この分野はちょっと独特なので下手なことを書くと石が飛んできそうで怖いですが、特撮映画には特殊な愛好者層があって、一般映画の観客の感覚とは異なる評価基準が働いているらしく大らかなのかシビアなのかよくわからないところがあります。また特撮といってもどこからどこまでが線引きができない面があり、特撮映画のジャンルで明快なのはモンスター映画、またSF映画ですが特撮を使っていないモンスター映画やSF映画もある上に、特撮の有無以前にモンスター映画やSF映画の定義もあいまいとなれば(たとえば果たしてモンスター映画やSF映画と言えるのかよくわからない『大魔神』'66や『アルファヴィル』'65など)、境界線上の作品の方がむしろ増加している現在でもブランド力のある「ゴジラ」映画は今も新作が作られていますし、これからも延々作られていくのでしょう。本多猪四郎監督作品『ゴジラ』'54は当初1作きりの企画でしたが、同作の特大ヒットによって本多猪四郎をメイン監督に(8作)、数人の監督が携わりながら(小田基義監督1作、福田純監督5作、坂野義光監督1作)『メカゴジラの逆襲』'75まで15作が作られた人気シリーズになります。『メカゴジラの逆襲』は本多監督の劇映画最終作にもなりました。平成改元後に再び「ゴジラ」シリーズは製作されて「平成ゴジラ」シリーズと呼ばれるようになりますが、改元前の昭和59年に単発で『ゴジラ』'84(橋本幸治監督)があるものの『メカゴジラの逆襲』で一旦シリーズは終わった観が強いのも'54年~'75年の「ゴジラ」シリーズの大枠が本多猪四郎監督によるものだったからでしょう。「平成ゴジラ」シリーズに対して本多監督時代がゴジラは「昭和ゴジラ」シリーズで、'84年版『ゴジラ』はリニューアル作品として「平成ゴジラ」シリーズの方に含まれ、また「平成ゴジラ」の後に21世紀からは「ミレニアム・ゴジラ」シリーズ、次いで「2010年代ゴジラ」と数えてくると累計30作にもなるそうです。「昭和ゴジラ」シリーズは映画館、テレビ放映とも15作何度観たかわからず、大映の湯浅憲明(1933-2004)監督の「ガメラ」シリーズ('65年~'71年に7作)ともども夕食後に家族でテレビを観ていると毎月1、2本は怪獣映画をやっている定番みたいな放映頻度でした。筆者は怪獣映画とは離れる方に関心が向かったので、ゴジラ映画も、この後続いて観るガメラ映画もひさしぶりです。数合わせということでガメラ映画7本の前にまず先発のゴジラ映画を7本選んで観てみました。
●6月17日(日)
『ゴジラ』(東宝'54)*本多猪四郎監督, 97min, B/W; 昭和29年11月3日公開
○解説(キネマ旬報新作邦画紹介より) 放射能を扱った空想科学映画。脚色は「飛びだした日曜日」の村田武雄が監督と共同で当り、「さらばラバウル」の本多猪四郎が監督、「恋愛特急」の玉井正夫が撮影する。主なる出演者は「母の初恋」の志村喬、「水着の花嫁」の河内桃子と宝田明、「宮本武蔵(1954)」の平田昭彦らである。
○あらすじ(同上) 太平洋の北緯二十四度、東経百四十一度の地点で、次々と船舶が原因不明の沈没をした。新聞記者萩原(堺左千夫)は遭難地点に近い大戸島へヘリコプターで飛んだ。島では奇蹟的に一人だけ生残った政治(山本廉)が、海から出た巨大な怪物に火を吐きかけられて沈んだというが、誰一人信じない。只一人の老漁夫は昔からの云い伝えを信じ、近頃の不漁もその怪物が魚類を食い荒すせいだという。海中に食物がなくなれば、怪物は陸へ上って家畜や人間まで食べると伝えられている。萩原は信じなかったが、暴風雨の夜、果して怪物は島を襲って人家を破壊し、政治と母(馬野都留子)も一瞬に踏み潰された。国会は大戸島の被害と原因を確かめる調査団を派遣した。古生物学者山根博士(志村喬)を先頭に、その娘で助手の恵美子(河内桃子)、彼女の恋人サルベージ会社の尾形(宝田明)、原子物理学の田畑博士(村上冬樹)に萩原と政治の弟新吉(鈴木豊明)も加った。そして調査団は伝説の怪物が、悠々と巨大な姿を海中に没するのを見た。帰国した山根博士は二百万年前の海棲爬虫類から陸上獣類に進化する過程の生物ゴジラが、海底の洞窟にひそんで現代まで生存していたが、度々の水爆実験に生活環境を破壊されて移動し、而も水爆の放射能を蓄積して火を吐くのだと説明した。フリゲート艦が出動して爆雷を投下したが何の効果もなく、ゴジラは復讐するかの如く海上遥かに浮上り、東京に向って進んだ。直ちに対策本部が設けられた。山根博士の弟子芹沢(平田昭彦)は、恵美子を恋していたが戦争で傷けられて醜い顔になったのを恥じ、実験室にこもって研究を続けていた。ゴジラは東京に上陸し、品川駅を押し倒し、列車を引きちぎり、鉄橋を壊して海中へ去った。本部では海岸に五万ボルトの鉄条網をはり、都民は疎開を始めた。ゴジラは再び上陸し、鉄条網を寸断し戦車や重砲の攻撃を物ともせず、議事堂やテレビ塔を破壊し、一夜にして東京は惨澹たる街となった。芹沢の秘密の研究を知る恵美子は、それを尾形に打明けた。水中の酸素を一瞬に破壊して生物を窒息させる恐るべき発明である。現代の人間を信じない芹沢はこれが殺人武器に用いられることを恐れて資料を火に投じ、ただ一個の機械を持って自ら海中に身を没した。船上の人々は目のあたりゴジラの断末魔を見た。そして秘かな恋をすてて死んだ芹沢の為に黙祷を捧げた。
