながらあつちへいつてしまつた
そのささやかな人形のおもみがうれしくて
はらばひになつたまま
胸をふくらませてみたりつぼめたりしてゐた
美しくあるく
こどもが
せつせつ せつせつ とあるく
すこしきたならしくあるく
そのくせ
ときどきちらつとうつくしくなる
悲しみ
かなしみと
わたしと
足をからませて たどたどとゆく
草をむしる
草をむしれば
あたりが かるくなつてくる
わたしが
草をむしつてゐるだけになつてくる
童(こども)
ちいさい童が
むこうをむいてとんでゆく
たもとを両手でひろげて かけてゆく
みてゐたらば
わくわくと たまらなくなつてきた
雨の日
雨が すきか
わたしはすきだ
うたを うたわう
蟻
蟻のごとく
ふはふはふは とゆくべきか
おほいなる蟻はかるくゆく
大山とんぼ
大山とんぼを 知つてるか
くろくて 巨(おお)きくて すごいようだ
けふ
昼 ひなか
くやしいことをきいたので
赤んぼを抱いてでたらば
大山とんぼが 路(みち)にうかんでた
みし みし とあつちへゆくので
わたしもぐんぐんくつついていつた
虫
虫が鳴いてる
いま ないておかなければ
もう駄目だというふうに鳴いてる
しぜんと
涙がさそわれる
あさがほ
あさがほを 見
死をおもひ
はかなきことをおもひ
萩(はぎ)
萩がすきか
わたしはすきだ
持つて 遊ばうか
水瓜(すいか)を喰わう
水瓜をくわう
水瓜のことをかんがへると
そこだけ明るく 光つたやうにおもわれる
はやく 喰わう
こうぢん虫
ふと
とつて 投げた
こうぢんむしをみてゐたらば
そのせなかは青く
はかないきもちになつてしまつた
春
桃子
お父ちやんはね
早く快(よ)くなってお前と遊びたいよ
春
雀をみてゐると
私は雀になりたくなつた
陽遊(かげろう)
さすがにもう春だ
気持も
とりとめの無いくらいゆるんできた
でも彼処(あそこ)にふるへながらたちのぼる
陽遊のやうな我慢しきれぬおもひもある
春
ほんとによく晴れた朝だ
桃子は窓をあけて首をだし
桃ちゃん いい子 いい子うよ
桃ちゃん いい子 いい子うよつて歌つてゐる
梅
梅を見にきたらば
まだ少ししか咲いてゐず
こまかい枝がうすうす光つてゐた
冬の夜
おおひどい風
もう子供等(ら)はねてゐる
私は吸入器を組み立ててくれる妻のほうをみながら
ほんとに早く快(よ)くなりたいと思つた
病気
からだが悪いので
自分のまはりが
ぐるつと薄くなつたようでたよりなく
桃子をそばへ呼んで話しをしてゐた
太陽
日をまともに見てゐるだけで
うれしいと思つてゐるときがある
石
ながい間からだが悪るく
うつむいて歩いてきたら
夕陽につつまれたひとつの小石がころがつてゐた
春
原へねころがり
なんにもない空を見てゐた
春
朝眼(め)を醒さまして
自分のからだの弱いこと
妻のこと子供達の行末のことをかんがへ
ぼろぼろ涙が出てとまらなかつた
春
黒い犬が
のつそり縁側のとこへ来て私を見てゐる
桜
綺麗な桜の花をみてゐると
そのひとすぢの気持ちにうたれる
神の道
自分が
この着物さへも脱いで
乞食のようになつて
神の道にしたがわなくてもよいのか
かんがへの末は必ずここへくる
冬
悲しく投げやりな気持でゐると
ものに驚かない
冬をうつくしいとだけおもつてゐる
冬日(ふゆび)
冬の日はうすいけれど
明るく
涙も出なくなつてしまった私をいたわつてくれる
森
日がひかりはじめたとき
森のなかをみてゐたらば
森の中に祭のやうに人をすひよせるものをかんじた
夕焼
あの夕焼のしたに
妻や桃子たちも待つてゐるだらうと
明るんだ道をたのしく帰つてきた
