コスミック出版刊の書籍扱い10枚組廉価版DVDボックス『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』第1集~第3集(2016年12月~2017年12月発売・各巻1,800円)に収録されているジャン・ギャバンの主演(出演)作品はパブリック・ドメインになっている1953年公開作品までですが、'30年に短編2本で映画デビューしたギャバンには同年の初長編から'53年までに長編映画46作があります。『ジャン・ギャバンの世界』は第1集~第3集で計30作を収録していますから収録漏れの作品を数え上げてみますと、収録作品でもっとも古いのが出演第7作『リラの心』'32(日本未公開・第3集収録)で、役柄はまだ助演でした。第1作('30年)~第6作('31年・公開'33年)はすべて助演作で、やはり助演作・準主演作ばかりで仏独合作の多い第8作('32年)~第13作('33年)ともども『ジャン・ギャバンの世界』未収録です。第14作『トンネル』'33(日本未公開・第3集収録)は先輩女優がクレジット上は主演ながらギャバン主演の作品になり、'36年に日本公開されキネマ旬報ベストテン入りした集団劇の第15作『上から下まで』'33(G・W・パプスト監督)と第19作でアナベラ主演作『ヴァリエテ』'35(ニコラ・ファルカス監督、日本未公開)は未収録ですが第14作『はだかの女王』'34~第18作『ゴルゴダの丘』'35の準主演作5作、名実ともに初の本格的主演作の第20作『地の果てを行く』'35~第37作『港のマリィ』'50までの18作は日本未公開作品は3作ありますが(第29作『珊瑚礁』'39、第30作『陽は昇る』'39、第31作『曳き船』'41)ほとんどは日本公開されギャバン黄金時代の作品とされ『ジャン・ギャバンの世界』各巻に収録されています。第38作『天国への門 (Pour l'amour du ciel)』'50(伊仏合作、ルイジ・ザンパ監督、日本未公開)は未収録ですが第39作『ヴィクトル』(日本未公開・第3集収録)~第43作『愛情の瞬間』'52の5作は日本公開・未公開をとり混ぜて収録され、第44作『危険な娘 (Fille dangereuse)』'52(伊仏合作、グイド・ブリニョーネ監督、日本未公開)を除いて第45作『彼らの最後の夜』'53(日本未公開・第3集収録)、第46作『ラインの処女号』'53(日本未公開・第1集収録)まで収録されています。つまりもっとも早い主演作第14作『トンネル』'33~第46作『ラインの処女号』'53までの33作中、戦前の独仏合作作品2作『上から下まで』'33と『ヴァリエテ』'35(日本未公開、ドイツ版はギャバンの役はドイツ人俳優)、戦後の伊仏合作2作『天国への門』'50、『危険な娘』'52(ともに日本未公開)が未収録で、残る29作に助演時代の佳作『リラの心』'32を加えたのが『ジャン・ギャバンの世界』第1集~第3集の収録作品30作です。未収録作品が16作あっても初期の12作は助演時代なので、目玉となる作品は準主演作の戦前作『上から下まで』『ヴァリエテ』、戦後の日本未公開伊仏合作主演作『天国への門』『危険な娘』しか残っていないので第4集が編まれる可能性は少なく、逆に『ジャン・ギャバンの世界』第1集~第3集がいかに'53年公開までのギャバン主演・出演作品を網羅しているかがおわかりいただけるかと思います。よくぞここまで集めてきたものです。今回の感想文は第36作『鉄格子の彼方』'49、第37作『港のマリィ』'50、日本未公開・世界初DVD化作品(?)第39作『ヴィクトル』'51の3作です。なお今回も作品紹介はDVDジャケットの作品解説の引用に原題、公開年月日を添えるに留めました。
●4月22日(日)
『鉄格子の彼方』Le mura di Malapaga / Au-dela des grilles
83分 モノクロ 1949年9月19日(伊)/1949年11月16日(仏)/日本公開1951年5月8日
監督 : ルネ・クレマン
出演 : イザ・ミランダ
殺人を犯し船で逃亡していたピエールは、歯の痛みに耐えられずイタリアのジェノバに降り立った。歯医者を探すピエールは途中で男に偽札を掴まされてしまうが、チェッキーナという少女とその母親マルタに助けられ……。
ため息の出るような見事な秀作。カンヌ国際映画祭監督賞、主演女優賞とアカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)を受賞した本作は映画名人ルネ・クレマン(1913-1996)のさりげなく冴えまくった腕前が堪能できるもので、イタリアのMGMを製作主体に伊仏合作映画になった本作は『靴みがき』'46、『自転車泥棒』'48を始めとしたヴィットリオ・デ・シーカ作品の脚本家チェーザレ・ザヴァッティーニ中心に『地の果てを行く』『望郷』のギャバンがイタリアのジェノヴァに逃れてきたような設定の脚本ですが、『望郷』のデュヴィヴィエはもちろん同作を下敷きにした『霧の波止場』のマルセル・カルネすら軽々超えた余裕の名手ぶりで、長編第1作『鉄路の闘い』'45でいきなりカンヌ国際映画祭国際審査員賞・監督賞、第2作『海の牙』'46も同年の4作品グランプリのうちカンヌ国際映画祭冒険探偵映画賞、第3作の本作は前記の通りで第5作『禁じられた遊び』'52はヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)、再びアカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)、キネマ旬報ベストテン第1位に輝き、第6作『しのび逢い』'54はカンヌ国際映画祭審査員特別賞、第7作『居酒屋』'56はヴェネツィア国際映画祭国際映画評論家連盟賞と監督デビュー最初の10年で国際映画賞を総なめにした人です。