音響(怪生物の鳴き声)とテーマ・リフ(♭ミレド、♭ミレド、♭ミレドシドレ♭ミレド……)だけが流れるクレジット・タイトルのシンプルさ(東宝マークの次に1枚タイトルで黒地に白抜きで「ゴジラ」、先の鳴き声が鳴り響き続いて黒地に白抜きの横書きクレジット・ロールが流れる中、伊福部昭作曲の名高い5/4拍子のテーマ曲が続く)、被害のあった島の調査に古老からゴジラ伝承を聞き、嵐の晩に漁師母子の家が踏み潰されるのが15分目で、印象に残っているよりテンポ早かったのですね。また山越しに姿を現す初登場シーンの印象が強いけれどこの15分目でゴジラの足先だけが少し映り、志村喬の山根博士一行が調査を進めて残留放射能や三葉虫発見から22分目に「ジュラ期の生物だ」と志村喬が断定した途端に山越にゴジラの上半身が現れます。場面は国会討論に移り、山根博士説を巡って事実の秘匿か公表で(菅井きんの野党女性議員が公表派の先頭に立って檄を飛ばす)、餌場を求めて東京湾に潜むゴジラにフリゲート鑑が攻撃するがまったく効かずに出没をくり返します。志村喬の娘の河内桃子とその恋人の宝田明のやりとりから志村喬の弟子で河内桃子の元婚約者の科学者、戦時中から軍事化学兵器を研究している平田昭彦演じる芹沢博士を新聞社に頼まれて河内桃子が訪ねていくのが37分目で、化学兵器オキシジェン・デストロイヤーの金魚の水槽テストを平田昭彦に見せられて河内桃子が卒倒するのが42分目です。そして芹沢博士はどうだったと話す間もなく早くも45分目にゴジラが東京湾初上陸、マスコミ報道と人々の避難、鉄条網を張ってゴジラを高圧線感電死させる計画と自衛隊の出動、港区・品川区・大田区の完全退避命令が50分目に発令されながら、ゴジラ抹殺に対する学術的立場からの山根博士の反対と「ゴジラはわれわれに対する水爆の危機そのものじゃありませんか」との宝田明の口論があり、55分目にはゴジラはついに湾岸地区に上陸してあっさり高圧線鉄条網を破壊、60分目には芝浦地区の戦車隊を全滅させ地区全域を火炎噴射で全焼させます。鉄塔を炎で溶かし、銀座一帯を炎上破壊し、倒壊したビルの陰で少年と少女を連れた母親が子供たちを抱きしめ座り込んで「もうすぐお父ちゃんの所へいくのよ」が63分目、「この放送を続けるのも最後であります。それではさようなら」とアナウンサー(橘正晃)が中継する電波塔が倒されるのが66分目。名場面連発です。一夜明けで廃墟になった街並みがぐるりと映り、母親を亡くした女児が号泣する仮設医療所で河内桃子が訪ねてきた宝田明に語る芹沢博士のオキシジェン・デストロイヤーの秘密がフラッシュバックで明かされるのが70分目からの5分間。宝田明は河内桃子とともに平田昭彦にオキシジェン・デストロイヤーの使用を要請しにいくのが77分目ですが、兵器としてのオキシジェン・デストロイヤーの悪用の危険性を説く芹沢博士は聞き入れません。そこにラジオ中継で女学生たちの祈りの歌が被災者たちの映像と女学生たちの斉唱の光景とともに流れ、芹沢博士は「君たちの勝利だ。オキシジェン・デストロイヤーを使用するのは1回限りだ」と文書を燃やします。85分目、船上の芹沢博士は完全な使用は水中操作が不可欠と自衛隊鑑から衆目の中、宝田明ととともに潜水服を着て東京湾海底に降り、ゴジラを目視しますが、宝田明のバラストを切って浮上させオキシジェン・デストロイヤーを使用、もがき苦しむゴジラに「大成功だ」と自分の命綱と空気管を切断。宝田明は芹沢博士の綱が切断されているのに気付いて絶叫します。ゴジラは海面に浮上した後、沈みながら白骨化します。「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。またいつか他のゴジラがどこかに現れてくるかもしれない」と志村喬がつぶやき、河内桃子が嗚咽して、海洋の映像で映画は終わります。
志村喬がさすがの存在感(この年は『七人の侍』の主演と同年)以外は主要キャストの俳優が下手でつらいですが、かえってエキストラの方にリアリティがあるのは本作の場合映画の意図がはっきりする効果になっています。関東大震災(1923年=大正12年)も先にありますがこの映画の東京壊滅は直接には'44年(昭和19年)の東京大空襲の再現で、製作者たちも出演者たちもそれはしっかりわかっているのが端々から伝わってくるので、ただただおろおろと大八車に家財道具を積んだり大風呂敷を背負ったり逃げ遅れたりするエキストラは生彩を放っていて、逆にドラマらしいドラマをしなければならない主要キャストは浮いて見えてきます。話の筋としては最強の化学兵器を作り上げた天才科学者役の平田昭彦の主張はもっともで要ともなっているテーマですが、女学生たちの合唱(!)のラジオ放送を聴いて、というのがそのまま敗戦末期の再現のようなあまりに神頼み的な日本人の哀れっぽさに自己犠牲精神を喚起される一種の特攻精神を感じさせて映画の辻褄は合っていても嫌な感じがしますし、志村喬の最後の台詞のように「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。またいつか他のゴジラが……」とまで平田昭彦の考えが及んでいたら最終兵器の秘密ごと自爆するような末期は選ばなかったでしょう。