●5月23日(水)
『廃墟の群盗』Yellow Sky (20世紀フォックス'48)*99min, B/W; 日本公開昭和26年(1951年)8月14日
○あらすじ(同上) レメイヴィルの銀行を襲撃して軍隊に追われた無法者の一団が70里にわたる熱砂の荒地を落ちのびていった。一行はストレッチ(グレゴリー・ペック)を頭にいただくデュウド(リチャード・ウィドマアク)らの7人組で、数日間の苦難の旅を経てイエロウ・スカイと呼ばれる死の街に辿りついた。町には旅人に水や食物を与える老人(ジェームズ・バートン)と孫娘のマイク(アン・バクスター)が住んでいるだけ、しかもマイクは一行を嫌って彼女の家には彼らを泊まらせなかった。その夜彼女を襲ったストレッチは、かえって彼女に傷つけられた。老人とマイクが山で金採掘を行っているのを嗅ぎつけたデュウドは仲間を語らって2人を丘に追いつめ老人の足を撃ってマイクを降参させた上、5万ドルの金を強奪した。マイクとストレッチの仲が近づくのをみたデュウドは折からアパッチの一隊がマイクの家に来た時、ストレッチがアパッチをそそのかし皆を亡きものにしようとしていると仲間にふれまわった。そしてストレッチが老人にはまだ金の権利が残っていることを仲間に忠告するに及び彼とデュウドの仲は決裂し、ストレッチは烈しい射撃戦の後ついにデュウドを撃ち倒した。数週間後、再びレメイヴィルの銀行を襲ったストレッチの一行は、今度は逆に以前盗んだ金をそっくり返却して引き揚げて来た。彼方の丘の上ではマイクと老人が一行の帰りを待ちわびていた。
非とする感想は取ってつけたような結末と見る意見からですが、逆にそこがユーモアをかもしだしていて面白いとも言えるので、本作のような映画の場合こういうとぼけた終わり方もなかなか良いんじゃないかという見方もあるでしょう。バーネット原作の映画はたいがい面白くて、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』や『倍額保険(深夜の告白)』『深夜の銃声(ミルドレッド・ピアース)』のJ・M・ケインと同じように、絶対文学性は高くないけれど映画にすると俄然生きてくるような、たぶん映画向けの作風のツボをついたセンスのある大衆作家なのだろうと思います。グレゴリー・ペックとアン・バクスター主演でウェルマン監督の西部劇というとそれだけで'40~'50年代ハリウッド映画が好きな人は映画好きほど食指が動かないんじゃないかと心配になる組み合わせで、ペックといいバクスターといい美男美女には違いなく大スターと言える俳優なのですが何となく大味なイメージがついてまわり、ペックはプロデューサー指名で起用したがミスキャストだったと何かと映画監督に言われたり抑えた演技で大根役者呼ばわりされることが多く、バクスターは演技派ですが良家出身もうなずける水商売的な色気に欠ける女優という感じがあります。しかしヘンリー・キングのようにペックを生かした監督、バクスターの場合ならワイルダーの『熱砂の秘密』'42やフリッツ・ラングの『青いガーディニア』'53のような作品を見るとペックやバクスターも自然な色気があって、それはペックやバクスターがミスキャストとか色気に欠けると言われる作品もよく見るとちゃんとあり、ペックだからバクスターだからこそという名作佳作もしっかり残されていますからさすがに名優とされるだけの資質はあり、生かすも生かし損ねるも監督次第でしょう。ヒッチコックが『私は告白する』'53で生かせなかったバクスターが上記の初期ワイルダー、後期ラング作品では魅力的であり、またヒッチコックが『白い恐怖』'45、『パラダイン夫人の恋』'47と二度に渡って生かせなかったペックがヘンリー・ハサウェイの小傑作『狙われた駅馬車』'50、キングの名作中の名作『拳銃王』'50では光り輝いているように、監督が無欲恬淡に使った時に存在感が光る俳優と言え、本作のウェルマンはヒッチコックよりもキングやハサウェイに近い監督ですからペックとバクスターがとても良く、先入観抜きにさりげなく観ておっ、と感心するような味のある佳作になっているのはさすが歴史的名作『牛泥棒』を生んだトロッティ製作・脚本、ウェルマン監督のコンビでしょう。こういう大作でも何でもなく普通に良い映画が普通に作られていた時代があったのは実にうらやましく、テレビのハイヴィジョン化前には誰でも何となく観られる地上波放映もされていたのは、古い映画が媒体区分でマニア向けにされてしまった現在では何ともうらめしい気がします。