戦後10年間の映画界の動向でもっとも成功した戦後派監督で、やはり国際映画賞、アカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)を常連受賞したデ・シーカと並ぶ存在です。あのルイス・ブニュエルですらデ・シーカの『靴みがき』(これはオーソン・ウェルズすら絶賛しました)とクレマンの『禁じられた遊び』は最高と再三に渡って絶賛しており、当然ブニュエルは圧倒的に大衆性を備えたお涙頂戴ヒューマニズム反戦映画に見せかけながら内容は情け容赦ない児童虐待ドタバタ残酷悲劇映画の両作を、同じような指向を持った残酷映画『忘れられた人々』'50の監督として真価を見抜いて心から褒めているので、クレマンはどこがすごいかというとデュヴィヴィエやカルネのような情感はまったく問題にしていなくて、純粋に技巧だけでデリケートきわまりなくしかもわかりやすい大衆性のある作品を本当に作ってしまう感覚と才能、技量がある。サスペンスに満ちたレジスタンス映画の『鉄路の闘い』や反ナチ潜水艦映画『海の牙』は息を飲むようですし『鉄格子の彼方』や『禁じられた遊び』、『しのび逢い』や『居酒屋』には繊細で感動的・悲劇的な人間ドラマがありますが実はクレマン自身は映画に自分自身の気持など託してはいなくて、抑えるべきところは抑えここぞというところは爆発的な表現で観客の感情を振りまわすような映画づくりだけに集中する。フランスの映画監督ですが、デュヴィヴィエやカルネの系列に置くよりもワイラーやヒッチコックのようなハリウッド監督に近い考え方で映画を作っていた人でしょう。
ギャバンをハリウッド映画が上手く使っていたら本作のような作品ができたかもしれないな、とハリウッドでの『夜霧の港』'42を較べると本作『鉄格子の彼方』は思わされるもので、愛人殺しの指名手配を逃れて船員をしていたギャバンが虫歯が痛んでジェノヴァで下りる、少女チェッキーナ(ヴェラ・タルキ)の案内で歯医者に行くが途中で偽札の両替詐欺にあい財布もすられてしまう。観念したギャバンは何とか虫歯を抜いてもらった後自首しようとするが虫歯の痛む最中ずっと食事していなかったのでフランス語のわかる署長の返るまで警察署隣のレストランで無銭飲食して警官を呼んでくれ、詐欺とスリにあって偽札しか持っていないんだとウェイトレスのマルタ(イザ・ミランダ)にうち明けるが、マルタは偽札を受け取って勘定を済ませたことにしてしまう。マルタは実はチェッキーナの母で、別居して離婚に備えている最中の夫(ロベール・ダルバン)がしつこく娘をよこせと訪ねてくるのですが、修道院に通うチェッキーナの下校時間に待ち伏せた夫が娘を連れ去ろうとする。通りかかったギャバンが助ける。そこでギャバンにもチェッキーナの母がマルタと分かって、ギャバンは自首を止めて船から荷物を引き取りジェノヴァでマルタと暮らす決心をするのですが、それまでギャバンに親切だったチェッキーナが母がギャバンと親しくなり連れ添おうとし始めるとギャバンに敵対的な態度をとるようになる。ギャバンを屋根裏部屋に泊めてあげようと決めたマルタが買い物中にふと気づいてひげ剃りブラシと剃刀を買うカット、船の停泊している港に警備員がいて船に近づけないというギャバンに「私を連れていれば入れるでしょ」とチェッキーナが言い出してギャバンを追い出そうとするが結局ギャバンが荷物だけ取って戻ってくる流れ、お尋ね者と子持ち女の中年男女が惹かれあう様子をさりげなく見せていく流れるようによどみない話術と技巧を技巧と感じさせない自然な映像、デュヴィヴィエやカルネではセットに凝らしてしまうのをジェノヴァのロケを最大限生かした映画全体によく陽が当たった明るさが、ローカルな背景の規模の小さい映画ながら広い観客層にアピールするメジャー級の風格をかもし出しており、これがアカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)というのもアメリカの映画人から見たフランス映画とイタリア映画の最良の部分を合わせたような作品だったからでしょう。また映画全体の運びが自然なように結末の処理も無理がないもので、しかも『望郷』や『霧の波止場』のような戦前の芸術的フランス映画にあった芸術的ポーズなどまったくないのに芸術的完成度の面でもそれ以上の成功を収めている。日本公開時の広告を掲載しましたがなんと電車の宙吊り広告です。そのくらい大衆性まであったのが本作であり、ギャバン主演作でも出色の1作でしょう。