またオキシジェン・デストロイヤーの効果は河内桃子しか証言者がいないのに対ゴジラ作戦の最終兵器としてすんなり採用されているのも都合良すぎますが、そこら辺を描くと平田昭彦の自決に持っていけない。オキシジェン・デストロイヤーの秘密を開示せよという話になってしまうのでそういう都合の悪いところはすっ飛ばした脚本になっています。しかし本作は観直すたびにこんなにテンポ良かったっけと感心する渋滞のない筋運びで、記憶の中ではのろいテンポの映画に変化するのですが実際観直すとあれよあれよという間に事件が展開します。15分目に嵐の夜中にゴジラが島の民家襲撃、22分目に山越しに上半身登場、というのも今回メモを採りながら観てそんなに早かったんだと驚いたくらいで、時間を意識せず観ているとゴジラの出現までが不穏な雰囲気で重々しく進むので映画の中盤になってようやく姿を現したような印象を残します。もっと精密に観ればこの映画の時間の進み方はどこか不均衡なところがあり、ゴジラの東京上陸から結末に退治されるまで(しかしあれでは東京湾中が死の海で、オキシジェン・デストロイヤーの波及範囲や半減・収束期がまったく説明されていないのも映画ならではの都合良さですが)いったい何日間の出来事なのかよくわからない。何しろ放射能汚染まで撒き散らす怪獣ですから避難が間に合わなかったり動けない負傷者たちはほぼ二次汚染で絶望的で、食糧・医療品含め輸送網ごと遮断されていると思われる状況ですから長く見ても1週間、またアメリカと皇居については言及を避けているのも昭和29年の制約で、昭和59年版ゴジラでは本州を北上するゴジラが北方領土に侵攻する前にソ連邦がゴジラをミサイル攻撃する情報が入り、アメリカにソ連からのミサイルの対空ミサイルを依頼するとんでもない展開でした。東宝はもともと軍部とのパイプが太かった映画社でしたから、ゴジラ映画も後には自衛隊の協力を仰ぐ製作になったので、'54年版『ゴジラ』を反戦反核(これはプロデューサー、監督とも表明していました)・反米映画として見る見方も批評家の間ではある一方、同じ東宝の『七人の侍』は自衛隊擁護映画ではないかという批判が公開当時からあったようです。もし反戦反核映画なら『ゴジラ』は徹底していないのは暗喩的にしか先進諸国(ただし日本だけは禁じられている)の核開発競争批判を暗示できなかったからでもあり、暗示にとどめていたからこそシンプルに恐怖映画の次元での怪獣映画が仕上がったとも言えて、今ではこういう話も政治・軍事的シュミレーション抜きにはリアリティを持って描けなくなっている、と製作者や観客も当たり前のように考えるようになっている。そういう世知辛さ抜きに空襲の恐怖、という当時の日本人の共通体験で成り立った強みがオリジナル『ゴジラ』にはあって、こればかりは本作1回限りのアイディアだったのもうなずけます。また表現上の制約の中でも、日本人の体験したこの悲惨さだけは描きたかったという製作者側の強い意図が込められているのが観客にも伝わってくる点は突っ込みどころだらけの内容を補ってあまりあり、何より「ゴジラ」という怪獣を創造したのが着ぐるみ怪獣の手法の導入とともに『キング・コング』'33以来のショッキングなモンスター映画になっていて、続くシリーズ作品と決定的に切れています。それだけで十分なのは皆さんご存知の通りでしょう。
●6月18日(月)
『ゴジラの逆襲』(東宝'55)*小田基義(1909-1973)監督, 82min, B/W; 昭和30年4月24日公開
○解説(キネマ旬報邦画映画紹介より) 空想科学冒険映画「ゴジラ」の続篇でゴジラの他にアンギラスという暴竜が登場する。原作は「ゴジラ」の香山滋。「透明人間」の日高繁明と「ゴジラ」の村田武雄の脚本を「透明人間」の小田基義が監督し、「あんみつ姫」の遠藤精一が撮影に、「ゴジラ」の円谷英二が特技監督に当る。出演者は「月に飛ぶ雁」の小泉博、「大番頭小番頭(1955)」の若山セツ子、「地獄の用心棒」の千秋実、「麦笛」の志村喬、「川のある下町の話」の木匠マユリのほかに清水将夫、笈川武夫、笠間雪雄など。
○あらすじ(同上) A漁業の飛行艇の操縦士月岡(小泉博)は、故障で岩戸島附近に不時着した同僚小林(千秋実)の救援に向った。軽傷の小林を励ましていると突然ゴジラが現れて、二人に襲い掛ろうとした時、さらに巨大な怪獣が現われ両者は格闘しつゝ海中に没した。報告を受けた大阪警視総監は動物学者山根(志村喬)・田所(清水将夫)両博士、防衛庁幹部と緊急会議を開いた。田所は怪獣は水爆実験で眼覚めたアンギラス、学名アンキロサウルスと推定した。アンギラスは約一億五千年前の巨竜で脳髄が数ヵ所に分散し、敏捷で兇暴な獣である。防衛隊は行動を開始したが、ゴジラは四国南岸に向い大阪は一応危機を脱した。月岡が恋人の社長令嬢秀美(若山セツ子)と踊りに行った時、ゴジラの大阪湾接近が報じられた。月岡等が照明弾を投下しゴジラを沖へ誘き出す事に成功しかけたが、脱走した囚人の起した大爆発の為にゴジラは再び大阪へ向った。その時沖からアンギラスが現われ再び格闘を始め、ついに勝ったゴジラの吹く白熱光は附近を焼き払った。本社と工場を失ったA漁業は社長(笠間雪雄)以下全員北海道支社へ移った。ゴジラの為に沈没した会社の船の捜索隊は孤島神子島にゴジラを発見した。投下する爆弾にも動じないゴジラに小林は体当りを試みたが、白熱光に機を焼かれ氷の山肌に激突しその為に起った雪崩はゴジラの進路を阻んだ。ヒントを得た月岡等の飛行機隊は山脈にロケット弾を投下し、ゴジラは大きな咆哮を残してその大雪崩の底に埋った。
