コスミック出版刊行の書籍扱い10枚組廉価版DVDボックス『フランス映画パーフェクトコレクション~ジャン・ギャバンの世界』第1集~第3集(2016年12月~2017年12月発売)の収録作品30作をぜんぶ年代順に観直してしまおうという第2回は、前回のギャバン出演長編劇映画第7作『リラの心』'32.3、第14作『トンネル』'33.11、ギャバン出演作初の日本公開作品になった第16作『はだかの女王』'34.11(日本公開1935年12月)に続いて、今回ご紹介する第17作『白き処女地』'34.12(日本公開1936年2月)、第18作『ゴルゴダの丘』'35.4(1936年11月)、第20作『地の果てを行く』'35.9(1936年9月)の3作のジュリアン・デュヴィヴィエ(1896-1967)監督作品3作です。ジャン・ギャバンは今回と次回ご紹介するデュヴィヴィエ作品で第21作『我等の仲間』'36.9月(日本公開1937年4月)、ジャン・ルノワール監督作品で第22作『どん底』'36.12月(日本公開1937年11月)、そしてデュヴィヴィエ作品の第23作『望郷 (Pepe le Moko)』'37.1(日本公開1939年2月)でフランス自国での、そして日本での人気を決定的なものにします。ギャバン作品日本公開は最初の日本公開作になる第16作『はだかの女王』'34.11(日本公開1935年12月)に続いて、第17作『白き処女地』'34.12(日本公開1936年2月)の前に第15作のドイツの巨匠G・W・パプスト監督作品でウィーンの同じアパートの住人たちを平行して描いた(ギャバンはその住人のひとりの)『上から下まで』'33.12(日本公開1936年5月)も公開されていますから、1930年(26歳)映画初出演とデビューはやや遅かったものの30歳~32歳での大成は順風満帆だったと言えます。
デュヴィヴィエ作品への出演は『望郷』でひと区切りがつき、デュヴィヴィエ、ギャバンともにドイツ侵攻間際にアメリカに亡命していた頃にアメリカ映画で製作された『逃亡者』'44がひさびさのギャバン主演のデュヴィヴィエ作品になりますが、『白き処女地』~『望郷』に至る時期のデュヴィヴィエ=ギャバン作品(またそれ以前・以降の戦前のデュヴィヴィエ作品)はフランス国内よりも日本での興行成績の方が上回るほどで、「日本で受けるデュヴィヴィエ映画」とフランス国内の批評家から揶揄されたとまで言われています。戦後、'60年代以降の文献を見るとフランス人映画批評家の大半の見解では「ジャン・ルノワール以外の'30年代映画は、外国ではともかく、フランスでは忘れられている」という記述が多く、フェデー、クレール、デュヴィヴィエ、カルネらの作品はおおむね古い戦前派の映画扱いされており、ただしジャン・ギャバンの国民俳優的人気は往年の出演作が古びても常に好評な新作があり、揺るがなかったようです。『白き処女地』はギャバン初のデュヴィヴィエ監督作品出演で、次の『ゴルゴダの丘』の次に第19作のニコラ・ファルカス監督、アナベラ主演作『ヴァリエテ』'35.11(E・A・デュポン監督のサイレント作品のリメイク)への出演があり、第20作『地の果てを行く』はデュヴィヴィエ監督のギャバンとアナベラ共演作品になりました。なお今回も作品紹介はDVDジャケットの作品解説の引用に原題、公開年月日を添えるに留めました。
●4月4日(水)
『白き処女地』Maria Chapdelaine
72分 モノクロ 1934年12月14日(仏)/日本公開1936年2月
監督 : ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 : マドレーヌ・ルノー
放浪者のフランソワは数年ぶりに故郷に戻った。彼は美しく成長したマリアに恋心を抱き、放浪生活を捨て、彼女との結婚のため出稼ぎにでるが……。伝統や信仰を守りながら生きるカナダのフランス系住民たちを描いた作品。
北米大陸カナダ合衆国は当然アメリカ大陸が発見されてから植民されたので、元イギリス領だった州とフランス領だった州に分かれており、公用語も英仏2か国語です。本作はケベック州の山奥が舞台で今なお続く開拓民の生活を描いており、邦題の由来はそこから来ていてうまい邦題です。原題はそっけなくヒロインの名前『マリア・シャプドレーヌ』で、ヒロインを演じるのは『トンネル』でもギャバンと共演していたマドレーヌ・ルノーです。『トンネル』でもルノーの名前の方がクレジットでは先でしたが同作は実質的にギャバンの主演作でした。今回は正真正銘ルノーの主演作品で、ギャバンは準主役ですが『トンネル』でのルノーの役どころに較べれば男性主人公格として比重は大きい方です。