(なお『ジャン・ギャバンの世界 第2集』収録はフランス語版です。)
●4月23日(月)
『港のマリィ』La Marie du port
93分 モノクロ 1950年2月18日(仏)/日本公開1951年11月23日
監督 : マルセル・カルネ
出演 : ブランシェット・ブリュノワ
愛人オディルの父親の葬儀に港町にやってきたシャトラール。彼はオディルの妹マリーに恋をしてしまうが、彼女には恋人がいて、逆に彼女に振り回され……。中年男と若い娘のラブロマンス。
フランス語版ウィキペディアのジャン・ギャバンの項目は全出演作の解説がありますが、ギャバンは'30年~'45年までで生涯の出演作の34%が集中していると指摘があり、'45年までの代表作に『陽気な騎兵隊 (Les Gaietes de l'escadron)』'32(モーリス・トゥールヌール監督、日本未公開)、『地の果てを行く』'35、『我等の仲間』'36、『望郷』'37、『大いなる幻影』'37、『愛慾』'37、『霧の波止場』'38、『獣人』'38、『陽は昇る』'39を上げています。『陽気な騎兵隊』は全然知らない作品ですが『地の果てを行く』以前を代表する1作という意味からでしょう。同作を除けばこれほどフランス本国と日本で評価が一致している例は珍しく、日本では『陽気な騎兵隊』の代わりに『上から下まで』'33が入り、『愛慾』『陽は昇る』よりも『白き処女地』'34と『どん底』'36が入る、というくらいでしょうか。『望郷』『大いなる幻影』『霧の波止場』の3作はどこの国でもまず動かないと思われるので、本作『港のマリィ』はギャバン=カルネの『陽は昇る』以来の顔合わせで期待をそそる作品です。クレマンを褒めそやす際についカルネをクレマンの下に置いてしまいましたが、『霧の波止場』を褒める時もデュヴィヴィエをカルネの下に置き(しかしデュヴィヴィエの柄の大きさはカルネにはない、とも書いていたはずです)、グレミヨンの『曳き船』を褒めるのには『霧の波止場』より上と書いた覚えもありますから素人観客の感想文だと思って一笑に付していただければ幸いですが、カルネ映画の精緻な端正さはカルネならではの味なのでデュヴィヴィエの貫禄やクレマンの名人ぶりとも違う青臭い青年的抒情があり、巨匠ルノワールや鬼才グレミヨンなら鋭すぎて突き抜けてしまい、デュヴィヴィエやクレマンなら突き放してしまうような青二才的な感受性があってそれが『ジェニイの家』'36や『霧の波止場』、『北ホテル』'38など成功したカルネ作品の良さだった、とこの感想文の筆者は思っており、それが才気走る方が先立った『陽は昇る』や『天井桟敷の人々』'44はあまり良い映画とは思えません。
ギャバンはカルネの『夜の門』'46で一旦決まった主役を降板して仲違いしていたそうで、これも今回調べるまで知らなかったので映画の感想文を書くのも勉強になるなあと思いましたが、レストランと映画館の経営者の初老の男ギャバンが愛人(ブランシェット・ブリュノワ)の父の葬儀で初めて会った愛人の妹マリィ(ニコール・クールセル)に目をつけ、マリィの恋人の理容師の青年(クロード・ロマン)と四角関係になる、とのちのエリック・ロメールの「六つの教訓話」連作のような設定です。しかし撮影アンリ・アルカン、美術アレクサンドル・トローネル、音楽ジョセフ・コスマと名手が揃っており、ジョルジュ・シムノン原作ながら、初老の主人公ギャバンのみならず登場人物の容貌にも言動にも魅力もなければ説得力もなく、当然共感しようがない。ギャバンの愛人の姉娘の方がまだしもくつろいでいる分多少は魅力があるため、仏頂面で愛想のかけらもないマリィと強がってばかりいるが腰抜けのその恋人の青年など観ていて見苦しいばかりで、終盤は完全にコメディです。しかし観ていて不愉快なだけの恋愛コメディなどいかがなものでしょうか。脚本にジャック・プレヴェールがいたらどうにかなったのでしょうか。1906年生まれのカルネは本作製作時43歳、2歳年上のギャバンは45歳ですが、『狂恋』'47や前作『鉄格子の彼方』で老いの気配のある40代の中年男を演じて歳相応の境地を見せてきたなと思われただけに本作はちょっとひどい。コロナ映画社配給の本作はギャバンが映画館経営をしているために映画館で上映されているジョルジュ・ランパン監督の『白痴』'46、映写技師が取り寄せたムルナウの『タブウ』'31が断片的に観られる楽しみもありますが、フランス語版ウィキペディアではジャンルはコメディ・ロマンティーク、英語版ではロマンティック・ドラマとなっていて、アメリカ上映版ではやや短くされているようです。おそらくあまりにも見苦しいシーンが刈り込まれているのではないでしょうか。失敗した映画など珍しくもありませんが、このタイミングでカルネ監督・ギャバン主演の失敗作、それも年の差恋愛映画と思わせて後半どんどん喜劇になって行き終盤はいくら何でもこれはないだろうとがっかりするような結末になる。しかもフランスでは公開当初なかなかのヒット作になったらしいのです。フランス人ならばわかる、フランス人にしか通じない面白さがあるのかもしれませんが、マリィの恋人の青年役の嘲弄的戯画化など青年世代への悪意まで感じられて、後味が良くない映画としか思えないのです。