本作は東宝マークの次のタイトルも上空に流れる雲をバックに縦書きの1枚タイトルが続き、佐藤勝の音楽も軽快なのでだいぶ雰囲気が違います。無線で連絡を取り合う漁業会社の飛行機操縦士月岡(小泉博)と小林(千秋実)の交信から始まり、無線係から故障して岩戸島に降りた小林の救出に向かった二人は岩陰からゴジラを目撃し、ゴジラを背後から襲って海中に没するもう一匹の怪獣を目撃します。ゴジラ登場まで8分、もう一匹と海中に消えるまで10分目で、次は対策本部で二人の証言からもう一匹はゴジラと同じジュラ期の恐竜のアンキロザウルス、略称アンギラスが放射能実験の結果覚醒・変異したものと推定され、先に倒したゴジラの映像から2匹目のゴジラ出現への対策会議が進みます。対策本部にゴジラ発見の報が入るのが20分目。四国に警報が発布されて大阪の新聞に「大阪は安心」と見出しますが載りますが、ダンスホールの場景から大阪の湾岸に進路を変えたゴジラが接近中との警報が流れるのが25分目。夜行性かつ光に向かうゴジラの性質から大阪には徹底した灯火管制が敷かれて沖の外に照明弾を投下しゴジラが離れて行くのを待つ計画が取られますが、囚人たちが押送車を乗っ取り逃走するのが30分目、その車がガスタンク(?)に衝突して大爆発と大火災を起こしてゴジラ、そしてゴジラを追ってきたアンギラスが大阪に上陸するのが35分目で、この2頭の戦闘は低速撮影で速いコマ送りでくんずほぐれつし、もつれあったまま大阪城をぶっ壊してアンギラスを倒しゴジラが周囲一面を焼き払うのが45分目です。その後はヒロイン役の社長令嬢、若山セツ子が婚約者で主人公の飛行士、月岡を演じる小泉博が、ヒロインの父の漁業会社の再建に同僚で親友の小林役の千秋実を始めとした会社の同僚たちとだらだら飲み会などをやっているのが15分間続き、ゴジラ発見の報告から小泉博が捜査に出るのがようやく60分目で、ほとんど緊張感もないままゴジラを発見し千秋実が応援に飛び、通報された防衛隊(自衛隊ではなくこう呼ばれます)から爆撃隊が飛び立つのが65分目、氷山に上陸したゴジラを爆撃するが一向に効かず、ゴジラの気を引こうと向かって行った千秋実の飛行機がゴジラの火炎で墜落するのが70分目、その時起きた雪崩がゴジラの足元を遮ったことから思いつき、防衛隊が氷山の雪山にゴジラを埋める作戦を計画し決行するのが75分目からで、5分以上かけてまるで進まずゴジラの足元に雪が積もっているだけのショットがいきなり首まで雪(というか氷塊)に埋もれているゴジラの姿になり、主人公がとどめのミサイル発射でゴジラを埋めて一同「ばんざーい!」。主人公「小林、とうとうゴジラをやっつけたぞ」、氷山の全景、映画終わり。
その昔に観てほとんど憶えていなかったことでは昭和ゴジラで一番印象稀薄だった作品だけに観直す期待値も高いか低いかわからないで観直した本作。いやー、メモを採りながら観直したのは今回が初めてでしたが、シリーズ中でももっとも地味(B/W、スタンダード・サイズだし)と言われるこの『ゴジラの逆襲』、本多監督は別作品のスケジュールの都合で手がけられなかったのが残念とも本多監督が撮っても変わらなかったのではないかと思われるくらい、まず脚本からして駄目、というか第1作『ゴジラ』の好評で第2作をと同じ原作者の香山滋に依頼し、香山滋書き下ろし原作のゴジラは『ゴジラ』と本作の2作きりということで、東宝がキング・コングの版権を取得したことから製作された7年後の第3作『キング・コング対ゴジラ』'62(タイトルがキング・コングの方が先)の特大ヒットから自社の怪獣映画路線のヒット作『モスラ』'61と対決の対決路線が定着した第4作『モスラ対ゴジラ』'64(やはりモスラの方が先)からは毎年のようにゴジラ映画が製作されていくのですが、そういう意味では純粋な『ゴジラ』の続編は本作だけになるので、志村喬も「やはり二匹目のゴジラが出てきたか」というような台詞を言うためだけに出てきます。また芹沢博士みたいな天才科学者が出てくる設定・展開ではないために(続編にまで新たな対ゴジラ用最終兵器の開発者を出すと不自然、としたのかもしれませんが)本作の二代目ゴジラは生死不明の結末を迎えます。「やっつけたぞ」あのくらいで死ぬゴジラじゃなかろうに、と観客も突っ込んだと思いますが、『ゴジラ』では東京湾の海中で白骨化したゴジラに「罪もない動物をなぜ殺すのか」(あれだけ害をなせば当然だと思いますが)と観客からの同情の反響もあったそうなので、あえて生死不明の退治法を考案したならあれはあれですが、ゴジラがアンギラスを噛み殺すのがまだ中盤、これもそれなりに趣向で、アンギラスは四肢歩行ですし飛び道具的な攻撃法もない恐竜ですから、ゴジラの喉を狙って噛みつくのが唯一の戦法なので、ゴジラもアンギラスの空いた喉笛を狙う、そういう地味な戦いをするので長編映画を引っ張るにはきつい組み合わせだったと言えます。監督の小田基義は東宝の前身、戦前のPCL撮影所時代からの監督で他に観たことのある映画はトニー谷主演の『家庭の事情』シリーズ4作('54年)、『透明人間』'54くらいですがほとんど記憶がないもののそこそこ面白かった覚えがあるものの、本作は原作もいまいちならば脚本もまずく、演出ときたらスッカスカではないでしょうか。