●5月26日(土)
『女群西部へ!』Westward the Women (MGM'51)*116min, B/W; 日本公開昭和27年(1952年)7月15日
○あらすじ(同上) 1850年頃、カリフォルニアに牧場を築いたロイ・ウィットマン(ジョン・マッキンタイア)は、使用人のうち100人がまともな結婚をしたいと云って女を連れてくる費用を出し合ったので、シカゴへ花嫁を募りに出かけた。花嫁部隊を西部にへ運ぶことは危険なので、彼はバック・ワイヤット(ロバート・テイラー)という屈強な経験のある男を連れにした。シカゴで彼らは140人の女を選んだ。目的地に着くのはその3分の2になろうと思ったからである。この女たちの中には元踊り子のフィフィ・ダノン(デニーズ・ダーセル)とローリー(ジュリー・ビショップ)らもいた。フィフィとバックは初めから反目しあった。一行の大陸横断旅行は15人の男たちに守られて始まったが、バックは男たちに女に手出しすることを厳禁し、その禁を破った1人の男を殺したので、男たちは去っていった。バックは女たちに射撃や戦いの方法を教え、悪天候やインディアンの妨害をのりこえて旅をつづけたが、途中、ウィットマンと数人の女がインディアンの襲撃で殺された。だが花嫁部隊はひるまず進み、遂にカリフォルニアに着き、待ち受けていた男たちと一緒に喜びあった。バックもフィフィを抱いて、その歓びの中に加わった。
脚本がホークスのキャトル・ドライヴ映画の名作『赤い河』'48の共同脚本家チャールズ・スキニーで、馬車の大群の行脚に伴うさまざまな細かいトラブルをよく盛りこんである割には西部男のガードマンたちが2人を残して逃げてしまうまでの前半が長すぎ、『赤い河』の功績は原作者で共同脚本家のボーデン・チェイスの方が大きかったかと思わせられ、プロデューサーのドア・シャーリーがダメ出しして前半をもっと手早く、後半はよりじっくりと構成を手直しさせればさらに良かったのではないかと欲が出ますが、劇中でもそこまででシカゴ~カリフォルニア間のちょうど半分ということになっているので映画の進行もそれに合わせて良しとしてしまったのでしょう。後半生きてくるヒロインたちのキャラクター設定を描くためにも前半のエピソードは必要で、前半やや冗長なのも仕方なかったかもしれません。その点は考慮しても前半はテンポが良いとは言えず、キャプラ自身の監督ではなくウェルマンが手がけて成功した作品とは思いますがそれこそハワード・ホークスが監督したら相当の傑作になったかもしれないようなアイディアで、しかしホークスは女性の好みは野趣を避けて都会的ですからやっぱり向いていないとも思え、ウェルマンももう少し強引だったらさらに良くなったろうにとシナリオがもたつく前半もふんだんにドラマチックなエピソードの連続する後半も同じくらいの力加減で進めてしまう演出の手加減がせっかくの題材なのに弱い印象も受けます。本作は製作費220万ドルに対して興行収入400万ドルのヒット作で、前作の『ミズーリ横断』も製作費220万ドルですがそちらは興行収入460万ドルで利益率に2.1倍に対して本作は1.8倍なので、話題性のあるコメディ西部劇の大作なりにお客さんは呼べても意外と評判は広がらなかったのかもしれません。割と小品の『ミズーリ横断』が大予算だったのはクラーク・ゲイブルやアドルフ・マンジューらスター映画だったからでしょう。本作のロバート・テイラーやジョン・マッキンタイアも好演していますが、テイラーはハリウッドの赤狩りで一時仕事を干され、前年の『クォ・ヴァディス』'51でアクション俳優にイメージ・チェンジを図ったばかりで、本作もテイラーのスター映画という感じはしません。また『戦場』でフランス娘役だったデニーズ・ダーセルが本作のヒロインですが、ダーセルが際立っているというよりも主要キャストで10人あまり、総勢100人以上になる女優たちの存在感が圧巻で、『キートンのセブン・チャンス』'25を思い出させます。本作ではあえて女優たちを野趣に富んだ風情に描いたウェルマンの手腕がいちばんの手柄とも言えそうです。