映画は流れ者の猟師ギャバンが故郷のケベックの山奥の村に帰ってきた場面から始まり、続いて隣村に住むルノーとその家族の日常生活が描かれ、次いでひさしぶりの再会を喜ぶギャバンとルノーに話は移ります。ギャバンとルノーは本人たちも周囲からも似合いのカップルで結婚を望まれているのですが、老いた両親と弟妹たちと暮らすルノーは土地に腰を据えた開墾生活が身についており、また病弱な老母に代わって一家の主婦として家を切り盛りしていて、季節ごとに狩り場を転々とするギャバンとはそれが障害になっています。本作は実際ケベックの山奥でロケをしたそうで、前回の3作(特に『リラの心』)も良好なプリントでしたが本作は今回のデュヴィヴィエ作品ではもっとも状態の良いプリントです。
元フランス領で公用語もフランス語のケベック州なので宗教はカトリックで、本作は田舎の話なので社交界はカトリック教会の礼拝になります。ギャバン以外にもルノーに片思いしている青年が二人いて、ひとりは都会で働いていてクリスマス休暇で里帰りしている青年、もうひとりはヒロインの家の近所で木こりをしている青年で、ギャバンがいるのでルノーには言い寄れないでいる、という奥ゆかしい設定です。この人間関係がどうなっていくかを書くと話をばらしてしまうことになるので物語についてはここまでにして、本作は前述の通り良好な画質でケベック現地ロケも美しいのですが、あいにく先月溝口、スタンバーグ、ルビッチと極めつけの映画を観てきたばかりではデュヴィヴィエの映画は一段、ただし決定的に見劣りして見えます。俳優の芝居の演出手腕もそうですが、それなりに工夫を凝らしてある撮影と編集から一貫した強い美意識と手法が見えてこない。たとえば何種類ものワイプがシーンの変わり目に使われ、ギャバンが吹雪の山の中に迷うシーンや都会の青年がヒロインに都会生活を語るシーン、ヒロインの家族のひとりの臨終シーンではスクリーン・プロセスやオーヴァーラップが多用され、またヒロインをめぐる青年たち(ギャバン含め)の動向がヒロインの家庭での情景とカット・バックで描かれますが、ストーリー上の説明にはなっているものの一貫した映像文体の体をなしていないので、特にスクリーン・プロセスの多用はせっかくの現地ロケで撮ってきたのは背景映像だけでスタジオ撮影の俳優の芝居を重ねているのですから興ざめです。しかもスクリーン・プロセスの使用法そのものが乱雑で映像が汚い。ヒッチコックは同時期の作品でスクリーン・プロセスなんてどうせまやかしなんだから自然さを狙ってわざとらしくやる、とひねくれた使い方をしており、またアントニオーニは監督デビュー作『愛と殺意』'50から自動車や列車内の芝居にスクリーン・プロセスを決して使わない監督でした。何をやって何は絶対やらないかルビッチやスタンバーグ、溝口らはきっぱりとした映像意識の自覚がありましたが、デュヴィヴィエは使える技法は何でも使う、それはかまわないのですがこの映画の中でこのシーンはこうする、という選択に美意識も必然性も稀薄なため映画が散漫になっている。3人の青年とのロマンスがまるで別々の調子の演出で、それが効果的なコントラストになってはおらずつぎはぎしたようで、そのせいでマドレーヌ・ルノーのヒロインが魅力的なヒロインに見えない、という根本から力の弱い映画に見えるのです。本作は'34年末の公開映画ですがルビッチの『ラヴ・パレイド』'29やスタンバーグの『モロッコ』'30よりずっと古い作品に見えますし、溝口の『マリアのお雪』'35は『白き処女地』と観較べれば悠にもっと数年先の作品に見えます。本作以前のデュヴィヴィエ作品は『にんじん』'32、『商船テナシチー』'34をずっと昔に観たきりですが、観直した限り本作は同時期のアメリカ映画や日本映画の水準からははっきり落ちる作品で、ソシエテ・ノーブル・シネマトグラフィ社製作のフランス映画というローカル色を加味しないとあまり高くは買えない映画です。いちばんの見所だったのは吹雪の中を立ち往生する馬ぞりの馬の名演だったと言うと皮肉に響いてしまうでしょうか。
●4月5日(木)
『ゴルゴダの丘』Golgotha
91分 モノクロ 1935年4月10日(仏)/日本公開1936年11月
監督 : ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 : ロベール・ル・ヴィギャン、アリ・ボール
キリストの受難劇をピラト役にジャン・ギャバンを迎えて製作された宗教史劇。ローマ統治時代のエルサレム。イエスの力を恐れ始めた権力者は、彼の処刑を策謀していた。巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエが描く宗教史劇の金字塔!