本多猪四郎もうまい監督という感じはしませんが『ゴジラ』では共同脚本で(いろいろ突っ込み所はあれど、画面は)きちっと仕上げていたのに較べ、本作の緊迫感のなさ・密度の薄さはこんなのでよく封切ったなと大らかさすら感じるほどで、千秋実の殉死のあっけなさといい(そもそもなぜ漁業会社の民間機がゴジラ追跡を率先しているか、自社の船舶の行方不明が発端としても無理な設定ですが)、ゴジラを埋めるための氷山粉砕が一向功を奏さないのに次のカットではすでに首まで氷塊に埋まっている(ズボッと足元が抜けたようにも見えない)など、試写段階で再撮影は間に合わないにしてもせめて再編集命令は出なかったのか。出なかったようです。ゴジラがアンギラスを倒した後で主人公の会社の宴会が15分間続くのがこの映画に必要だったのか。明らかに不要です。『ゴジラ』の観客動員数961万人、興行収入1億6,000万円に対して本作は観客動員数834万人、興行収入1億7,000万円というデータが残っていますが、何かこれ、蛇足を越えてもうゴジラの続編作らないぞという東宝から観客へのメッセージだったのではないかとすら思えてくるのです。
●6月17日(日)
『ゴジラ』(東宝'54)*本多猪四郎監督, 97min, B/W; 昭和29年11月3日公開
○解説(キネマ旬報新作邦画紹介より) 放射能を扱った空想科学映画。脚色は「飛びだした日曜日」の村田武雄が監督と共同で当り、「さらばラバウル」の本多猪四郎が監督、「恋愛特急」の玉井正夫が撮影する。主なる出演者は「母の初恋」の志村喬、「水着の花嫁」の河内桃子と宝田明、「宮本武蔵(1954)」の平田昭彦らである。
○あらすじ(同上) 太平洋の北緯二十四度、東経百四十一度の地点で、次々と船舶が原因不明の沈没をした。新聞記者萩原(堺左千夫)は遭難地点に近い大戸島へヘリコプターで飛んだ。島では奇蹟的に一人だけ生残った政治(山本廉)が、海から出た巨大な怪物に火を吐きかけられて沈んだというが、誰一人信じない。只一人の老漁夫は昔からの云い伝えを信じ、近頃の不漁もその怪物が魚類を食い荒すせいだという。海中に食物がなくなれば、怪物は陸へ上って家畜や人間まで食べると伝えられている。萩原は信じなかったが、暴風雨の夜、果して怪物は島を襲って人家を破壊し、政治と母(馬野都留子)も一瞬に踏み潰された。国会は大戸島の被害と原因を確かめる調査団を派遣した。古生物学者山根博士(志村喬)を先頭に、その娘で助手の恵美子(河内桃子)、彼女の恋人サルベージ会社の尾形(宝田明)、原子物理学の田畑博士(村上冬樹)に萩原と政治の弟新吉(鈴木豊明)も加った。そして調査団は伝説の怪物が、悠々と巨大な姿を海中に没するのを見た。帰国した山根博士は二百万年前の海棲爬虫類から陸上獣類に進化する過程の生物ゴジラが、海底の洞窟にひそんで現代まで生存していたが、度々の水爆実験に生活環境を破壊されて移動し、而も水爆の放射能を蓄積して火を吐くのだと説明した。フリゲート艦が出動して爆雷を投下したが何の効果もなく、ゴジラは復讐するかの如く海上遥かに浮上り、東京に向って進んだ。直ちに対策本部が設けられた。山根博士の弟子芹沢(平田昭彦)は、恵美子を恋していたが戦争で傷けられて醜い顔になったのを恥じ、実験室にこもって研究を続けていた。ゴジラは東京に上陸し、品川駅を押し倒し、列車を引きちぎり、鉄橋を壊して海中へ去った。本部では海岸に五万ボルトの鉄条網をはり、都民は疎開を始めた。ゴジラは再び上陸し、鉄条網を寸断し戦車や重砲の攻撃を物ともせず、議事堂やテレビ塔を破壊し、一夜にして東京は惨澹たる街となった。芹沢の秘密の研究を知る恵美子は、それを尾形に打明けた。水中の酸素を一瞬に破壊して生物を窒息させる恐るべき発明である。現代の人間を信じない芹沢はこれが殺人武器に用いられることを恐れて資料を火に投じ、ただ一個の機械を持って自ら海中に身を没した。船上の人々は目のあたりゴジラの断末魔を見た。そして秘かな恋をすてて死んだ芹沢の為に黙祷を捧げた。
音響(怪生物の鳴き声)とテーマ・リフ(♭ミレド、♭ミレド、♭ミレドシドレ♭ミレド……)だけが流れるクレジット・タイトルのシンプルさ(東宝マークの次に1枚タイトルで黒地に白抜きで「ゴジラ」、先の鳴き声が鳴り響き続いて黒地に白抜きの横書きクレジット・ロールが流れる中、伊福部昭作曲の名高い5/4拍子のテーマ曲が続く)、被害のあった島の調査に古老からゴジラ伝承を聞き、嵐の晩に漁師母子の家が踏み潰されるのが15分目で、印象に残っているよりテンポ早かったのですね。また山越しに姿を現す初登場シーンの印象が強いけれどこの15分目でゴジラの足先だけが少し映り、志村喬の山根博士一行が調査を進めて残留放射能や三葉虫発見から22分目に「ジュラ期の生物だ」と志村喬が断定した途端に山越にゴジラの上半身が現れます。場面は国会討論に移り、山根博士説を巡って事実の秘匿か公表で(菅井きんの野党女性議員が公表派の先頭に立って檄を飛ばす)、餌場を求めて東京湾に潜むゴジラにフリゲート鑑が攻撃するがまったく効かずに出没をくり返します。