霜(しも)
地はうつくしい気持をはりきつて耐(こ)らへていた
その気持を草にも花にも吐けなかつた
とうとう肉をみせるようにはげしい霜をだした
冬
葉は赤くなり
うつくしさに耐へず落ちてしまつた
地はつめたくなり
霜をだして死ぬまいとしてゐる
日をゆびさしたい
うすら陽の空をみれば
日のところがあかるんでゐる
その日をゆびさしたくなる
心はむなしく日をゆびさしたくなる
雨
窓をあけて雨をみてゐると
なんにも要らないから
こうしておだやかなきもちでゐたいとおもふ
くろずんだ木
くろずんだ木をみあげると
むこうではわたしをみおろしてゐる
おまへはまた懐手(ふところで)してゐるのかといつてみおろしてゐる
障子(しょうじ)
あかるい秋がやつてきた
しずかな障子のそばへすりよつて
おとなしい子供のように
じつとあたりのけはひをたのしんでゐたい
桐(きり)の木
桐の木がすきか
わたしはすきだ
桐の木んとこへいこうか
ひかる人
私をぬぐらせてしまひ
そこのとこへひかるやうな人をたたせたい
木
はつきりと
もう秋だなとおもふころは
色色なものが好きになつてくる
あかるい日なぞ
大きな木のそばへ行つてゐたいきがする
踊(おどり)
冬になつて
こんな静かな日はめつたにない
桃子をつれて出たらば
櫟林(くぬぎばやし)のはづれで
子供はひとりでに踊りはじめた
両手をくくれた顎のあたりでまわしながら
毛糸の真紅(しんく)の頭布(ずきん)をかぶつて首をかしげ
しきりにひよこんひよこんやつてゐる
ふくらんで着こんだ着物に染めてある
鳳凰の赤い模様があかるい
きつく死をみつめた私のこころは
桃子がおどるのを見てうれしかつた
お化け
冬は
夜になると
うつすらした気持になる
お化けでも出そうな気がしてくる
素朴な琴
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだろう
響(ひびき)
秋はあかるくなりきつた
この明るさの奥に
しづかな響があるようにおもわれる
霧
霧がみなぎつてゐる
あさ日はあがつたらしい
つつましく心はたかぶつてくる
故郷(ふるさと)
心のくらい日に
ふるさとは祭のようにあかるんでおもわれる
こども
丘があって
はたけが あつて
ほそい木が
ひよろひよろつと まばらにはえてる
まるいような
春の ひるすぎ
きたないこどもが
くりくりと
めだまをむいて こっちをみてる
豚
この 豚だつて
かあいいよ
こんな 春だもの
いいけしきをすつて
むちゆうで あるいてきたんだもの
犬
もぢやもぢやの 犬が
桃子の
うんこを くつてしまつた
柿の葉
柿の葉は うれしい
死んでもいいといつてるふうな
みずからを無(な)みする
その ようすがいい
涙
めを つぶれば
あつい
なみだがでる
雲
あの 雲は くも
あのまつばやしも くも
あすこいらの
ひとびとも
雲であればいいなあ
お銭(あし)
さびしいから
お銭を いぢくつてる
水や草は いい方方(かたがた)である
はつ夏の
さむいひかげに田圃(たんぼ)がある
そのまわりに
ちさい ながれがある
草が 水のそばにはえてる
みいんな いいかたがたばかりだ
わたしみたいなものは
顔がなくなるようなきがした
天
天(てん)といふのは
あたまのうへの
みえる あれだ
神さまが
おいでなさるなら あすこだ
ほかにはゐない
秋のひかり
ひかりがこぼれてくる
秋のひかりは地におちてひろがる
このひかりのなかで遊ぼう
月
月にてらされると
ひとりでに遊びたくなつてくる
そつと涙をながしたり
にこにこしたりしておどりたくなる
かなしみ