次に『白き処女地』を観直す時は気がつかなかったロベール・ル・ヴィガンを探して見てみよう、と本作と次作の『地の果てを行く』'35のル・ヴィガンの好演を見て思いました。記憶の中では『地の果てを行く』のル・ヴィガンは『我等の仲間』'36のシャルル・ヴァネルとごっちゃになっていたのですが、フランス国内の多くのカトリック教徒の寄付をイクティス・フィルム社が募って製作したという本作は、キリスト教には何の関心もない多くの日本人観客にはあまり面白くない作品かもしれませんが、フランス映画に限らずキリスト教圏のヨーロッパ映画には珍しい真っ正面の『新約聖書』の四福音書のイエス・キリスト伝映画です。これは映画観客でも普段あまり意識しないことですが、以前ベルイマンについての批評論集を読んでいたら「神、またはイエス・キリストをじかに映画の題材にしたものはハリウッド映画には多いがヨーロッパ映画には少ない。'60年代のベルイマンとパゾリーニは特異な例で、ヨーロッパ映画ではデュヴィヴィエの『ゴルゴダの丘』くらいではないか」と指摘していた批評が記憶に残りました。確かにそうで、ハリウッド映画は『イントレランス』'16の昔から『ベン・ハー』'27や『情炎の女サロメ』'53を経て近年までキリストの受難を描いた映画はかなりあります。キリスト役にはあえて顔が知られていない無名の新人役者を起用し、そうしたキリスト役者は映画出演はそれきりになる場合が多い、というジンクスもあるような気がします。新興プロテスタントが大勢を占めるアメリカ合衆国では聖書のイエス・キリスト伝映画が作られるのにカトリック、プロテスタントが国ごとにさまざまなヨーロッパ諸国ではなぜ作られないかはさておいて、本作は後年のベルイマンやパゾリーニとは違ってハリウッド産歴史映画に近い作りのイエス・キリスト伝映画ですが、ハリウッド映画ともやはり異なる感覚でイエス・キリストの処刑を描いています。ハリウッド映画では観客を思いきり感情移入させるような作りになっていて、主役の反乱奴隷ベン・ハーが活躍するのは映画前半2/3だけで後半1/3は同時代人のキリスト教信徒ベン・ハーから見たイエス・キリスト伝になる『ベン・ハー』'27は自由と解放を求めるベン・ハーの熱い思いに共感するようにゴルゴダ(日本語表記なら「ゴルゴタ」の方が良いのではと思いますが)の丘を登るキリストの処刑を見つめることになるのですが、本作は割と淡々と突き放した描き方で、ギャバンが演じているのはローマ領ユダヤ総督ポンテオ・ピラトなのですが、ピラトは本来穏健派でその上妻がキリスト教徒になっています。さしたる罪状もない(せいぜい教会の庭の物売りの屋台を「私の父の家で商売をするな!」とひっくり返して回ったくらいですし、違法医療詐欺事件を起こしたのでもありません)キリストを死刑にするのは公正な司政者ピラトにとっては冤罪事件の裁判官という屈辱になります。ギャバンが演じているのもあってピラトが四苦八苦何とかキリストへの死刑判決を避けようとする苦節はよく描けています。
本作はある程度キリスト教知識があると作品の苦心がわかって面白い映画で、キリストを最終的に死刑に追いこんだのはユダヤ人市民の世論と描いている点では反ユダヤ主義映画とも言えるほどです。体制に順応し、また旧来の律法主義の伝統的ユダヤ教信徒だった多数のユダヤ人たちには律法より信仰を上位に置いた伝道師ヨハネは異端、またヨハネの直弟子だったキリストのより強力な伝道はローマ領ユダヤの秩序を乱す煽動だったでしょう。新約聖書の翻訳でよく問題になるピラトのキリスト尋問の一節に「お前はユダヤの王か」「その通りだ」と口語訳聖書で訳され、新改訳で「あなたがそう言うなら、そうだろう」と直された箇所がありますが、本作では「お前はユダヤの王か」「それはあなたが言ったことだ」とフランス語訳を経てよりすっきり文意の通るものになっており、聖書物語のキリスト伝映画としてはハリウッド映画より誇張の少ない、しかしユダヤ人世論によるイエス処刑がその分強く出た映画になっています。本作でキリストを演じたロベール・ル・ヴィガンが良く、また『望郷』'37でギャバンを追う刑事役のリュカ・グリドゥーがユダを演じていて、アリ・ボールのヘロデ王がチャールズ・ロートンか後のオーソン・ウェルズかのようなすごい迫力で場をさらいます。音楽もジャック・イベールと豪華です。本作については現代人情劇でない分デュヴィヴィエも妙に映像に凝らず(キリストのショットがいつも逆光という程度で)、大セットと大量エキストラをさばいて映画監督としては表現を無欲に作り上げたのが良い結果になったと思います。それでも聖書やキリスト教にまったく関心がない、拒絶反応が起こる観客にはちっとも面白くない大作かもしれませんが、ハリウッド映画のキリスト受難ものをご覧になったことがあるなら比較対象としては異色あるものとしてお勧めできます。ハリウッド映画のキリスト受難ものの特色も本作との比較で浮かんでくるのです。
●4月6日(金)
『地の果てを行く』La Bandera
96分 モノクロ 1935年9月20日(仏)/日本公開1936年9月
監督 : ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 : アナベラ