●5月25日(木)
『戦場』Battleground (MGM'49)*118min, B/W; 日本公開昭和25年(1950年)10月6日・アカデミー賞作品賞/助演男優賞/監督賞/編集賞ノミネート、アカデミー賞脚本賞/撮影賞(白黒)受賞・ゴールデングローブ賞助演男優賞/脚本賞受賞
○あらすじ(同上) 1944年のクリスマスも間近の頃。米国第百一空挺師団のI大隊の兵隊は、ベルギーのバストーニュで優勢なドイツ群の包囲をうけ苦戦していた。ジャーヴィス(ジョン・ホディアク)、ホーリー(ヴァン・ジョンソン)、ロドリゲス(リカルド・モンタルバン)、「ポップ」(ジョージ・マーフィー)、レイトン(マーシャル・トンプソン)、アブナー(ジェローム・コートランド)たちは、ウォルウィッツ曹長(ブルース・コーリング)の指揮する同じ小隊の仲間だった。クリスマスの1週間前この小隊は秘密命令の中にバストーニュに着き、ドニーズ(デニーズ・ダーセル)と呼ぶ娘のいる一家に宿営した。ホーリーは直ぐにドニーズと仲良くなったが、翌朝は更に前進命令を受けて砲弾を浴びながら森の敵陣のすぐ前に塹壕を構築しはじめた。雪と寒気の中での仕事は思うようにはかどらず、しかも濃霧のたちこめるバストーニュ付近は味方の飛行機の援護も受けられなかった。彼等は味気のない携帯口糧で腹を満たし、敵の攻勢を支えていた。しかし夜中秘かに味方陣地内に降下した独軍の落下傘部隊の撹乱戦術のため、何人かの兵隊が斃された。砲弾の唸音に精神錯乱状態に堕って壕より飛び出したベッツ(リチャード・ジャッケル)が死んだ。ロドリゲスも敵戦車に両足を轢かれた。ウォルウィッツ曹長も貫通銃創を受けて後退し、小隊はホーリーが指揮をとることとなった。霧は依然として晴れなかった。兵隊たちは絶対的な気持ちに襲われながらも応戦を続けた。翌朝は更に猛烈な独軍の攻撃が加えられたが、小隊の手榴弾による反撃により独軍の小部隊を捕虜とした。その代りアブナーを失った彼等は交替の部隊に陣地をゆずってバストーニュに引きあげた。兵隊たちはドニィズと再会して歓び合ったが、一夜の休養の後前線に引きかえさなければならなかった。戦闘は依然はげしく続いた。百一空挺師団の兵隊の疲労はその極に達しているものの如くだった。独軍の軍使が降伏を勧告に来たが、もちろん交渉は物別れに終わった。独軍は包囲の鉄環をじりじりと狭めはじめた。彼等の総攻撃は火蓋を切って放たれたその時、霧の裂け目から機影が見えたかと思う暇もなく、独軍の陣地に機銃掃射を行なった。待ちに待った米空軍の出動だった。炎上する独軍戦車を見ながら空挺師団は総員奮い立った。救急物資が輸送機から投下され、地上増援軍も相ついで到着した。1週間にわたる苦戦はいま、ところをかえて、独軍が最後力をふりしぼったルントシュテット攻勢はここに挫折の止むなきに至ったのだった。苦戦を終えたホーリー、ジャーヴィスたちは生涯に忘れることのできないクリスマスをバストーニュの街でむかえたのだった。
本作は日本の占領軍本部(GHQ)がよく本国公開からすぐ日本公開を許したな、というくらい本格的な戦争映画で、軍事民間問わず戦争経験者の日本人にはまだ刺激の強かったような作品ですが、内容はフランス戦線のアメリカ小隊とドイツ軍の戦闘なので、北アフリカ(チュニジア)~イタリア(イタリアは敗戦後の対ドイツ)戦線を描いた『G・I・ジョウ』'45が沖縄戦線で戦死した従軍記者アーニー・パイルのルポの実名映画であるため占領軍撤退後の昭和28年(1953年)日本公開になったのに早々『戦場』が日本公開されたのは控えめな調子ながら第二次世界大戦のアメリカの大義を主張した映画であり、たぶんGHQの映画検閲担当者さえも感動し日本人への教育的効果を認めたのでしょう。