●4月24日(火)
『ヴィクトル』Victor
85分 モノクロ 1951年6月13日(仏)/日本未公開
監督 : クロード・エイマン
出演 : フランソワーズ・クリストフ
友人マルクの罪を被って投獄されていたヴィクトルが出所した。ヴィクトルとマルクの妻は相思相愛だったが、マルクは離婚に応じず、彼の妻も経済的に苦しくなることを恐れていた。ヴィクトルは二人を見限るが……。
前作『港のマリィ』に続く第38作はゴルフィノ・フィルム製作、パテ映画社配給の伊仏合作映画『天国への門 (Pour l'amour du ciel)』'50.10.11(伊)/'51.6.13(仏)で、伊仏合作の『鉄格子の彼方』でイタリアとのパイプができたのでしょう。'52年にも第44作の伊仏合作映画『危険な娘 (Fille dangereuse)』があります。『天国への門』はルイジ・ザンパ監督の日本未公開作品で『天使がくれた十二時間』の邦題でかつてテレビ放映されました。『ジャン・ギャバンの世界』に収録されていない'33年以降の数少ない主演・出演作4作のうちのひとつです。英語圏では『His Last Twelve Hours』のタイトルで封切られ『港のマリィ』より評価は高いようで、筆者未見ですが英題・邦題の通り、キャプラの『素晴らしき哉、人生!』やルビッチの『天国は待ってくれる』のような臨終ファンタジー・ドラマのようです(国内外未DVD化)。さて本作『ヴィクトル』はほとんど無名の監督クロード・エイマン(1907-1994、監督作品は'32~'54に11作)の日本未公開、『ジャン・ギャバンの世界 第3集』の収録がどうやら世界初DVD化になるようで、第1集~第3集はいずれも日本未公開・日本初DVD化・世界初DVD化作品を含みますが稀少作品の比率は渋い代表作を看板にした第3集がもっとも多く、次いで第1集がギャバンの代名詞的有名作と稀少作を半々に含み、第2集は代表作が大半で稀少作の収録はもっとも少ない巻です(とはいえ充実した代表作が並ぶ点では必見の収録作品が揃っていますが)。メイトリーズ・アルティザネール社製作の本作はかつての戦友で今や大実業家のマルク(ジャック・カストロ)の罪(明確に描かれませんが、減刑されて1年で出所してきますから窃盗、詐欺や偽証の類でしょう)をマルクの妻フランソワーズ(フランソワーズ・クリストフ)への愛のためにかぶって刑期を果たしてきたギャバンが友人と営む小さな職場に復帰し、フランソワーズと話し合ってマルクとの離婚と自分との結婚の意志を確かめ、ふたりでマルクに離婚の意志を告げにいくが、ギャバンがフランソワーズのために冤罪をかぶったことを見抜いているマルクはギャバンに感謝すらしておらず離婚の条件にフランソワーズの財産すべての差し押さえを要求する。フランソワーズは夫の要求に憤るがギャバンは突然マルクのフランソワーズへの執着に気づき、自分が冤罪をかぶったのはフランソワーズとマルクの裕福で安泰な結婚生活を護ったことになっただけだったと悟ってマルクとフランソワーズに別れを告げる。ギャバンは秘書派遣事務所から来た若い秘書マリアンヌ(ブリジット・オベール)に求婚し、マリアンヌからも愛されて内縁関係になるが、マリアンヌはギャバンがかつての恋人を忘れられないでいるのを察して求婚は受け入れない。ギャバンと友人の事務所は特許事業で大成功する。1年半が過ぎ、汚職事件が露見して明日逮捕されるというマルクが突然ギャバンを訪ねてくる……と、いかにも地味で日本未公開もむべなるかな、という話です。登場人物も主要人物はギャバンとマルク、フランソワーズとマリアンヌだけで、他はギャバンの友人で共同経営者の好人物ジャック(ジャック・モレル)、35年間ギャバンが住んでいるアパートの管理人のおばさん(カミーユ・グェリーニ)くらいだし。このおばさんはフランソワーズが訪ねてくると「あんたとはつりあわないよ」と洩らし、マリアンヌが同居するようになると「あんたとお似合いだよ」と喜ぶというおふくろさん役です。マルクが訪ねてきた後マリアンヌは黙って出ていってしまう。ギャバンとマルクとフランソワーズの関係にドラマティックな決着がついて、ギャバンが秘書派遣事務所で働くマリアンヌを迎えに行く場面で映画は終わります。
派手な展開はほとんどないし、描き方によっては激しい効果を盛りこめるような場面も抑制された演出で通していて非常に渋い映画になっています。本作のギャバンは戦友の妻のために自分から冤罪をかぶった男で、冤罪をかぶったことが自分の自惚れた間違いだったと悟ってマルクの妻フランソワーズへの愛を断念するのですが、それに対するフランソワーズの男女の心の機微も丁寧に説得力があって描かれていて、好色や激情を描くのは映画では比較的たやすいですが、ここでは非常に微妙で描くのが難しい三角関係に踏みこんで成功しています。マルクという男が特異で、しかし現実的存在感のある如才なくずる賢い男のキャラクターをよく体現しており、この男のずる賢こさは相手の急所を突いて自分に都合の良い所では誠実なだけにたちが悪く、それを利用して優位に立つ天性の勘もあって、ギャバンのキャラクターではどうしてもこの男に勝てないわけです。