●5月27日(日)
『男の叫び』Island in the Sky (ワーナー'53)*109min, B/W (Technicolor); 日本公開昭和28年(1953年)12月27日
○あらすじ(同上) 1944年冬、グリーンランドと北アメリカ間の空輸にあたっていたアメリカの輸送機コルセアは故障のため地図にない不明地点に着陸した。機長ドゥーリイ(ジョン・ウェイン)の最後の無電により、当局のフュラー大佐(ウォルター・エイベル)は捜索の困難を思い不時着地点の確証を得るまで救助命令をくださなかったが、手がかりを得られず遂に5人の民間パイロットによって捜索を始めることにした。一方コルセア機では食糧は5日間しかなく、零下40度の寒気にさらされていた。ドゥーリイは外に出迷わぬよう警告したが、1人の助手パイロットはその言葉に背いて猟に出たため猛吹雪に巻かれて凍死した。彼を埋葬している時、捜索隊の爆音が響いてきたが、遭難者の姿を認めず飛び去ってしまった。隊員の食糧が尽きる6日目、フューラー大佐の元では捜索について今1度同じ地点を探すか別の地点を探すかで、意見が2つに分れていた。論議の末、今1度同じ地点を夜間飛行で探すことになった。ドゥーリイたちは飢えと寒さで弱っていく体を励まし、今度爆音が聞こえたらコルセア機のガソリン・タンクに火をつけて発見を容易にしようと準備していた。日暮れになり遂に捜索隊3機が現れ、信号の火炎を認めて去っていった。しばらくして必要品を投下する救援機が現れ、ドゥーリイらは無事救われることになった。
これはアドベンチャー映画のジャンルに属するサスペンス映画でもあり、基調になっているのはごく地味なリアリズムなので十分にドラマチックな状況ながらも展開は地道なノーランを始めとする数機の捜索機による航空捜索と、サヴァイヴァル状況に遭いながらも懸命に救助信号(発電機の燃料は早々底をつき、手動モーター式モールス信号発信機を交替で回し続けます)とこれまた地味なウェインの遭難隊の姿が描かれていくのがすべてであるような映画で、そこが最大の美点になっています。男たちは手を変え品を変え最善と思われる方法に努力を重ねていき、アメリカ人のボーイスカウト体質というか軍隊もの、難関ものというと必ずこういう乗りになり、同じ手仕事の積み重ねを描く映画でもフランスのロベール・ブレッソンの『抵抗』'56や『スリ』'59のような主人公の孤独な、または犯罪者仲間との反社会的な行為(『抵抗』の戦時下の捕虜脱獄だって法的には不法行為です)ではないわけです。本心から信頼しあっているかはたとえ疑問を抱きながらとしても統制のとれた姿勢で仲間たちと目的達成に最大限の努力を重ねる、この集団的な目的意識の共有と役割分担にアメリカ映画の男の集団の描き方の伝統的なパターンがあり、ボーイスカウトというのは揶揄ではなく開拓時代のアメリカ人が最小限の装備で野生の中に放り出された時に本当に最小限の装備とは何か、それらをどう活用して人数に見合った効率的な役割分担をするかを学童年齢のうちに基本的に学習しておく考え方ですから、役割分担としてのリーダーは選ぶとしても人間としての上下関係ではなく、こうした集団的努力のあり方を描くのは本当にアメリカ映画ならではのものです。同じ英語圏でもイギリス人だったら、また映画の盛んなフランス、イタリア、ドイツの映画で軍隊や本作のような集団的遭難が描かれたら個人の社会的階層やエゴがまず上下関係を形成してからでないと集団的努力にむすびつかないか、エゴの衝突でしばしば座礁するかを想像するのは難くないことです。編集者クリスチャン・ナイビー名義の映画ですがホークスがプロデュースしほとんどの場面の演出をしたSF映画『遊星よりの物体X』'52でアラスカの雪原に謎の巨大が落ちてくるのですが埋もれていて実測できない。