志村喬の娘の河内桃子とその恋人の宝田明のやりとりから志村喬の弟子で河内桃子の元婚約者の科学者、戦時中から軍事化学兵器を研究している平田昭彦演じる芹沢博士を新聞社に頼まれて河内桃子が訪ねていくのが37分目で、化学兵器オキシジェン・デストロイヤーの金魚の水槽テストを平田昭彦に見せられて河内桃子が卒倒するのが42分目です。そして芹沢博士はどうだったと話す間もなく早くも45分目にゴジラが東京湾初上陸、マスコミ報道と人々の避難、鉄条網を張ってゴジラを高圧線感電死させる計画と自衛隊の出動、港区・品川区・大田区の完全退避命令が50分目に発令されながら、ゴジラ抹殺に対する学術的立場からの山根博士の反対と「ゴジラはわれわれに対する水爆の危機そのものじゃありませんか」との宝田明の口論があり、55分目にはゴジラはついに湾岸地区に上陸してあっさり高圧線鉄条網を破壊、60分目には芝浦地区の戦車隊を全滅させ地区全域を火炎噴射で全焼させます。鉄塔を炎で溶かし、銀座一帯を炎上破壊し、倒壊したビルの陰で少年と少女を連れた母親が子供たちを抱きしめ座り込んで「もうすぐお父ちゃんの所へいくのよ」が63分目、「この放送を続けるのも最後であります。それではさようなら」とアナウンサー(橘正晃)が中継する電波塔が倒されるのが66分目。名場面連発です。一夜明けで廃墟になった街並みがぐるりと映り、母親を亡くした女児が号泣する仮設医療所で河内桃子が訪ねてきた宝田明に語る芹沢博士のオキシジェン・デストロイヤーの秘密がフラッシュバックで明かされるのが70分目からの5分間。宝田明は河内桃子とともに平田昭彦にオキシジェン・デストロイヤーの使用を要請しにいくのが77分目ですが、兵器としてのオキシジェン・デストロイヤーの悪用の危険性を説く芹沢博士は聞き入れません。そこにラジオ中継で女学生たちの祈りの歌が被災者たちの映像と女学生たちの斉唱の光景とともに流れ、芹沢博士は「君たちの勝利だ。オキシジェン・デストロイヤーを使用するのは1回限りだ」と文書を燃やします。85分目、船上の芹沢博士は完全な使用は水中操作が不可欠と自衛隊鑑から衆目の中、宝田明ととともに潜水服を着て東京湾海底に降り、ゴジラを目視しますが、宝田明のバラストを切って浮上させオキシジェン・デストロイヤーを使用、もがき苦しむゴジラに「大成功だ」と自分の命綱と空気管を切断。宝田明は芹沢博士の綱が切断されているのに気付いて絶叫します。ゴジラは海面に浮上した後、沈みながら白骨化します。「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。またいつか他のゴジラがどこかに現れてくるかもしれない」と志村喬がつぶやき、河内桃子が嗚咽して、海洋の映像で映画は終わります。
志村喬がさすがの存在感(この年は『七人の侍』の主演と同年)以外は主要キャストの俳優が下手でつらいですが、かえってエキストラの方にリアリティがあるのは本作の場合映画の意図がはっきりする効果になっています。関東大震災(1923年=大正12年)も先にありますがこの映画の東京壊滅は直接には'44年(昭和19年)の東京大空襲の再現で、製作者たちも出演者たちもそれはしっかりわかっているのが端々から伝わってくるので、ただただおろおろと大八車に家財道具を積んだり大風呂敷を背負ったり逃げ遅れたりするエキストラは生彩を放っていて、逆にドラマらしいドラマをしなければならない主要キャストは浮いて見えてきます。話の筋としては最強の化学兵器を作り上げた天才科学者役の平田昭彦の主張はもっともで要ともなっているテーマですが、女学生たちの合唱(!)のラジオ放送を聴いて、というのがそのまま敗戦末期の再現のようなあまりに神頼み的な日本人の哀れっぽさに自己犠牲精神を喚起される一種の特攻精神を感じさせて映画の辻褄は合っていても嫌な感じがしますし、志村喬の最後の台詞のように「あのゴジラが最後の一匹とは思えない。またいつか他のゴジラが……」とまで平田昭彦の考えが及んでいたら最終兵器の秘密ごと自爆するような末期は選ばなかったでしょう。またオキシジェン・デストロイヤーの効果は河内桃子しか証言者がいないのに対ゴジラ作戦の最終兵器としてすんなり採用されているのも都合良すぎますが、そこら辺を描くと平田昭彦の自決に持っていけない。オキシジェン・デストロイヤーの秘密を開示せよという話になってしまうのでそういう都合の悪いところはすっ飛ばした脚本になっています。しかし本作は観直すたびにこんなにテンポ良かったっけと感心する渋滞のない筋運びで、記憶の中ではのろいテンポの映画に変化するのですが実際観直すとあれよあれよという間に事件が展開します。15分目に嵐の夜中にゴジラが島の民家襲撃、22分目に山越しに上半身登場、というのも今回メモを採りながら観てそんなに早かったんだと驚いたくらいで、時間を意識せず観ているとゴジラの出現までが不穏な雰囲気で重々しく進むので映画の中盤になってようやく姿を現したような印象を残します。もっと精密に観ればこの映画の時間の進み方はどこか不均衡なところがあり、ゴジラの東京上陸から結末に退治されるまで(しかしあれでは東京湾中が死の海で、オキシジェン・デストロイヤーの波及範囲や半減・収束期がまったく説明されていないのも映画ならではの都合良さですが)いったい何日間の出来事なのかよくわからない。