フランスで殺人を犯したピエールは、警察に追われスペインに身を隠していた。しかし酒場で全財産を盗まれ、スペイン外人部隊に入隊する。同時に入隊してきた同国人のリュカは、執拗にピエールに付きまとい……。
ついに後年のイメージ通り、つまり前科者で逃亡中の無骨な好漢という役柄のジャン・ギャバンが出てきた観のある本作は今回調べて初めて知りましたがギャバン自身が原作の映画化権を買ってデュヴィヴィエに監督を依頼したという勝負作で、そうしてみると長編映画出演20作目、'30年の映画デビューから6年目にしてギャバンが自己プロデュース力を示した大俳優への本格的な第一歩になったわけです。監督と共同脚本の脚本家がついに登場シャルル・スパークで、外人部隊ものはサイレント映画の昔からありスタンバーグの『モロッコ』'30もそうでしたし、本作は何よりスパーク脚本によるフェデーのそのものずばり『外人部隊』'33が原作は異なるとは言え訳あり前科者の外人部隊入隊を異国情緒ロマンスと絡めてえがいた作品で、ギャバンが思い描いていたのもフェデー作品の線だと思います。国際的大ヒット作『モロッコ』も外人部隊異国情緒ロマンスですがゲイリー・クーパーはギャバンからすれば色男すぎるばかりで外人部隊に身をやつしている割にはあまりに翳りがなく、翳りがないと言えばこれまでのギャバンの役柄も健康的な色男キャラクターが主なもので、潜在的名優ギャバンにとっては役不足だったのだと思います。率直に言ってもっとやりがいのある役がやりたかった。出演作品第18作『ゴルゴダの丘』に次いでギャバンが出演したのはサイレント映画の名作(独'25、E・A・デュポン)でサーカスの曲芸師夫婦と空中ブランコ乗り青年の嫉妬劇『ヴァリエテ』のリメイクでしたが、オリジナルでは主旨は曲芸師の夫(エミール・ヤニングス)が妻と青年に抱く疑惑であり、リメイクでは女は人妻ではなくアナベラ演じるサーカスの花形娘で、ギャバンとフェルナン・グラヴェの演じる二人の曲芸師との二等辺三角関係という平坦なものになっていました。年齢的にまだヤニングスのような屈折した初老の男の役はできないとすると、ギャバンの年齢(30代になったばかり)でうまくはまるのはやくざ崩れの前科者というのはうまい発明で、後に高倉健や渡哲也が得意とした'50~'60年代日本映画の和製フィルム・ノワール路線のルーツができました。もっとも一般的にはフィルム・ノワールとはフランスの映画批評界から出た'40~'50年代アメリカの犯罪映画ブームの呼び名で、アメリカのそれは'30年代初頭のギャング映画から発展したものでギャバン=デュヴィヴィエ作品とはほとんど関係ないものです。コスミック出版のDVDボックス『ジャン・ギャバンの世界』は第1集「フィルム・ノワール映像の頂点」、第2集「フィルム・ノワール映像の金字塔」、第3集「フィルム・ノワール不朽の名作集」とキャッチコピーがついていますが、何となくぼやかした表現なのはギャバン出演のフランス犯罪映画は普通フィルム・ノワールとは呼ばないからです。
それを言えば『ジャン・ギャバンの世界』収録作品30作の中でもっとも製作年度が古いギャバン出演作第7作『リラの心』'32がほとんどアメリカの'40~'50年代フィルム・ノワール作品に近い感覚と題材・内容の映画なのはアナトール・リトヴァクあなどりがたしとも言え、あれはまだギャバン主演作品ではありませんし小品佳作にとどまる出来ですが、それも含めてエドガー・G・ウルマー級の監督のフィルム・ノワールと言っていい作品でした。ならば一流脚本家シャルル・スパーク脚本、'30年代フランス映画の第一線監督デュヴィヴィエの監督による本作『地の果てを行く』は『白き処女地』より各段に面白く情感の厚い作品になりましたし、ル・ヴィガンの好演やピエール・ルノワール、ガストン・モド、ヴィヴィアンヌ・ロマンスら良い俳優に恵まれましたが、やはり題材が題材だけに太い線で押した『ゴルゴダの丘』がデュヴィヴィエの本流ではなく『白き処女地』の監督の作品なんだな、と思わせる映像文体のつぎはぎ感があります。ル・ヴィガンが脅迫者か刑事か、ギャバンはル・ヴィガンにどう立ち向かうか巧みに引っ張る展開は最高なのですがそれはシナリオの次元でも成り立つことですし、クレジット上はアナベラ、ギャバンの順で監督のデュヴィヴィエが共同脚本なのはアナベラの出番の提案だったのではないかと思います。つまり本作のプロットでは本来アナベラはもっと小さい役で済んでしまうので、デュヴィヴィエがアナベラの見せ場を追加してスパークにメイン・プロットにアナベラが絡むようにリクエストしたと思われ、だとしたらスパークの手腕は鮮やかなものです。ただし本作が古びている部分があるのもアナベラの比重が高すぎるからで、この外人部隊はスペイン軍ですから部隊は南米のどこか(地名が出てきたか見落としました)だと思いますが、そこから現地人の舞妓のアナベラがヒロインになるためにロマンスそのものがエキゾチシズムになっている。『モロッコ』では現地人の女たちにモテモテの色男クーパーのロマンスの相手は流れ者の歌手のディートリッヒですし、悪女に貢ぐため前科者となった上に捨てられて入隊した『外人部隊』の主人公は出兵先の土地の酒場で自分を捨てた悪女そっくりの女(マリー・ベル二役)。