数十名の調査隊員たちは誰が言い出すでもなく自然に巨大な円形の雪跡に沿って円くぐるりと手をつないで、何人分の円周だから直径約何10メートルだな、と計算しますが、'80年代のリメイク『遊星からの物体X』に欠けているのはこういった等身大のリアリティでした。本作もデジタル機器や衛星通信などなく、不時着遭難したのはカナダとグリーンランド間の地図にすら正確な地形の測量が載っていない地帯、その上あまりの寒冷地なのでさらに冷えこむ上空の探索機の計器すら正確に方位を測定できないという素晴らしい設定です。芝居はどうしても地味になっても設定が設定で、それを十分生かした脚本ですから緊迫感が途切れない。ウェインの命令に背いて雪原に出てしまい遭難死する副操縦士のマクローリーが幻覚に襲われるシーンではフラッシュバックとオーヴァーラップで故郷の恋人の姿が出てくるのが数少ない例外ですが、それ以外は映画は多元描写の現在進行形でぶっとく、または細々と続いていきます。深夜のテレビ放映でたまたまやっていた映画をついつい観たら思いがけない面白い映画だった、というのはこういう作品を言うので、なんだかB/W変換なのもスタンダード版トリミングなのも帳消しでいいか、という気になってきました。ウェルマンの男くさい面が良い形で発揮された映画、それで十分ではないでしょうか。
●5月28日(月)
『中共脱出』Blood Alley (ワーナー'55)*115min, Technicolor; 日本公開昭和31年(1956年)4月6日
○あらすじ(同上) 厦門の中共軍拘留所に抑留されていた中国船の米人船長ワイルダー(ジョン・ウェイン)は、看守を買収し脱獄に成功した。彼を迎えたのは中国人ツオー氏(ポール・フィックス)、ハン氏(マイク・マザーキ)、シング氏(ジョージ・チャン)、それに中共治下の米開業医の娘ケーシイ(ローレン・バコール)だった。共産主義に反対するツオーたちは自由主義者のワイルダーを動かし彼の指示による香港への脱出を計画していたが、その前途には幾多の困難が待ちうけていた。ワイルダーは準備さえ満足に整わないこの計画を一笑に付して人々の自重を促したが、彼等の決意は固かった。ツオー等の熱意に動かされたワイルダーは遂に立ち、脱出の計画は進められた。一時は共産シンパであるフエン(ベリー・クローガー)の手引きでワイルダーの身にも危険が迫ったが、彼はうまく敵兵を制し連絡船の機関士タック(ヘンリィ・中村)と計って連絡船を奪った。船は竹山号と命名され、人々は家財、食料を積み込んで香港への危険な旅路にのぼった。急追する共産軍哨戒艇は巧みに仕掛けられた罠にかかって沈没した。ワイルダーに導かれた竹山号は昼間は入江に潜伏し、夜間に航行を続けた。敵艇の捕虜が食料に毒物を混入し、全食糧の大半を放棄する事件もあった。数日後、竹山号は暴風雨に襲われ、そのため船の一部は破壊され甲板上の家畜は大波の餌食となった。ある夜、遂に捕虜の暴動が起こり、鋒先はワイルダーに向けられた。彼は激闘の末、急進分子を倒したが負傷しケーシイの看護を受けた。燃料の欠乏した竹山号中共駆逐艦に発見され、砲撃された。人々は満身創夷の船をなおも操って、遂に香港に到着した。鳴り響く汽笛と歓声の中に、ワイルダーとケーシイは初めてひしと抱き合った。