かなしみを乳房のようにまさぐり
かなしみをはなれたら死のうとしてゐる
ふるさとの川
ふるさとの川よ
ふるさとの川よ
よい音をたててながれてゐるだらう
ふるさとの山
ふるさとの山をむねにうつし
ゆうぐれをたのしむ
顔
どこかに
本当に気にいつた顔はないのか
その顔をすたすたつと通りぬければ
じつにいい世界があるような気がする
夕焼
いま日が落ちて
赤い雲がちらばつてゐる
桃子と往還(おうかん)のところでながいこと見てゐた
冬の夜
皆が遊ぶやうな気持でつきあへたら
そいつが一番たのしからうとおもへたのが気にいつて
火鉢の灰を均(な)らしてみた
麗日(れいじつ)
桃子
また外へ出て
赤い茨(いばら)の実をとつて来ようか
冬
ながいこと考えこんで
きれいに諦めてしまつて外へ出たら
夕方ちかい樺色(かばいろ)の空が
つめたくはりつめた
雲の間に見えてほんとにうれしかつた
冬の野
死ぬことばかり考えているせいだらうか
枯れた茅(かや)のかげに
赤いやうなものを見たとおもつた
病床無題
人を殺すような詩はないか
無題
息吹き返させる詩はないか
無題
ナーニ 死ぬものかと
児(こ)の髪の毛をなぜてやつた
無題
赤いシドメのそばへ
によろによろつと
青大将を考へてみな
梅
眼がさめたやうに
梅にも梅自身の気持がわかつて来て
そう思ってゐるうちに花が咲いたのだらう
そして
寒い朝霜(しも)がでるように
梅自からの気持がそのまま香にもなるのだらう
雨
雨は土をうるほしてゆく
雨というもののそばにしやがんで
雨のすることをみてゐたい
木枯(こがらし)
風はひゆうひゆう吹いて来て
どこかで静まつてしまふ
無題
雪がふつてゐるとき
木の根元をみたら
面白い小人がふざけてゐるような気がする
無題
神様 あなたに会ひたくなつた
無題
夢の中の自分の顔と言ふものを始めて見た
発熱がいく日もつゞいた夜
私はキリストを念じてねむつた
一つの顔があらはれた
それはもちろん
現在私の顔でもなく
幼ない時の自分の顔でもなく
いつも心にゑがいてゐる
最も気高(けだか)い天使の顔でもなかつた
それよりももつとすぐれた顔であつた
その顔が自分の顔であるといふことはおのづから分つた
顔のまわりは金色をおびた暗黒であつた
翌朝眼がさめたとき
別段熱は下つてゐなかつた
しかし不思議に私の心は平らかだつた
(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(以下次回)
東京府南多摩郡堺村(現東京都町田市)生まれの英語教師・キリスト教徒の詩人、八木重吉(1898年=明治31年2月9日生、1927年=昭和2年10月26日没、享年29歳8か月)の第1詩集『秋の瞳』(1925年=大正14年8月1日・新潮社刊)については前回まで十数週に渡りご紹介しました。八木の生前刊行の詩集は『秋の瞳』だけに終わりましたが、八木は晩年1年半に渡る闘病生活中に『秋の瞳』編集完了の大正14年春~逝去半年前の昭和2年春までの新作から第2詩集『貧しき信徒』の編集を済ませて、第1詩集刊行時にも世話になった又従兄弟の小説家・編集者の加藤武雄に託していました。第2詩集『貧しき信徒』は全103編を収録し、編数では全117編と自序を収めた第1詩集『秋の瞳』より15編ほど少ないだけですが、短詩傾向は『秋の瞳』より進み本文の詩の行数は『秋の瞳』の2/3以下の分量しかありません。『貧しき信徒』はその後の再刊本で詩編の配列、用字や送り仮名、かな使いの表記に刊本ごとの編者による見解から異同がありますが、ここでは用字を当用略字体に改めた他は詩編の配列、基本的な用字、かな使いとも加藤武雄による野菊社からの初版本の本文に従いました。詳しい案内は次回以降にして、今回はほとんど小冊子程度の行数しかない詩集『貧しき信徒』全編をご紹介します。