しかも窮地に立たされるとプライドの高い威厳を発揮するというますますタチの悪い食えない男で、これほどやっかいなキャラクターを描いて成功した例は後年のアントニオーニの描いたイタリアのブルジョワ階級人くらいしかすぐ思いつかず、普通映画はひとりの人間の中に同居するさまざまな矛盾した性格を数人のキャラクターに振り分けて描くのが常套手段で、そうでもしないと人間性のいろいろな側面がうまく描き分けられないからですが、本作は限られた登場人物で矛盾に満ちたキャラクター同士を対決させていて、マルクのみならずフランソワーズも本心がいくつもに分かれてまとまらない女ですしギャバンですらそうで、若い秘書でギャバンの新しい愛人になるマリアンヌも同様で、愛情はあっても相手との距離感が埋まらないままでいる関係を淡々と描いている。マルクのようにずけずけとそうした弱みすら利用する男だけがまだしも優位なのですが、そのマルクも破滅していく。映像に凝ったところはないし演出も抑制され美術や音楽でムードを出すようなこともない、地味な渋さを狙ったのではなく内容的な必然から地味以上の何物にもなり得なかったような映画ですし、今後もBS放映や日本公開はまずあり得ない作品でしょう。『ジャン・ギャバンの世界 第3集』に収録・世界初DVD化されたのも数合わせで目玉商品になるような華はまったくない。ですが本作はちょっとした拾いものです。『港のマリィ』とはレベルが違う立派な映画で、特に秀作でも佳作でも何でもありませんが古びた要素がほとんどない。映画賞や名作リストとは無縁に存在価値のある真実に迫った映画です。今後再評価されることもまずないでしょうし、娯楽性も審美性も稀薄だから面白くも好きにもなれない人の方が多いでしょう。が、そういう映画があってもいいではありませんか。
●4月22日(日)
『鉄格子の彼方』Le mura di Malapaga / Au-dela des grilles
83分 モノクロ 1949年9月19日(伊)/1949年11月16日(仏)/日本公開1951年5月8日
監督 : ルネ・クレマン
出演 : イザ・ミランダ
殺人を犯し船で逃亡していたピエールは、歯の痛みに耐えられずイタリアのジェノバに降り立った。歯医者を探すピエールは途中で男に偽札を掴まされてしまうが、チェッキーナという少女とその母親マルタに助けられ……。
ため息の出るような見事な秀作。カンヌ国際映画祭監督賞、主演女優賞とアカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)を受賞した本作は映画名人ルネ・クレマン(1913-1996)のさりげなく冴えまくった腕前が堪能できるもので、イタリアのMGMを製作主体に伊仏合作映画になった本作は『靴みがき』'46、『自転車泥棒』'48を始めとしたヴィットリオ・デ・シーカ作品の脚本家チェーザレ・ザヴァッティーニ中心に『地の果てを行く』『望郷』のギャバンがイタリアのジェノヴァに逃れてきたような設定の脚本ですが、『望郷』のデュヴィヴィエはもちろん同作を下敷きにした『霧の波止場』のマルセル・カルネすら軽々超えた余裕の名手ぶりで、長編第1作『鉄路の闘い』'45でいきなりカンヌ国際映画祭国際審査員賞・監督賞、第2作『海の牙』'46も同年の4作品グランプリのうちカンヌ国際映画祭冒険探偵映画賞、第3作の本作は前記の通りで第5作『禁じられた遊び』'52はヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)、再びアカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)、キネマ旬報ベストテン第1位に輝き、第6作『しのび逢い』'54はカンヌ国際映画祭審査員特別賞、第7作『居酒屋』'56はヴェネツィア国際映画祭国際映画評論家連盟賞と監督デビュー最初の10年で国際映画賞を総なめにした人です。戦後10年間の映画界の動向でもっとも成功した戦後派監督で、やはり国際映画賞、アカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)を常連受賞したデ・シーカと並ぶ存在です。あのルイス・ブニュエルですらデ・シーカの『靴みがき』(これはオーソン・ウェルズすら絶賛しました)とクレマンの『禁じられた遊び』は最高と再三に渡って絶賛しており、当然ブニュエルは圧倒的に大衆性を備えたお涙頂戴ヒューマニズム反戦映画に見せかけながら内容は情け容赦ない児童虐待ドタバタ残酷悲劇映画の両作を、同じような指向を持った残酷映画『忘れられた人々』'50の監督として真価を見抜いて心から褒めているので、クレマンはどこがすごいかというとデュヴィヴィエやカルネのような情感はまったく問題にしていなくて、純粋に技巧だけでデリケートきわまりなくしかもわかりやすい大衆性のある作品を本当に作ってしまう感覚と才能、技量がある。サスペンスに満ちたレジスタンス映画の『鉄路の闘い』や反ナチ潜水艦映画『海の牙』は息を飲むようですし『鉄格子の彼方』や『禁じられた遊び』、『しのび逢い』や『居酒屋』には繊細で感動的・悲劇的な人間ドラマがありますが実はクレマン自身は映画に自分自身の気持など託してはいなくて、抑えるべきところは抑えここぞというところは爆発的な表現で観客の感情を振りまわすような映画づくりだけに集中する。フランスの映画監督ですが、デュヴィヴィエやカルネの系列に置くよりもワイラーやヒッチコックのようなハリウッド監督に近い考え方で映画を作っていた人でしょう。