廈門から香港へ略奪船で一つの村民まるごと亡命希望者を脱出させるのが本作の大筋ですが、キネマ旬報のあらすじで脱獄を「看守を買収し脱獄に成功」としているのと同様(これはマットレスの中の脱獄道具を買収のための金品と勘違いしたのかもしれません)、略奪船の屋号はキネマ旬報では「竹山」号となっていますが略奪した時につけられた船の名称は「奇骨山」号で、なのに出航するシーンでは船の側面に「竹山」と書いてあるのが映るのでまぎらわしいのです。元の船の名前ということなのか、製作段階で生じたミスなのかはわかりませんが、無理に解釈すれば港のムードを描くためにまったく関係ない船の出航シーンの映像をインサートしたとも取れるわけで、これだって撮影台本に「出航する奇骨山号」と書いてあったなら側面に「竹山」とある船の出航はおかしいと最低でもスクリプターからチェックが入るでしょう。なのに押し通したのは(1)元の船名(だったら別の船に偽装しているのに間抜けな話ですが)、(2)雰囲気ショットのインサートで別の船(そんな無駄なショットを入れるだけ無駄)、(3)最初の脚本段階で「竹山」号だったからそうして先に抜き撮りしていたが後から「奇骨山」号に変わったので製作段階のミスだがケアレス・ミスだから気づく観客もいないだろうしそのままで放っておいた、のいずれかだと思います。(1)(2)だったらあまりに投げっぱなしだし(3)だったら監督、最終的にはプロデューサー判断です。だとしたら(1)(2)(3)いずれにしてもジョン・ウェインのウェイン=フェローズ・プロ改めバトジャック・プロのプロデューサー、ロバート・フェローズの細かいことは気にしない姿勢に問題があり、とにかく2時間級の大作にしようと捨てるべきカットすら拾い上げ混乱すら招くほど説明不足の箇所でも追加撮影をリテイクするのは手間なので観客に丸投げするような映画になったのはそのせいだろうと思われます。当時のプロデューサー・システムでは映画監督は撮影完了までが仕事で、編集やサウンドは監督の指示ではなくプロデューサーが編集もサウンドも直属で行い、決定権もプロデューサーにあった例の方が多いのです。ウェルマンとしては編集で帳尻を合わせるつもりがプロデューサーがさっさと済ませて完成品とはカヤの外だった(フリッツ・ラングのハリウッド作品はほとんどそうだったそうです)のが本作だったとは大いに考えられ、ウェルマン作品一気観の締めくくりなら快作『紅の翼』か未見の引退作『壮烈!外人部隊』を持ってきたかったところですが『壮烈!外人部隊』は未DVD化作品で、『紅の翼』も日本盤DVD未発売でアメリカ盤は1,000円未満の廉価版で出ていますが通販サイトで取り寄せると1か月かかる。そこでやむなくウェルマン作品でもかなり下位の部類に入る本作が年代順感想文の最後に来ることになってしまいました。『女群西部へ!』同様映画後半ようやく略奪船(河川用の運搬蒸気船)出航以降は、行きがかり上乗せざるを得なかった敵対する中国共産党一族(なぜか一族郎党救援してやらなければならなくなる)の反乱との攻防戦、など見所もあり、「Blood Alley」と呼ばれる危険な海峡にさしかかり、難破船からの燃料(蒸気船ですから薪)補給のために碇泊中に砲撃を受ける場面など凝ったセットで迫力があるなどアクション場面の連続になるので安っぽい反共プロパガンダ映画然とした前半のお粗末さも大目に観られればいいのですが、ウェルマンに贔屓目に見ればそもそもの脚本と本作を長くても90分台にまとめなかった編集に難があります。『男の叫び』のラストで隊員たちがびっくりするようにジョン・ウェインは寡黙なら寡黙なほど良いので、何で始終独り言ばかりしゃべっているキャラクターにしたのかウェイン自身のプロダクションの作品だけに原作・脚本選びといい仕上がりといいプロデュース方針のセンスに疑問が沸きます。本作の日本盤中古DVDは中古相場で捨て値で買える有り様ですが、まあ一回観たら売ってしまう気もわかる映画で、ウェルマンというよりこんなウェイン作品もあるんだな、とジョン・ウェインとバコールの冷戦アクション・メロドラマ程度の気分で観て、細かいことは気にしない見方で楽しむしかないでしょう。ワーナーのウェインのプロダクション作品もこの路線は本作の凡ヒットでしばらく打ち切りになります。本作が日本盤DVDが出ていて『紅の翼』が日本未DVD化なのも不思議で、これまた映画にはよくあることでもあるでしょう。