八木重吉詩集『貧しき信徒』
昭和3年(1928年)2月20日・野菊社刊
序
八木重吉君は私の再従兄弟である。曾て郷里の小学校で私の教え子であつた事もある。二三年前詩集『秋の瞳』を世に問ひ詩名を一部に知られてゐたが、昨年十月肺を病んで倒れた。行年三十。君の死の前、君から此の集の出版を嘱せられ、しかもいろ\/の故障の故にそれを果し得なかつた私は、今此の集を梓にのぼすに当り、感慨の云ふ可からざるものあるを覚ゆる。剣を墓木に掛けし古人の例(ためし)もあり、私は今、此書の成るを君が霊前に告げて、疎懶の罪を謝さうと思ふ。
君の詩が最近詩壇の一異彩たりしは識者の等しく知るところ、私は君が年少早く心を生死の大事に労し、まことに求道者の姿ありし事を思ひ出す。此の集の価値は、此の集それ自体が語るであらう。
昭和三年一月
市外砧村の草堂にて
加 藤 武 雄
貧 し き 信 徒
八 木 重 吉
母の瞳
ゆふぐれ
瞳をひらけば
ふるさとの母うへもまた
とおくみひとみをひらきたまひて
かあゆきものよといひたまふここちするなり
お月見
月に照らされると
月のひかりに
こころがうたれて
芋の洗つたのや
すすきや豆腐をならべたくなる
お月見だお月見だとさわぎたくなる
花がふつてくると思ふ
花がふつてくると思ふ
花がふつてくるとおもふ
この てのひらにうけとらうとおもふ
涙
つまらないから
あかるい陽(ひ)のなかにたつてなみだを
ながしてゐた
秋
こころがたかぶつてくる
わたしが花のそばへいつて咲けといへば
花がひらくとおもわれてくる
光
ひかりとあそびたい
わらつたり
哭(な)いたり
つきとばしあつたりしてあそびたい
母をおもふ
けしきが
あかるくなつてきた
母をつれて
てくてくあるきたくなつた
母はきつと
重吉よ重吉よといくどでもはなしかけるだらう
風が鳴る
とうもろこしに風が鳴る
死ねよと 鳴る
死ねよとなる
死んでゆかうとおもふ
こどもが病(や)む
こどもが せきをする
このせきを癒(なお)さうとおもふだけになる
じぶんの顔が
巨(おお)きな顔になつたやうな気がして
こどもの上に掩(おお)ひかぶさらうとする
ひびいてゆかう
おおぞらを
びんびんと ひびいてゆかう
美しくすてる
菊の芽をとり
きくの芽をすてる
うつくしくすてる
美しくみる
わたしの
かたはらにたち
わたしをみる
美しくみる
路(みち)
路をみれば
こころ おどる
かなかな
かなかなが 鳴く
こころは
むらがりおこり
やがて すべられて
ひたすらに 幼(をさな)く 澄む
山吹
山吹を おもへば
水のごとし
ある日
こころ
うつくしき日は
やぶれたるを
やぶれたりとせど かなしからず
妻を よび
児(こ)をよびて
かたりたはむる
憎しみ
にくしみに
花さけば
こころ おどらむ
夜
夜になると
からだも心もしづまつてくる
花のやうなものをみつめて無造作に
すわつてゐる
日が沈む
日はあかるいなかへ沈んではゆくが
みてゐる私の胸をうつてしづんでゆく
果物(くだもの)
秋になると
果物はなにもかも忘れてしまつて
うつとりと実のつてゆくらしい
壁
秋だ
草はすっかり色づいた
壁のところへいつて
じぶんのきもちにききいつてゐたい
赤い寝衣(ねまき)
湯あがりの桃子は赤いねまきを着て
おしやべりしながら
ふとんのあたりを跳ねまわつてゐた
まつ赤かなからだの上したへ手と足とがとびだして