何しろ放射能汚染まで撒き散らす怪獣ですから避難が間に合わなかったり動けない負傷者たちはほぼ二次汚染で絶望的で、食糧・医療品含め輸送網ごと遮断されていると思われる状況ですから長く見ても1週間、またアメリカと皇居については言及を避けているのも昭和29年の制約で、昭和59年版ゴジラでは本州を北上するゴジラが北方領土に侵攻する前にソ連邦がゴジラをミサイル攻撃する情報が入り、アメリカにソ連からのミサイルの対空ミサイルを依頼するとんでもない展開でした。東宝はもともと軍部とのパイプが太かった映画社でしたから、ゴジラ映画も後には自衛隊の協力を仰ぐ製作になったので、'54年版『ゴジラ』を反戦反核(これはプロデューサー、監督とも表明していました)・反米映画として見る見方も批評家の間ではある一方、同じ東宝の『七人の侍』は自衛隊擁護映画ではないかという批判が公開当時からあったようです。もし反戦反核映画なら『ゴジラ』は徹底していないのは暗喩的にしか先進諸国(ただし日本だけは禁じられている)の核開発競争批判を暗示できなかったからでもあり、暗示にとどめていたからこそシンプルに恐怖映画の次元での怪獣映画が仕上がったとも言えて、今ではこういう話も政治・軍事的シュミレーション抜きにはリアリティを持って描けなくなっている、と製作者や観客も当たり前のように考えるようになっている。そういう世知辛さ抜きに空襲の恐怖、という当時の日本人の共通体験で成り立った強みがオリジナル『ゴジラ』にはあって、こればかりは本作1回限りのアイディアだったのもうなずけます。また表現上の制約の中でも、日本人の体験したこの悲惨さだけは描きたかったという製作者側の強い意図が込められているのが観客にも伝わってくる点は突っ込みどころだらけの内容を補ってあまりあり、何より「ゴジラ」という怪獣を創造したのが着ぐるみ怪獣の手法の導入とともに『キング・コング』'33以来のショッキングなモンスター映画になっていて、続くシリーズ作品と決定的に切れています。それだけで十分なのは皆さんご存知の通りでしょう。
●6月18日(月)
『ゴジラの逆襲』(東宝'55)*小田基義(1909-1973)監督, 82min, B/W; 昭和30年4月24日公開
○解説(キネマ旬報邦画映画紹介より) 空想科学冒険映画「ゴジラ」の続篇でゴジラの他にアンギラスという暴竜が登場する。原作は「ゴジラ」の香山滋。「透明人間」の日高繁明と「ゴジラ」の村田武雄の脚本を「透明人間」の小田基義が監督し、「あんみつ姫」の遠藤精一が撮影に、「ゴジラ」の円谷英二が特技監督に当る。出演者は「月に飛ぶ雁」の小泉博、「大番頭小番頭(1955)」の若山セツ子、「地獄の用心棒」の千秋実、「麦笛」の志村喬、「川のある下町の話」の木匠マユリのほかに清水将夫、笈川武夫、笠間雪雄など。
○あらすじ(同上) A漁業の飛行艇の操縦士月岡(小泉博)は、故障で岩戸島附近に不時着した同僚小林(千秋実)の救援に向った。軽傷の小林を励ましていると突然ゴジラが現れて、二人に襲い掛ろうとした時、さらに巨大な怪獣が現われ両者は格闘しつゝ海中に没した。報告を受けた大阪警視総監は動物学者山根(志村喬)・田所(清水将夫)両博士、防衛庁幹部と緊急会議を開いた。田所は怪獣は水爆実験で眼覚めたアンギラス、学名アンキロサウルスと推定した。アンギラスは約一億五千年前の巨竜で脳髄が数ヵ所に分散し、敏捷で兇暴な獣である。防衛隊は行動を開始したが、ゴジラは四国南岸に向い大阪は一応危機を脱した。月岡が恋人の社長令嬢秀美(若山セツ子)と踊りに行った時、ゴジラの大阪湾接近が報じられた。月岡等が照明弾を投下しゴジラを沖へ誘き出す事に成功しかけたが、脱走した囚人の起した大爆発の為にゴジラは再び大阪へ向った。その時沖からアンギラスが現われ再び格闘を始め、ついに勝ったゴジラの吹く白熱光は附近を焼き払った。本社と工場を失ったA漁業は社長(笠間雪雄)以下全員北海道支社へ移った。ゴジラの為に沈没した会社の船の捜索隊は孤島神子島にゴジラを発見した。投下する爆弾にも動じないゴジラに小林は体当りを試みたが、白熱光に機を焼かれ氷の山肌に激突しその為に起った雪崩はゴジラの進路を阻んだ。ヒントを得た月岡等の飛行機隊は山脈にロケット弾を投下し、ゴジラは大きな咆哮を残してその大雪崩の底に埋った。
本作は東宝マークの次のタイトルも上空に流れる雲をバックに縦書きの1枚タイトルが続き、佐藤勝の音楽も軽快なのでだいぶ雰囲気が違います。無線で連絡を取り合う漁業会社の飛行機操縦士月岡(小泉博)と小林(千秋実)の交信から始まり、無線係から故障して岩戸島に降りた小林の救出に向かった二人は岩陰からゴジラを目撃し、ゴジラを背後から襲って海中に没するもう一匹の怪獣を目撃します。ゴジラ登場まで8分、もう一匹と海中に消えるまで10分目で、次は対策本部で二人の証言からもう一匹はゴジラと同じジュラ期の恐竜のアンキロザウルス、略称アンギラスが放射能実験の結果覚醒・変異したものと推定され、先に倒したゴジラの映像から2匹目のゴジラ出現への対策会議が進みます。対策本部にゴジラ発見の報が入るのが20分目。四国に警報が発布されて大阪の新聞に「大阪は安心」と見出しますが載りますが、ダンスホールの場景から大阪の湾岸に進路を変えたゴジラが接近中との警報が流れるのが25分目。