ギャバンをハリウッド映画が上手く使っていたら本作のような作品ができたかもしれないな、とハリウッドでの『夜霧の港』'42を較べると本作『鉄格子の彼方』は思わされるもので、愛人殺しの指名手配を逃れて船員をしていたギャバンが虫歯が痛んでジェノヴァで下りる、少女チェッキーナ(ヴェラ・タルキ)の案内で歯医者に行くが途中で偽札の両替詐欺にあい財布もすられてしまう。観念したギャバンは何とか虫歯を抜いてもらった後自首しようとするが虫歯の痛む最中ずっと食事していなかったのでフランス語のわかる署長の返るまで警察署隣のレストランで無銭飲食して警官を呼んでくれ、詐欺とスリにあって偽札しか持っていないんだとウェイトレスのマルタ(イザ・ミランダ)にうち明けるが、マルタは偽札を受け取って勘定を済ませたことにしてしまう。マルタは実はチェッキーナの母で、別居して離婚に備えている最中の夫(ロベール・ダルバン)がしつこく娘をよこせと訪ねてくるのですが、修道院に通うチェッキーナの下校時間に待ち伏せた夫が娘を連れ去ろうとする。通りかかったギャバンが助ける。そこでギャバンにもチェッキーナの母がマルタと分かって、ギャバンは自首を止めて船から荷物を引き取りジェノヴァでマルタと暮らす決心をするのですが、それまでギャバンに親切だったチェッキーナが母がギャバンと親しくなり連れ添おうとし始めるとギャバンに敵対的な態度をとるようになる。ギャバンを屋根裏部屋に泊めてあげようと決めたマルタが買い物中にふと気づいてひげ剃りブラシと剃刀を買うカット、船の停泊している港に警備員がいて船に近づけないというギャバンに「私を連れていれば入れるでしょ」とチェッキーナが言い出してギャバンを追い出そうとするが結局ギャバンが荷物だけ取って戻ってくる流れ、お尋ね者と子持ち女の中年男女が惹かれあう様子をさりげなく見せていく流れるようによどみない話術と技巧を技巧と感じさせない自然な映像、デュヴィヴィエやカルネではセットに凝らしてしまうのをジェノヴァのロケを最大限生かした映画全体によく陽が当たった明るさが、ローカルな背景の規模の小さい映画ながら広い観客層にアピールするメジャー級の風格をかもし出しており、これがアカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)というのもアメリカの映画人から見たフランス映画とイタリア映画の最良の部分を合わせたような作品だったからでしょう。また映画全体の運びが自然なように結末の処理も無理がないもので、しかも『望郷』や『霧の波止場』のような戦前の芸術的フランス映画にあった芸術的ポーズなどまったくないのに芸術的完成度の面でもそれ以上の成功を収めている。日本公開時の広告を掲載しましたがなんと電車の宙吊り広告です。そのくらい大衆性まであったのが本作であり、ギャバン主演作でも出色の1作でしょう。
(なお『ジャン・ギャバンの世界 第2集』収録はフランス語版です。)
●4月23日(月)
『港のマリィ』La Marie du port
93分 モノクロ 1950年2月18日(仏)/日本公開1951年11月23日
監督 : マルセル・カルネ
出演 : ブランシェット・ブリュノワ
愛人オディルの父親の葬儀に港町にやってきたシャトラール。彼はオディルの妹マリーに恋をしてしまうが、彼女には恋人がいて、逆に彼女に振り回され……。中年男と若い娘のラブロマンス。
フランス語版ウィキペディアのジャン・ギャバンの項目は全出演作の解説がありますが、ギャバンは'30年~'45年までで生涯の出演作の34%が集中していると指摘があり、'45年までの代表作に『陽気な騎兵隊 (Les Gaietes de l'escadron)』'32(モーリス・トゥールヌール監督、日本未公開)、『地の果てを行く』'35、『我等の仲間』'36、『望郷』'37、『大いなる幻影』'37、『愛慾』'37、『霧の波止場』'38、『獣人』'38、『陽は昇る』'39を上げています。『陽気な騎兵隊』は全然知らない作品ですが『地の果てを行く』以前を代表する1作という意味からでしょう。同作を除けばこれほどフランス本国と日本で評価が一致している例は珍しく、日本では『陽気な騎兵隊』の代わりに『上から下まで』'33が入り、『愛慾』『陽は昇る』よりも『白き処女地』'34と『どん底』'36が入る、というくらいでしょうか。『望郷』『大いなる幻影』『霧の波止場』の3作はどこの国でもまず動かないと思われるので、本作『港のマリィ』はギャバン=カルネの『陽は昇る』以来の顔合わせで期待をそそる作品です。