くるつときりようのいい顔をのせ
ひよこひよこおどつてゐたが
もうしづかな障子のそばへねむつてゐる
奇蹟
癩病の男が
基督のところへ来て拝んでゐる
旦那
おめえ様が癒してやつてくれべいとせえ思やあ
わしの病気やすぐ癒りまさあ
旦那なおしておくんなせい
拝むから 旦那 癒してやつておくんなせい 旦那
基督は悲しいお顔をなさつた
そしてその男のからだへさはつて
よし さあ潔(きよ)くなれ
とお言ひになると
見てゐるまに癩病が癒つた
私
ながいこと病んでゐて
ふと非常に気持がよいので
人の見てないとこでふざけてみた
花
おとなしくして居ると
花花が咲くのねつて 桃子が云ふ
冬
木に眼(め)が生(な)つて人を見てゐる
不思議
こころが美しくなると
そこいらが
明るく かるげになつてくる
どんな不思議がうまれても
おどろかないとおもへてくる
はやく
不思議がうまれればいいなあとおもへてくる
人形
ねころんでいたらば
うまのりになつてゐた桃子が
そっとせなかへ人形をのせていつてしまつた
うたをうたひながらあつちへいつてしまつた
そのささやかな人形のおもみがうれしくて
はらばひになつたまま
胸をふくらませてみたりつぼめたりしてゐた
美しくあるく
こどもが
せつせつ せつせつ とあるく
すこしきたならしくあるく
そのくせ
ときどきちらつとうつくしくなる
悲しみ
かなしみと
わたしと
足をからませて たどたどとゆく
草をむしる
草をむしれば
あたりが かるくなつてくる
わたしが
草をむしつてゐるだけになつてくる
童(こども)
ちいさい童が
むこうをむいてとんでゆく
たもとを両手でひろげて かけてゆく
みてゐたらば
わくわくと たまらなくなつてきた
雨の日
雨が すきか
わたしはすきだ
うたを うたわう
蟻
蟻のごとく
ふはふはふは とゆくべきか
おほいなる蟻はかるくゆく
大山とんぼ
大山とんぼを 知つてるか
くろくて 巨(おお)きくて すごいようだ
けふ
昼 ひなか
くやしいことをきいたので
赤んぼを抱いてでたらば
大山とんぼが 路(みち)にうかんでた
みし みし とあつちへゆくので
わたしもぐんぐんくつついていつた
虫
虫が鳴いてる
いま ないておかなければ
もう駄目だというふうに鳴いてる
しぜんと
涙がさそわれる
あさがほ
あさがほを 見
死をおもひ
はかなきことをおもひ
萩(はぎ)
萩がすきか
わたしはすきだ
持つて 遊ばうか
水瓜(すいか)を喰わう
水瓜をくわう
水瓜のことをかんがへると
そこだけ明るく 光つたやうにおもわれる
はやく 喰わう
こうぢん虫
ふと
とつて 投げた
こうぢんむしをみてゐたらば
そのせなかは青く
はかないきもちになつてしまつた
春
桃子
お父ちやんはね
早く快(よ)くなってお前と遊びたいよ
春
雀をみてゐると
私は雀になりたくなつた
陽遊(かげろう)
さすがにもう春だ
気持も
とりとめの無いくらいゆるんできた
でも彼処(あそこ)にふるへながらたちのぼる
陽遊のやうな我慢しきれぬおもひもある
春
ほんとによく晴れた朝だ
桃子は窓をあけて首をだし
桃ちゃん いい子 いい子うよ
桃ちゃん いい子 いい子うよつて歌つてゐる
梅
梅を見にきたらば
まだ少ししか咲いてゐず
こまかい枝がうすうす光つてゐた
冬の夜
おおひどい風
もう子供等(ら)はねてゐる
私は吸入器を組み立ててくれる妻のほうをみながら
ほんとに早く快(よ)くなりたいと思つた
病気
からだが悪いので
自分のまはりが
ぐるつと薄くなつたようでたよりなく
桃子をそばへ呼んで話しをしてゐた
太陽
日をまともに見てゐるだけで