前科者ギャバンと謎の男ル・ヴィガンが外人部隊で死地をかいくぐりながら腹を読みあうサスペンスと、兵士ギャバンの現地人の舞妓アナベラとのエキゾチックなロマンスが、プロット上では接点を作れてもそれぞれの場面では別の種類の映画になっている。『白き処女地』でヒロインをめぐる3人の男がそれぞれ異なる個性の男なのはともかく、それぞれの男たちとヒロインが二人きりになるシーンごとに演出のタッチまで変えていたのが逆効果になっていたように、本作も前科者サスペンスとエキゾチック・ロマンスが相殺しあっており、むしろ訳ありで南米の酒場女に流れてきたフランス人の女とのささやかなロマンスの方が演出の統一も取れ、作品全体のバランスも良く、なおかつエキゾチシズムに頼らない自然な哀切さをたたえさせられたのではないかと思えてなりません。しかし本作は戦後の『鉄格子の彼方』'49にいたるまでギャバンの得意役となったさすらいの前科者映画の第1作として最重要な作品で、先に上げた弱点を補ってあまりあるほど見所満載の名作です。終盤はおいしいところをル・ヴィガンがひとりでもっていく趣向など焦点を合わせるべき場面ではスパーク脚本にデュヴィヴィエの演出も冴えており、この原作を選んだギャバンの読みに狂いはなかったということです。その点では、犯罪サスペンスで戦争映画でもある上に、アナベラをヒロインにしたエキゾチック・ロマンスも時代の要求に応えたものだったのでしょうし、足りないよりは盛りすぎの方が良いとしたのも本作の勝負作たるゆえんだったのかもしれません。
デュヴィヴィエ作品への出演は『望郷』でひと区切りがつき、デュヴィヴィエ、ギャバンともにドイツ侵攻間際にアメリカに亡命していた頃にアメリカ映画で製作された『逃亡者』'44がひさびさのギャバン主演のデュヴィヴィエ作品になりますが、『白き処女地』~『望郷』に至る時期のデュヴィヴィエ=ギャバン作品(またそれ以前・以降の戦前のデュヴィヴィエ作品)はフランス国内よりも日本での興行成績の方が上回るほどで、「日本で受けるデュヴィヴィエ映画」とフランス国内の批評家から揶揄されたとまで言われています。戦後、'60年代以降の文献を見るとフランス人映画批評家の大半の見解では「ジャン・ルノワール以外の'30年代映画は、外国ではともかく、フランスでは忘れられている」という記述が多く、フェデー、クレール、デュヴィヴィエ、カルネらの作品はおおむね古い戦前派の映画扱いされており、ただしジャン・ギャバンの国民俳優的人気は往年の出演作が古びても常に好評な新作があり、揺るがなかったようです。『白き処女地』はギャバン初のデュヴィヴィエ監督作品出演で、次の『ゴルゴダの丘』の次に第19作のニコラ・ファルカス監督、アナベラ主演作『ヴァリエテ』'35.11(E・A・デュポン監督のサイレント作品のリメイク)への出演があり、第20作『地の果てを行く』はデュヴィヴィエ監督のギャバンとアナベラ共演作品になりました。なお今回も作品紹介はDVDジャケットの作品解説の引用に原題、公開年月日を添えるに留めました。
●4月4日(水)
『白き処女地』Maria Chapdelaine
72分 モノクロ 1934年12月14日(仏)/日本公開1936年2月
監督 : ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 : マドレーヌ・ルノー
放浪者のフランソワは数年ぶりに故郷に戻った。彼は美しく成長したマリアに恋心を抱き、放浪生活を捨て、彼女との結婚のため出稼ぎにでるが……。伝統や信仰を守りながら生きるカナダのフランス系住民たちを描いた作品。
北米大陸カナダ合衆国は当然アメリカ大陸が発見されてから植民されたので、元イギリス領だった州とフランス領だった州に分かれており、公用語も英仏2か国語です。本作はケベック州の山奥が舞台で今なお続く開拓民の生活を描いており、邦題の由来はそこから来ていてうまい邦題です。原題はそっけなくヒロインの名前『マリア・シャプドレーヌ』で、ヒロインを演じるのは『トンネル』でもギャバンと共演していたマドレーヌ・ルノーです。『トンネル』でもルノーの名前の方がクレジットでは先でしたが同作は実質的にギャバンの主演作でした。今回は正真正銘ルノーの主演作品で、ギャバンは準主役ですが『トンネル』でのルノーの役どころに較べれば男性主人公格として比重は大きい方です。映画は流れ者の猟師ギャバンが故郷のケベックの山奥の村に帰ってきた場面から始まり、続いて隣村に住むルノーとその家族の日常生活が描かれ、次いでひさしぶりの再会を喜ぶギャバンとルノーに話は移ります。ギャバンとルノーは本人たちも周囲からも似合いのカップルで結婚を望まれているのですが、老いた両親と弟妹たちと暮らすルノーは土地に腰を据えた開墾生活が身についており、また病弱な老母に代わって一家の主婦として家を切り盛りしていて、季節ごとに狩り場を転々とするギャバンとはそれが障害になっています。本作は実際ケベックの山奥でロケをしたそうで、前回の3作(特に『リラの心』)も良好なプリントでしたが本作は今回のデュヴィヴィエ作品ではもっとも状態の良いプリントです。