クレマンを褒めそやす際についカルネをクレマンの下に置いてしまいましたが、『霧の波止場』を褒める時もデュヴィヴィエをカルネの下に置き(しかしデュヴィヴィエの柄の大きさはカルネにはない、とも書いていたはずです)、グレミヨンの『曳き船』を褒めるのには『霧の波止場』より上と書いた覚えもありますから素人観客の感想文だと思って一笑に付していただければ幸いですが、カルネ映画の精緻な端正さはカルネならではの味なのでデュヴィヴィエの貫禄やクレマンの名人ぶりとも違う青臭い青年的抒情があり、巨匠ルノワールや鬼才グレミヨンなら鋭すぎて突き抜けてしまい、デュヴィヴィエやクレマンなら突き放してしまうような青二才的な感受性があってそれが『ジェニイの家』'36や『霧の波止場』、『北ホテル』'38など成功したカルネ作品の良さだった、とこの感想文の筆者は思っており、それが才気走る方が先立った『陽は昇る』や『天井桟敷の人々』'44はあまり良い映画とは思えません。
ギャバンはカルネの『夜の門』'46で一旦決まった主役を降板して仲違いしていたそうで、これも今回調べるまで知らなかったので映画の感想文を書くのも勉強になるなあと思いましたが、レストランと映画館の経営者の初老の男ギャバンが愛人(ブランシェット・ブリュノワ)の父の葬儀で初めて会った愛人の妹マリィ(ニコール・クールセル)に目をつけ、マリィの恋人の理容師の青年(クロード・ロマン)と四角関係になる、とのちのエリック・ロメールの「六つの教訓話」連作のような設定です。しかし撮影アンリ・アルカン、美術アレクサンドル・トローネル、音楽ジョセフ・コスマと名手が揃っており、ジョルジュ・シムノン原作ながら、初老の主人公ギャバンのみならず登場人物の容貌にも言動にも魅力もなければ説得力もなく、当然共感しようがない。ギャバンの愛人の姉娘の方がまだしもくつろいでいる分多少は魅力があるため、仏頂面で愛想のかけらもないマリィと強がってばかりいるが腰抜けのその恋人の青年など観ていて見苦しいばかりで、終盤は完全にコメディです。しかし観ていて不愉快なだけの恋愛コメディなどいかがなものでしょうか。脚本にジャック・プレヴェールがいたらどうにかなったのでしょうか。1906年生まれのカルネは本作製作時43歳、2歳年上のギャバンは45歳ですが、『狂恋』'47や前作『鉄格子の彼方』で老いの気配のある40代の中年男を演じて歳相応の境地を見せてきたなと思われただけに本作はちょっとひどい。コロナ映画社配給の本作はギャバンが映画館経営をしているために映画館で上映されているジョルジュ・ランパン監督の『白痴』'46、映写技師が取り寄せたムルナウの『タブウ』'31が断片的に観られる楽しみもありますが、フランス語版ウィキペディアではジャンルはコメディ・ロマンティーク、英語版ではロマンティック・ドラマとなっていて、アメリカ上映版ではやや短くされているようです。おそらくあまりにも見苦しいシーンが刈り込まれているのではないでしょうか。失敗した映画など珍しくもありませんが、このタイミングでカルネ監督・ギャバン主演の失敗作、それも年の差恋愛映画と思わせて後半どんどん喜劇になって行き終盤はいくら何でもこれはないだろうとがっかりするような結末になる。しかもフランスでは公開当初なかなかのヒット作になったらしいのです。フランス人ならばわかる、フランス人にしか通じない面白さがあるのかもしれませんが、マリィの恋人の青年役の嘲弄的戯画化など青年世代への悪意まで感じられて、後味が良くない映画としか思えないのです。
●4月24日(火)
『ヴィクトル』Victor
85分 モノクロ 1951年6月13日(仏)/日本未公開
監督 : クロード・エイマン
出演 : フランソワーズ・クリストフ
友人マルクの罪を被って投獄されていたヴィクトルが出所した。ヴィクトルとマルクの妻は相思相愛だったが、マルクは離婚に応じず、彼の妻も経済的に苦しくなることを恐れていた。ヴィクトルは二人を見限るが……。
前作『港のマリィ』に続く第38作はゴルフィノ・フィルム製作、パテ映画社配給の伊仏合作映画『天国への門 (Pour l'amour du ciel)』'50.10.11(伊)/'51.6.13(仏)で、伊仏合作の『鉄格子の彼方』でイタリアとのパイプができたのでしょう。'52年にも第44作の伊仏合作映画『危険な娘 (Fille dangereuse)』があります。『天国への門』はルイジ・ザンパ監督の日本未公開作品で『天使がくれた十二時間』の邦題でかつてテレビ放映されました。『ジャン・ギャバンの世界』に収録されていない'33年以降の数少ない主演・出演作4作のうちのひとつです。英語圏では『His Last Twelve Hours』のタイトルで封切られ『港のマリィ』より評価は高いようで、筆者未見ですが英題・邦題の通り、キャプラの『素晴らしき哉、人生!』やルビッチの『天国は待ってくれる』のような臨終ファンタジー・ドラマのようです(国内外未DVD化)。さて本作『ヴィクトル』はほとんど無名の監督クロード・エイマン(1907-1994、監督作品は'32~'54に11作)の日本未公開、『ジャン・ギャバンの世界 第3集』の収録がどうやら世界初DVD化になるようで、第1集~第3集はいずれも日本未公開・日本初DVD化・世界初DVD化作品を含みますが稀少作品の比率は渋い代表作を看板にした第3集がもっとも多く、次いで第1集がギャバンの代名詞的有名作と稀少作を半々に含み、第2集は代表作が大半で稀少作の収録はもっとも少ない巻です(とはいえ充実した代表作が並ぶ点では必見の収録作品が揃っていますが)。