うれしいと思つてゐるときがある
石
ながい間からだが悪るく
うつむいて歩いてきたら
夕陽につつまれたひとつの小石がころがつてゐた
春
原へねころがり
なんにもない空を見てゐた
春
朝眼(め)を醒さまして
自分のからだの弱いこと
妻のこと子供達の行末のことをかんがへ
ぼろぼろ涙が出てとまらなかつた
春
黒い犬が
のつそり縁側のとこへ来て私を見てゐる
桜
綺麗な桜の花をみてゐると
そのひとすぢの気持ちにうたれる
神の道
自分が
この着物さへも脱いで
乞食のようになつて
神の道にしたがわなくてもよいのか
かんがへの末は必ずここへくる
冬
悲しく投げやりな気持でゐると
ものに驚かない
冬をうつくしいとだけおもつてゐる
冬日(ふゆび)
冬の日はうすいけれど
明るく
涙も出なくなつてしまった私をいたわつてくれる
森
日がひかりはじめたとき
森のなかをみてゐたらば
森の中に祭のやうに人をすひよせるものをかんじた
夕焼
あの夕焼のしたに
妻や桃子たちも待つてゐるだらうと
明るんだ道をたのしく帰つてきた
霜(しも)
地はうつくしい気持をはりきつて耐(こ)らへていた
その気持を草にも花にも吐けなかつた
とうとう肉をみせるようにはげしい霜をだした
冬
葉は赤くなり
うつくしさに耐へず落ちてしまつた
地はつめたくなり
霜をだして死ぬまいとしてゐる
日をゆびさしたい
うすら陽の空をみれば
日のところがあかるんでゐる
その日をゆびさしたくなる
心はむなしく日をゆびさしたくなる
雨
窓をあけて雨をみてゐると
なんにも要らないから
こうしておだやかなきもちでゐたいとおもふ
くろずんだ木
くろずんだ木をみあげると
むこうではわたしをみおろしてゐる
おまへはまた懐手(ふところで)してゐるのかといつてみおろしてゐる
障子(しょうじ)
あかるい秋がやつてきた
しずかな障子のそばへすりよつて
おとなしい子供のように
じつとあたりのけはひをたのしんでゐたい
桐(きり)の木
桐の木がすきか
わたしはすきだ
桐の木んとこへいこうか
ひかる人
私をぬぐらせてしまひ
そこのとこへひかるやうな人をたたせたい
木
はつきりと
もう秋だなとおもふころは
色色なものが好きになつてくる
あかるい日なぞ
大きな木のそばへ行つてゐたいきがする
踊(おどり)
冬になつて
こんな静かな日はめつたにない
桃子をつれて出たらば
櫟林(くぬぎばやし)のはづれで
子供はひとりでに踊りはじめた
両手をくくれた顎のあたりでまわしながら
毛糸の真紅(しんく)の頭布(ずきん)をかぶつて首をかしげ
しきりにひよこんひよこんやつてゐる
ふくらんで着こんだ着物に染めてある
鳳凰の赤い模様があかるい
きつく死をみつめた私のこころは
桃子がおどるのを見てうれしかつた
お化け
冬は
夜になると
うつすらした気持になる
お化けでも出そうな気がしてくる
素朴な琴
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美くしさに耐へかね
琴はしづかに鳴りいだすだろう
響(ひびき)
秋はあかるくなりきつた
この明るさの奥に
しづかな響があるようにおもわれる
霧
霧がみなぎつてゐる
あさ日はあがつたらしい
つつましく心はたかぶつてくる
故郷(ふるさと)
心のくらい日に
ふるさとは祭のようにあかるんでおもわれる
こども
丘があって
はたけが あつて
ほそい木が
ひよろひよろつと まばらにはえてる
まるいような
春の ひるすぎ
きたないこどもが
くりくりと
めだまをむいて こっちをみてる
豚
この 豚だつて
かあいいよ
こんな 春だもの
いいけしきをすつて