元フランス領で公用語もフランス語のケベック州なので宗教はカトリックで、本作は田舎の話なので社交界はカトリック教会の礼拝になります。ギャバン以外にもルノーに片思いしている青年が二人いて、ひとりは都会で働いていてクリスマス休暇で里帰りしている青年、もうひとりはヒロインの家の近所で木こりをしている青年で、ギャバンがいるのでルノーには言い寄れないでいる、という奥ゆかしい設定です。この人間関係がどうなっていくかを書くと話をばらしてしまうことになるので物語についてはここまでにして、本作は前述の通り良好な画質でケベック現地ロケも美しいのですが、あいにく先月溝口、スタンバーグ、ルビッチと極めつけの映画を観てきたばかりではデュヴィヴィエの映画は一段、ただし決定的に見劣りして見えます。俳優の芝居の演出手腕もそうですが、それなりに工夫を凝らしてある撮影と編集から一貫した強い美意識と手法が見えてこない。たとえば何種類ものワイプがシーンの変わり目に使われ、ギャバンが吹雪の山の中に迷うシーンや都会の青年がヒロインに都会生活を語るシーン、ヒロインの家族のひとりの臨終シーンではスクリーン・プロセスやオーヴァーラップが多用され、またヒロインをめぐる青年たち(ギャバン含め)の動向がヒロインの家庭での情景とカット・バックで描かれますが、ストーリー上の説明にはなっているものの一貫した映像文体の体をなしていないので、特にスクリーン・プロセスの多用はせっかくの現地ロケで撮ってきたのは背景映像だけでスタジオ撮影の俳優の芝居を重ねているのですから興ざめです。しかもスクリーン・プロセスの使用法そのものが乱雑で映像が汚い。ヒッチコックは同時期の作品でスクリーン・プロセスなんてどうせまやかしなんだから自然さを狙ってわざとらしくやる、とひねくれた使い方をしており、またアントニオーニは監督デビュー作『愛と殺意』'50から自動車や列車内の芝居にスクリーン・プロセスを決して使わない監督でした。何をやって何は絶対やらないかルビッチやスタンバーグ、溝口らはきっぱりとした映像意識の自覚がありましたが、デュヴィヴィエは使える技法は何でも使う、それはかまわないのですがこの映画の中でこのシーンはこうする、という選択に美意識も必然性も稀薄なため映画が散漫になっている。3人の青年とのロマンスがまるで別々の調子の演出で、それが効果的なコントラストになってはおらずつぎはぎしたようで、そのせいでマドレーヌ・ルノーのヒロインが魅力的なヒロインに見えない、という根本から力の弱い映画に見えるのです。本作は'34年末の公開映画ですがルビッチの『ラヴ・パレイド』'29やスタンバーグの『モロッコ』'30よりずっと古い作品に見えますし、溝口の『マリアのお雪』'35は『白き処女地』と観較べれば悠にもっと数年先の作品に見えます。本作以前のデュヴィヴィエ作品は『にんじん』'32、『商船テナシチー』'34をずっと昔に観たきりですが、観直した限り本作は同時期のアメリカ映画や日本映画の水準からははっきり落ちる作品で、ソシエテ・ノーブル・シネマトグラフィ社製作のフランス映画というローカル色を加味しないとあまり高くは買えない映画です。いちばんの見所だったのは吹雪の中を立ち往生する馬ぞりの馬の名演だったと言うと皮肉に響いてしまうでしょうか。
●4月5日(木)
『ゴルゴダの丘』Golgotha
91分 モノクロ 1935年4月10日(仏)/日本公開1936年11月
監督 : ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 : ロベール・ル・ヴィギャン、アリ・ボール
キリストの受難劇をピラト役にジャン・ギャバンを迎えて製作された宗教史劇。ローマ統治時代のエルサレム。イエスの力を恐れ始めた権力者は、彼の処刑を策謀していた。巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエが描く宗教史劇の金字塔!
次に『白き処女地』を観直す時は気がつかなかったロベール・ル・ヴィガンを探して見てみよう、と本作と次作の『地の果てを行く』'35のル・ヴィガンの好演を見て思いました。記憶の中では『地の果てを行く』のル・ヴィガンは『我等の仲間』'36のシャルル・ヴァネルとごっちゃになっていたのですが、フランス国内の多くのカトリック教徒の寄付をイクティス・フィルム社が募って製作したという本作は、キリスト教には何の関心もない多くの日本人観客にはあまり面白くない作品かもしれませんが、フランス映画に限らずキリスト教圏のヨーロッパ映画には珍しい真っ正面の『新約聖書』の四福音書のイエス・キリスト伝映画です。これは映画観客でも普段あまり意識しないことですが、以前ベルイマンについての批評論集を読んでいたら「神、またはイエス・キリストをじかに映画の題材にしたものはハリウッド映画には多いがヨーロッパ映画には少ない。'60年代のベルイマンとパゾリーニは特異な例で、ヨーロッパ映画ではデュヴィヴィエの『ゴルゴダの丘』くらいではないか」と指摘していた批評が記憶に残りました。確かにそうで、ハリウッド映画は『イントレランス』'16の昔から『ベン・ハー』'27や『情炎の女サロメ』'53を経て近年までキリストの受難を描いた映画はかなりあります。キリスト役にはあえて顔が知られていない無名の新人役者を起用し、そうしたキリスト役者は映画出演はそれきりになる場合が多い、というジンクスもあるような気がします。