直接日本軍との戦闘を描いた当時の作品はほぼ完全に未公開作品(検閲不認可作品)に終わっています。本作は「死」をめったに直接描かないウェルマン映画(『G・I・ジョウ』ですら最低限、強盗団内部の殺しあいの話『廃墟の群盗』ですらそうです)でも例外的に、敵兵のみならず(『G・I・ジョウ』は敵兵の戦死は容赦なく描いていました)アメリカ小隊の兵士たちも次々に戦死、または負傷していきます。しかも集団の死ではなく個人の死として克明に描かれているため非常に痛切で、また塹壕掘りや野営の様子が延々描かれ、ジャン・ルノワールになかなかスポンサーがつかない『大いなる幻影』のシナリオを君なら売れっ子だから撮らないか、と提供されたジュリアン・デュヴィヴィエがこんな兵隊だらけの映画なんか撮れるか、と一蹴したというのは先月『大いなる幻影』を観直した感想文を書いた際に初めて知ったエピソードですが、アメリカ映画はサイレント時代から兵隊だらけの映画の伝統、野郎ばかりの西部劇の伝統があった国ですが本作はヒロイシズム一切抜きでいち小隊のタコ部屋的な任務に次ぐ任務を描いた映画です。兵役経験者の戦線帰還者、また兵役戦死者の遺族にはどれほど身につまされる映画だったでしょうか。本作と同年にリアリズムでドイツ空爆に従事するアメリカ空軍を描いた第二次世界大戦映画のこれもすごい名作、ヘンリー・キングのグレゴリー・ペック主演作『頭上の敵機』'49(アカデミー賞監督賞・助演男優賞受賞)がありますが、あれは戦線でも特殊な作戦部隊を描いた作品で作戦司令官のペックはストレスに次ぐストレスから強迫性精神障害を来してしまう壮絶な特殊状況映画でした。本作も壮絶といえば壮絶なのですがごくありふれた任務を課された地上部隊の小隊にとっては任務はほとんど日常になっていて、ひたすら辛くていざ戦闘になればちょっとした偶然で負傷で済めばまだ良し、生き死にすら日常的な出来事です。『頭上の敵機』はダリル・F・ザナック製作による20世紀フォックス作品でフォックス社はウェルマンの古巣でもあり戦争映画の伝統がありましたが、MGMはむしろスター主義の華やかな映画やミュージカル、メロドラマの会社です。ウェルマンよりほぼ10歳年長のキングはもともとメロドラマに長けていましたがドラマの集中的構成が巧みな監督で、ウェルマンにも『牛泥棒』のような凝縮度の高い作品がありますが、本作ほどの非求心的な群像劇は類例は戦争映画以外の他ジャンルにはほとんどなく、戦争映画ですらめったに成立しない手法です。『G・I・ジョウ』では従軍記者の視点を前提としたことで枠物語的な群像劇に準じたものになっていましたが、本作では統一的な一人称的視点はなく、小隊全体の集合二人称的な視点になっているのが『G・I・ジョウ』以上に兵卒ひとり一人の集団的個性に迫る映像・話法構成になっている。それがどれほどの成果と言えるものかは、今回の前書きで書いた通りです。
●5月25日(金)
『ミズーリ横断』Across the Wide Missouri (MGM'51)*78min, Technicolor; 日本公開昭和27年(1952年)11月18日
○あらすじ(同上) 1880年代のはじめ、猟人のフリント・ミッチェル(クラーク・ゲーブル)はロッキー山中にすばらしい海狸の棲息地を発見した。相棒のブレカン(ジョン・ホディアク)はこの地をインディアンに残しておくよう忠告したが彼は聞かず、そのためブラックフィート族の若者アイアンシャーツ(リカルド・モンタルバン)から攻撃を受けた。猟人たちは毎夏顔を合わせ、フリントは海狸地帯への同行者を募った。この時居合わせたインディアン娘カミア(マリア・エリナ・マルケス)はブラックフィートの酋長ベア・ゴースト(ジャック・ホルト)の孫であった。フリントはブラックフィートに好い感情を持たせるため結婚を約束して彼女を買い取った。2人は棲息地に出かける途中次第に親しさを増し、ついに男の子が生まれた。アイアンシャーツは依然として反抗的であったが、老酋長ベア・ゴーストはフリントを深く愛するようになったから彼も手が出せなかった。しかし子供の誕生祝いにカミアを訪ねたベア・ゴーストはかねてブラックフィートに恨みを持つ猟人に殺され、このためアイアンシャーツはインディアンを率いてフリントらを襲った。カミアも殺され愛児も奪いかけられたフリントはアイアンシャーツを倒して子供を取り返したのち、永久にこの開拓地の礎になろうとインディアンの唯中にとどまることになった。