むちゆうで あるいてきたんだもの
犬
もぢやもぢやの 犬が
桃子の
うんこを くつてしまつた
柿の葉
柿の葉は うれしい
死んでもいいといつてるふうな
みずからを無(な)みする
その ようすがいい
涙
めを つぶれば
あつい
なみだがでる
雲
あの 雲は くも
あのまつばやしも くも
あすこいらの
ひとびとも
雲であればいいなあ
お銭(あし)
さびしいから
お銭を いぢくつてる
水や草は いい方方(かたがた)である
はつ夏の
さむいひかげに田圃(たんぼ)がある
そのまわりに
ちさい ながれがある
草が 水のそばにはえてる
みいんな いいかたがたばかりだ
わたしみたいなものは
顔がなくなるようなきがした
天
天(てん)といふのは
あたまのうへの
みえる あれだ
神さまが
おいでなさるなら あすこだ
ほかにはゐない
秋のひかり
ひかりがこぼれてくる
秋のひかりは地におちてひろがる
このひかりのなかで遊ぼう
月
月にてらされると
ひとりでに遊びたくなつてくる
そつと涙をながしたり
にこにこしたりしておどりたくなる
かなしみ
かなしみを乳房のようにまさぐり
かなしみをはなれたら死のうとしてゐる
ふるさとの川
ふるさとの川よ
ふるさとの川よ
よい音をたててながれてゐるだらう
ふるさとの山
ふるさとの山をむねにうつし
ゆうぐれをたのしむ
顔
どこかに
本当に気にいつた顔はないのか
その顔をすたすたつと通りぬければ
じつにいい世界があるような気がする
夕焼
いま日が落ちて
赤い雲がちらばつてゐる
桃子と往還(おうかん)のところでながいこと見てゐた
冬の夜
皆が遊ぶやうな気持でつきあへたら
そいつが一番たのしからうとおもへたのが気にいつて
火鉢の灰を均(な)らしてみた
麗日(れいじつ)
桃子
また外へ出て
赤い茨(いばら)の実をとつて来ようか
冬
ながいこと考えこんで
きれいに諦めてしまつて外へ出たら
夕方ちかい樺色(かばいろ)の空が
つめたくはりつめた
雲の間に見えてほんとにうれしかつた
冬の野
死ぬことばかり考えているせいだらうか
枯れた茅(かや)のかげに
赤いやうなものを見たとおもつた
病床無題
人を殺すような詩はないか
無題
息吹き返させる詩はないか
無題
ナーニ 死ぬものかと
児(こ)の髪の毛をなぜてやつた
無題
赤いシドメのそばへ
によろによろつと
青大将を考へてみな
梅
眼がさめたやうに
梅にも梅自身の気持がわかつて来て
そう思ってゐるうちに花が咲いたのだらう
そして
寒い朝霜(しも)がでるように
梅自からの気持がそのまま香にもなるのだらう
雨
雨は土をうるほしてゆく
雨というもののそばにしやがんで
雨のすることをみてゐたい
木枯(こがらし)
風はひゆうひゆう吹いて来て
どこかで静まつてしまふ
無題
雪がふつてゐるとき
木の根元をみたら
面白い小人がふざけてゐるような気がする
無題
神様 あなたに会ひたくなつた
無題
夢の中の自分の顔と言ふものを始めて見た
発熱がいく日もつゞいた夜
私はキリストを念じてねむつた
一つの顔があらはれた
それはもちろん
現在私の顔でもなく
幼ない時の自分の顔でもなく
いつも心にゑがいてゐる
最も気高(けだか)い天使の顔でもなかつた
それよりももつとすぐれた顔であつた
その顔が自分の顔であるといふことはおのづから分つた
顔のまわりは金色をおびた暗黒であつた
翌朝眼がさめたとき
別段熱は下つてゐなかつた
しかし不思議に私の心は平らかだつた
(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(以下次回)