夜行性かつ光に向かうゴジラの性質から大阪には徹底した灯火管制が敷かれて沖の外に照明弾を投下しゴジラが離れて行くのを待つ計画が取られますが、囚人たちが押送車を乗っ取り逃走するのが30分目、その車がガスタンク(?)に衝突して大爆発と大火災を起こしてゴジラ、そしてゴジラを追ってきたアンギラスが大阪に上陸するのが35分目で、この2頭の戦闘は低速撮影で速いコマ送りでくんずほぐれつし、もつれあったまま大阪城をぶっ壊してアンギラスを倒しゴジラが周囲一面を焼き払うのが45分目です。その後はヒロイン役の社長令嬢、若山セツ子が婚約者で主人公の飛行士、月岡を演じる小泉博が、ヒロインの父の漁業会社の再建に同僚で親友の小林役の千秋実を始めとした会社の同僚たちとだらだら飲み会などをやっているのが15分間続き、ゴジラ発見の報告から小泉博が捜査に出るのがようやく60分目で、ほとんど緊張感もないままゴジラを発見し千秋実が応援に飛び、通報された防衛隊(自衛隊ではなくこう呼ばれます)から爆撃隊が飛び立つのが65分目、氷山に上陸したゴジラを爆撃するが一向に効かず、ゴジラの気を引こうと向かって行った千秋実の飛行機がゴジラの火炎で墜落するのが70分目、その時起きた雪崩がゴジラの足元を遮ったことから思いつき、防衛隊が氷山の雪山にゴジラを埋める作戦を計画し決行するのが75分目からで、5分以上かけてまるで進まずゴジラの足元に雪が積もっているだけのショットがいきなり首まで雪(というか氷塊)に埋もれているゴジラの姿になり、主人公がとどめのミサイル発射でゴジラを埋めて一同「ばんざーい!」。主人公「小林、とうとうゴジラをやっつけたぞ」、氷山の全景、映画終わり。
その昔に観てほとんど憶えていなかったことでは昭和ゴジラで一番印象稀薄だった作品だけに観直す期待値も高いか低いかわからないで観直した本作。いやー、メモを採りながら観直したのは今回が初めてでしたが、シリーズ中でももっとも地味(B/W、スタンダード・サイズだし)と言われるこの『ゴジラの逆襲』、本多監督は別作品のスケジュールの都合で手がけられなかったのが残念とも本多監督が撮っても変わらなかったのではないかと思われるくらい、まず脚本からして駄目、というか第1作『ゴジラ』の好評で第2作をと同じ原作者の香山滋に依頼し、香山滋書き下ろし原作のゴジラは『ゴジラ』と本作の2作きりということで、東宝がキング・コングの版権を取得したことから製作された7年後の第3作『キング・コング対ゴジラ』'62(タイトルがキング・コングの方が先)の特大ヒットから自社の怪獣映画路線のヒット作『モスラ』'61と対決の対決路線が定着した第4作『モスラ対ゴジラ』'64(やはりモスラの方が先)からは毎年のようにゴジラ映画が製作されていくのですが、そういう意味では純粋な『ゴジラ』の続編は本作だけになるので、志村喬も「やはり二匹目のゴジラが出てきたか」というような台詞を言うためだけに出てきます。また芹沢博士みたいな天才科学者が出てくる設定・展開ではないために(続編にまで新たな対ゴジラ用最終兵器の開発者を出すと不自然、としたのかもしれませんが)本作の二代目ゴジラは生死不明の結末を迎えます。「やっつけたぞ」あのくらいで死ぬゴジラじゃなかろうに、と観客も突っ込んだと思いますが、『ゴジラ』では東京湾の海中で白骨化したゴジラに「罪もない動物をなぜ殺すのか」(あれだけ害をなせば当然だと思いますが)と観客からの同情の反響もあったそうなので、あえて生死不明の退治法を考案したならあれはあれですが、ゴジラがアンギラスを噛み殺すのがまだ中盤、これもそれなりに趣向で、アンギラスは四肢歩行ですし飛び道具的な攻撃法もない恐竜ですから、ゴジラの喉を狙って噛みつくのが唯一の戦法なので、ゴジラもアンギラスの空いた喉笛を狙う、そういう地味な戦いをするので長編映画を引っ張るにはきつい組み合わせだったと言えます。監督の小田基義は東宝の前身、戦前のPCL撮影所時代からの監督で他に観たことのある映画はトニー谷主演の『家庭の事情』シリーズ4作('54年)、『透明人間』'54くらいですがほとんど記憶がないもののそこそこ面白かった覚えがあるものの、本作は原作もいまいちならば脚本もまずく、演出ときたらスッカスカではないでしょうか。本多猪四郎もうまい監督という感じはしませんが『ゴジラ』では共同脚本で(いろいろ突っ込み所はあれど、画面は)きちっと仕上げていたのに較べ、本作の緊迫感のなさ・密度の薄さはこんなのでよく封切ったなと大らかさすら感じるほどで、千秋実の殉死のあっけなさといい(そもそもなぜ漁業会社の民間機がゴジラ追跡を率先しているか、自社の船舶の行方不明が発端としても無理な設定ですが)、ゴジラを埋めるための氷山粉砕が一向功を奏さないのに次のカットではすでに首まで氷塊に埋まっている(ズボッと足元が抜けたようにも見えない)など、試写段階で再撮影は間に合わないにしてもせめて再編集命令は出なかったのか。出なかったようです。ゴジラがアンギラスを倒した後で主人公の会社の宴会が15分間続くのがこの映画に必要だったのか。明らかに不要です。『ゴジラ』の観客動員数961万人、興行収入1億6,000万円に対して本作は観客動員数834万人、興行収入1億7,000万円というデータが残っていますが、何かこれ、蛇足を越えてもうゴジラの続編作らないぞという東宝から観客へのメッセージだったのではないかとすら思えてくるのです。