メイトリーズ・アルティザネール社製作の本作はかつての戦友で今や大実業家のマルク(ジャック・カストロ)の罪(明確に描かれませんが、減刑されて1年で出所してきますから窃盗、詐欺や偽証の類でしょう)をマルクの妻フランソワーズ(フランソワーズ・クリストフ)への愛のためにかぶって刑期を果たしてきたギャバンが友人と営む小さな職場に復帰し、フランソワーズと話し合ってマルクとの離婚と自分との結婚の意志を確かめ、ふたりでマルクに離婚の意志を告げにいくが、ギャバンがフランソワーズのために冤罪をかぶったことを見抜いているマルクはギャバンに感謝すらしておらず離婚の条件にフランソワーズの財産すべての差し押さえを要求する。フランソワーズは夫の要求に憤るがギャバンは突然マルクのフランソワーズへの執着に気づき、自分が冤罪をかぶったのはフランソワーズとマルクの裕福で安泰な結婚生活を護ったことになっただけだったと悟ってマルクとフランソワーズに別れを告げる。ギャバンは秘書派遣事務所から来た若い秘書マリアンヌ(ブリジット・オベール)に求婚し、マリアンヌからも愛されて内縁関係になるが、マリアンヌはギャバンがかつての恋人を忘れられないでいるのを察して求婚は受け入れない。ギャバンと友人の事務所は特許事業で大成功する。1年半が過ぎ、汚職事件が露見して明日逮捕されるというマルクが突然ギャバンを訪ねてくる……と、いかにも地味で日本未公開もむべなるかな、という話です。登場人物も主要人物はギャバンとマルク、フランソワーズとマリアンヌだけで、他はギャバンの友人で共同経営者の好人物ジャック(ジャック・モレル)、35年間ギャバンが住んでいるアパートの管理人のおばさん(カミーユ・グェリーニ)くらいだし。このおばさんはフランソワーズが訪ねてくると「あんたとはつりあわないよ」と洩らし、マリアンヌが同居するようになると「あんたとお似合いだよ」と喜ぶというおふくろさん役です。マルクが訪ねてきた後マリアンヌは黙って出ていってしまう。ギャバンとマルクとフランソワーズの関係にドラマティックな決着がついて、ギャバンが秘書派遣事務所で働くマリアンヌを迎えに行く場面で映画は終わります。
派手な展開はほとんどないし、描き方によっては激しい効果を盛りこめるような場面も抑制された演出で通していて非常に渋い映画になっています。本作のギャバンは戦友の妻のために自分から冤罪をかぶった男で、冤罪をかぶったことが自分の自惚れた間違いだったと悟ってマルクの妻フランソワーズへの愛を断念するのですが、それに対するフランソワーズの男女の心の機微も丁寧に説得力があって描かれていて、好色や激情を描くのは映画では比較的たやすいですが、ここでは非常に微妙で描くのが難しい三角関係に踏みこんで成功しています。マルクという男が特異で、しかし現実的存在感のある如才なくずる賢い男のキャラクターをよく体現しており、この男のずる賢こさは相手の急所を突いて自分に都合の良い所では誠実なだけにたちが悪く、それを利用して優位に立つ天性の勘もあって、ギャバンのキャラクターではどうしてもこの男に勝てないわけです。しかも窮地に立たされるとプライドの高い威厳を発揮するというますますタチの悪い食えない男で、これほどやっかいなキャラクターを描いて成功した例は後年のアントニオーニの描いたイタリアのブルジョワ階級人くらいしかすぐ思いつかず、普通映画はひとりの人間の中に同居するさまざまな矛盾した性格を数人のキャラクターに振り分けて描くのが常套手段で、そうでもしないと人間性のいろいろな側面がうまく描き分けられないからですが、本作は限られた登場人物で矛盾に満ちたキャラクター同士を対決させていて、マルクのみならずフランソワーズも本心がいくつもに分かれてまとまらない女ですしギャバンですらそうで、若い秘書でギャバンの新しい愛人になるマリアンヌも同様で、愛情はあっても相手との距離感が埋まらないままでいる関係を淡々と描いている。マルクのようにずけずけとそうした弱みすら利用する男だけがまだしも優位なのですが、そのマルクも破滅していく。映像に凝ったところはないし演出も抑制され美術や音楽でムードを出すようなこともない、地味な渋さを狙ったのではなく内容的な必然から地味以上の何物にもなり得なかったような映画ですし、今後もBS放映や日本公開はまずあり得ない作品でしょう。『ジャン・ギャバンの世界 第3集』に収録・世界初DVD化されたのも数合わせで目玉商品になるような華はまったくない。ですが本作はちょっとした拾いものです。『港のマリィ』とはレベルが違う立派な映画で、特に秀作でも佳作でも何でもありませんが古びた要素がほとんどない。映画賞や名作リストとは無縁に存在価値のある真実に迫った映画です。今後再評価されることもまずないでしょうし、娯楽性も審美性も稀薄だから面白くも好きにもなれない人の方が多いでしょう。が、そういう映画があってもいいではありませんか。