本作はひさびさのテクニカラー作品で画質も良好、西部劇は青空と緑、馬の栗毛が美しいのでカラー作品の画質だけでもずいぶん点を稼ぐジャンルですから、名作『西部の王者』の現行版DVDもこのくらいの画質だったらなあとマスター状態の差だけで格段に画質の差が出る(画質の良くない『スター誕生』'37と鮮明画質の『翼の人々』'38もそうでした)テクニカラーの長所と短所を痛感させられます。後発の単層式イーストマンカラーや現在のデジタル撮影ではテクニカラーの圧倒的な色彩感、特に青空の鮮やかさはとらえられず、原理的にはテクニカラーの感度と発色よりもイーストマンカラーやデジタル撮影の方が人の眼の視覚構造には近いはずなのですが、人間が青空の青に感じる圧倒的な色彩感を再現できるのはテクニカラー・フィルムの感度と発色システムという不思議があり、経済効率的理由でテクニカラーが淘汰された現在ではスタジオ・ジブリや京都アニメーションのアニメ作品がテクニカラーの青空を継承再現しているのは現代映画の情勢批判のためにもっと強調されていいと思われますが、ウェルマンはテクニカラー作品は明るく華やかで快活に、B/W作品はおおむね地味に撮る方で、『つばさ』'27はフィルム実用化が進んでいたらテクニカラーで撮りたかったような作品だったと思います。西部劇ではさらにそれが顕著でB/Wの『英雄を支えた女』『牛泥棒』『廃墟の群盗』とテクニカラーの『西部の王者』『ミズーリ横断』ではカメラの位置すら違う感じがあり、『牛泥棒』のラストは酒場の建つ四辻をヘンリー・フォンダと相棒がリンチ被害者遺族の家に訪ねにスクリーン奥に去って行くショットですが、フォンダと相棒の馬が遠ざかると手前の酒場前を上手から下手に野良犬がごく普通の歩幅で横切って酒場前で止まり、フォンダたちの姿がほぼ遠ざかりきってエンド・タイトルが出ます。翌年の『西部の王者』でもジョエル・マクリーが偶然犬を飼う羽目になるほどで、'40年代ハリウッド映画は名優犬を多数擁していましたから犬のあしらいは一種の趣向ですが、『牛泥棒』では無造作に現れた犬が『西部の王者』では計算された登場になっているように、B/W作品ではウェルマンは一見ぶっきらぼうな演出や話法が目立ち、テクニカラー作品では計算されたものになる傾向が本作『ミズーリ横断』でも感じられます。クライマックスの乗り手の母親が殺され赤ん坊を乗せた籠を提げたまま疾走する馬、それを馬で追うペック、さらにその後からペックを殺しに追う悪役インディアン役のリカルド・モンタルバンが等距離で一直線に並びながら荒野を疾走して森に突っこんで馬が止まり、木立の中を隠れながらペックとモンタルバンの一対一の対決になる場面は、その先に水場で休む白人と親白人派インディアンのペックたちが突然ペックの妻で赤ん坊の母親に矢が射られてモンタルバン率いる反・親白人派インディアンたちの襲撃と応戦の大合戦から続けざまに、集団戦の中から飛び出すように一騎打ちになだれ込む展開で、アクションとしては前述の通り『西部の王者』の見事な戦闘シーンのさらに上を行く優れたアイディアと演出が光るだけに、映画全体としてはインディアンものとしては主人公の姿勢、立場がはっきりしない作品なのがテーマの不消化感を抱かせて残念なものです。こうした難点は脚本にあり演出は隙がないもので、映画にはよくある出来事とも言えるでしょう。本作はまあ良くも悪くも凡作、せいぜい標準作止まりですが小品佳作『廃墟の群盗』とどっちが面白いかと言えばどちらが上でどちらが下とも言えず、美麗なテクニカラー映像の魅力だけでもほとんど夜のシーンばかりのB/W作品『廃墟の群盗』より分があるので、出来不出来がそのまま映画の楽しみの優劣を分けないのもまた映画にはよくあることです。