新興プロテスタントが大勢を占めるアメリカ合衆国では聖書のイエス・キリスト伝映画が作られるのにカトリック、プロテスタントが国ごとにさまざまなヨーロッパ諸国ではなぜ作られないかはさておいて、本作は後年のベルイマンやパゾリーニとは違ってハリウッド産歴史映画に近い作りのイエス・キリスト伝映画ですが、ハリウッド映画ともやはり異なる感覚でイエス・キリストの処刑を描いています。ハリウッド映画では観客を思いきり感情移入させるような作りになっていて、主役の反乱奴隷ベン・ハーが活躍するのは映画前半2/3だけで後半1/3は同時代人のキリスト教信徒ベン・ハーから見たイエス・キリスト伝になる『ベン・ハー』'27は自由と解放を求めるベン・ハーの熱い思いに共感するようにゴルゴダ(日本語表記なら「ゴルゴタ」の方が良いのではと思いますが)の丘を登るキリストの処刑を見つめることになるのですが、本作は割と淡々と突き放した描き方で、ギャバンが演じているのはローマ領ユダヤ総督ポンテオ・ピラトなのですが、ピラトは本来穏健派でその上妻がキリスト教徒になっています。さしたる罪状もない(せいぜい教会の庭の物売りの屋台を「私の父の家で商売をするな!」とひっくり返して回ったくらいですし、違法医療詐欺事件を起こしたのでもありません)キリストを死刑にするのは公正な司政者ピラトにとっては冤罪事件の裁判官という屈辱になります。ギャバンが演じているのもあってピラトが四苦八苦何とかキリストへの死刑判決を避けようとする苦節はよく描けています。
本作はある程度キリスト教知識があると作品の苦心がわかって面白い映画で、キリストを最終的に死刑に追いこんだのはユダヤ人市民の世論と描いている点では反ユダヤ主義映画とも言えるほどです。体制に順応し、また旧来の律法主義の伝統的ユダヤ教信徒だった多数のユダヤ人たちには律法より信仰を上位に置いた伝道師ヨハネは異端、またヨハネの直弟子だったキリストのより強力な伝道はローマ領ユダヤの秩序を乱す煽動だったでしょう。新約聖書の翻訳でよく問題になるピラトのキリスト尋問の一節に「お前はユダヤの王か」「その通りだ」と口語訳聖書で訳され、新改訳で「あなたがそう言うなら、そうだろう」と直された箇所がありますが、本作では「お前はユダヤの王か」「それはあなたが言ったことだ」とフランス語訳を経てよりすっきり文意の通るものになっており、聖書物語のキリスト伝映画としてはハリウッド映画より誇張の少ない、しかしユダヤ人世論によるイエス処刑がその分強く出た映画になっています。本作でキリストを演じたロベール・ル・ヴィガンが良く、また『望郷』'37でギャバンを追う刑事役のリュカ・グリドゥーがユダを演じていて、アリ・ボールのヘロデ王がチャールズ・ロートンか後のオーソン・ウェルズかのようなすごい迫力で場をさらいます。音楽もジャック・イベールと豪華です。本作については現代人情劇でない分デュヴィヴィエも妙に映像に凝らず(キリストのショットがいつも逆光という程度で)、大セットと大量エキストラをさばいて映画監督としては表現を無欲に作り上げたのが良い結果になったと思います。それでも聖書やキリスト教にまったく関心がない、拒絶反応が起こる観客にはちっとも面白くない大作かもしれませんが、ハリウッド映画のキリスト受難ものをご覧になったことがあるなら比較対象としては異色あるものとしてお勧めできます。ハリウッド映画のキリスト受難ものの特色も本作との比較で浮かんでくるのです。
●4月6日(金)
『地の果てを行く』La Bandera
96分 モノクロ 1935年9月20日(仏)/日本公開1936年9月
監督 : ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 : アナベラ
フランスで殺人を犯したピエールは、警察に追われスペインに身を隠していた。しかし酒場で全財産を盗まれ、スペイン外人部隊に入隊する。同時に入隊してきた同国人のリュカは、執拗にピエールに付きまとい……。
ついに後年のイメージ通り、つまり前科者で逃亡中の無骨な好漢という役柄のジャン・ギャバンが出てきた観のある本作は今回調べて初めて知りましたがギャバン自身が原作の映画化権を買ってデュヴィヴィエに監督を依頼したという勝負作で、そうしてみると長編映画出演20作目、'30年の映画デビューから6年目にしてギャバンが自己プロデュース力を示した大俳優への本格的な第一歩になったわけです。監督と共同脚本の脚本家がついに登場シャルル・スパークで、外人部隊ものはサイレント映画の昔からありスタンバーグの『モロッコ』'30もそうでしたし、本作は何よりスパーク脚本によるフェデーのそのものずばり『外人部隊』'33が原作は異なるとは言え訳あり前科者の外人部隊入隊を異国情緒ロマンスと絡めてえがいた作品で、ギャバンが思い描いていたのもフェデー作品の線だと思います。国際的大ヒット作『モロッコ』も外人部隊異国情緒ロマンスですがゲイリー・クーパーはギャバンからすれば色男すぎるばかりで外人部隊に身をやつしている割にはあまりに翳りがなく、翳りがないと言えばこれまでのギャバンの役柄も健康的な色男キャラクターが主なもので、潜在的名優ギャバンにとっては役不足だったのだと思います。率直に言ってもっとやりがいのある役がやりたかった。出演作品第18作『ゴルゴダの丘』に次いでギャバンが出演したのはサイレント映画の名作(独'25、E・A・デュポン)でサーカスの曲芸師夫婦と空中ブランコ乗り青年の嫉妬劇『ヴァリエテ』のリメイクでしたが、オリジナルでは主旨は曲芸師の夫(エミール・ヤニングス)が妻と青年に抱く疑惑であり、リメイクでは女は人妻ではなくアナベラ演じるサーカスの花形娘で、ギャバンとフェルナン・グラヴェの演じる二人の曲芸師との二等辺三角関係という平坦なものになっていました。年齢的にまだヤニングスのような屈折した初老の男の役はできないとすると、ギャバンの年齢(30代になったばかり)でうまくはまるのはやくざ崩れの前科者というのはうまい発明で、後に高倉健や渡哲也が得意とした'50~'60年代日本映画の和製フィルム・ノワール路線のルーツができました。もっとも一般的にはフィルム・ノワールとはフランスの映画批評界から出た'40~'50年代アメリカの犯罪映画ブームの呼び名で、アメリカのそれは'30年代初頭のギャング映画から発展したものでギャバン=デュヴィヴィエ作品とはほとんど関係ないものです。コスミック出版のDVDボックス『ジャン・ギャバンの世界』は第1集「フィルム・ノワール映像の頂点」、第2集「フィルム・ノワール映像の金字塔」、第3集「フィルム・ノワール不朽の名作集」とキャッチコピーがついていますが、何となくぼやかした表現なのはギャバン出演のフランス犯罪映画は普通フィルム・ノワールとは呼ばないからです。
それを言えば『ジャン・ギャバンの世界』収録作品30作の中でもっとも製作年度が古いギャバン出演作第7作『リラの心』'32がほとんどアメリカの'40~'50年代フィルム・ノワール作品に近い感覚と題材・内容の映画なのはアナトール・リトヴァクあなどりがたしとも言え、あれはまだギャバン主演作品ではありませんし小品佳作にとどまる出来ですが、それも含めてエドガー・G・ウルマー級の監督のフィルム・ノワールと言っていい作品でした。ならば一流脚本家シャルル・スパーク脚本、'30年代フランス映画の第一線監督デュヴィヴィエの監督による本作『地の果てを行く』は『白き処女地』より各段に面白く情感の厚い作品になりましたし、ル・ヴィガンの好演やピエール・ルノワール、ガストン・モド、ヴィヴィアンヌ・ロマンスら良い俳優に恵まれましたが、やはり題材が題材だけに太い線で押した『ゴルゴダの丘』がデュヴィヴィエの本流ではなく『白き処女地』の監督の作品なんだな、と思わせる映像文体のつぎはぎ感があります。ル・ヴィガンが脅迫者か刑事か、ギャバンはル・ヴィガンにどう立ち向かうか巧みに引っ張る展開は最高なのですがそれはシナリオの次元でも成り立つことですし、クレジット上はアナベラ、ギャバンの順で監督のデュヴィヴィエが共同脚本なのはアナベラの出番の提案だったのではないかと思います。つまり本作のプロットでは本来アナベラはもっと小さい役で済んでしまうので、デュヴィヴィエがアナベラの見せ場を追加してスパークにメイン・プロットにアナベラが絡むようにリクエストしたと思われ、だとしたらスパークの手腕は鮮やかなものです。ただし本作が古びている部分があるのもアナベラの比重が高すぎるからで、この外人部隊はスペイン軍ですから部隊は南米のどこか(地名が出てきたか見落としました)だと思いますが、そこから現地人の舞妓のアナベラがヒロインになるためにロマンスそのものがエキゾチシズムになっている。『モロッコ』では現地人の女たちにモテモテの色男クーパーのロマンスの相手は流れ者の歌手のディートリッヒですし、悪女に貢ぐため前科者となった上に捨てられて入隊した『外人部隊』の主人公は出兵先の土地の酒場で自分を捨てた悪女そっくりの女(マリー・ベル二役)。前科者ギャバンと謎の男ル・ヴィガンが外人部隊で死地をかいくぐりながら腹を読みあうサスペンスと、兵士ギャバンの現地人の舞妓アナベラとのエキゾチックなロマンスが、プロット上では接点を作れてもそれぞれの場面では別の種類の映画になっている。『白き処女地』でヒロインをめぐる3人の男がそれぞれ異なる個性の男なのはともかく、それぞれの男たちとヒロインが二人きりになるシーンごとに演出のタッチまで変えていたのが逆効果になっていたように、本作も前科者サスペンスとエキゾチック・ロマンスが相殺しあっており、むしろ訳ありで南米の酒場女に流れてきたフランス人の女とのささやかなロマンスの方が演出の統一も取れ、作品全体のバランスも良く、なおかつエキゾチシズムに頼らない自然な哀切さをたたえさせられたのではないかと思えてなりません。しかし本作は戦後の『鉄格子の彼方』'49にいたるまでギャバンの得意役となったさすらいの前科者映画の第1作として最重要な作品で、先に上げた弱点を補ってあまりあるほど見所満載の名作です。終盤はおいしいところをル・ヴィガンがひとりでもっていく趣向など焦点を合わせるべき場面ではスパーク脚本にデュヴィヴィエの演出も冴えており、この原作を選んだギャバンの読みに狂いはなかったということです。その点では、犯罪サスペンスで戦争映画でもある上に、アナベラをヒロインにしたエキゾチック・ロマンスも時代の要求に応えたものだったのでしょうし、足りないよりは盛りすぎの方が良いとしたのも本作の勝負作たるゆえんだったのかもしれません。