●3月29日(木)
『桃色の店 (街角)』The Shop Around the Corner (MGM, 1940)*99min, B/W、日本公開昭和22年('47年)8月12日; https://youtu.be/xr3nsHRKZJA (Trailer)
○あらすじ(同上) ハンガリーの首都ブタペストのとある街角に、中流の客を相手の雑貨店がある。主人のマトチェック(フランク・モーガン)は35年間この商売をして、かなりの財産を蓄えたが子供がなく、家庭はさびしかった。それだけに商売は熱心で、店員も六人いる。若いクラリック(ジェームズ・スチュアート)は9年前に丁稚にきて今は一番の古顔で販売主任格であった。彼よりは年上のヴアダス(ジョゼフ・シルドクラウト)、妻子あるピロヴッチ(フェリックス・ブレサート)、女店員のフロラ(セーラ・ヘイドン)、イローナ(イネズ・コートニー)、丁稚のペピ(ウィリアム・トレイシー)の五人がクラリックの下で働いている。クラリックに対する主人の信用は対したもので、晩食によばれるのも店員では彼一人である。店は夏の買い出しで忙しかった。そこへクララ(マーガレット・サラヴァン)という女が販売係りに雇って貰いたいといってきたが、六人でも多すぎるくらいなので、クラリックは独断で断った。そこへ主人が顔を出したので、彼女は今度はマトチェックに申し込む。折しも一人の女客(サラ・エドワーズ)が来たのを捕らえ、クララはクラリックが売り物にならぬと言って仕入れを断るはずになっていた煙草入れを巧みに売り付けた。クララが店員となりクラリックの胸は穏やかではなかった。二人はことごとにいがみ合った。そのころから主人も無口になり、特にクラリックによそよそしくなった。クラリックは新聞広告で見た見知らぬ女と文通していた。女は手紙で見ると相当教養もあり、美しい処女であるように想像された。面会を申し込めばできるのだか、楽しみがなくなるようでもあり、怖いようでもあり会わないままで文通を続けていた。こうしてクリスマスにも近いある日、理由もなくクラリックはクビになった。その日の晩にクラリックはかの見知らぬ女性と初会見をする約束だったが、失業しては会う元気もなかった。その晩マトチェックの店に訪問客があった。かねてマトチェックが頼んでいた私立探偵(チャールズ・ハルトン)で、彼の夫人の愛人は店員ヴァダスだという報告だった。マトチェックが自殺を企てたとき助けにきたのはペピであった。ペピの急報にクラリックは主人を病院へ見舞いに行った。マトチェックは疑ってすまなかったとわび、改めてクラリックを支配人に任命し、ペピも販売員に昇格した。新支配人はヴァダスをクビにし、病気で休んでいたクララを見舞った。彼が文通していた女はクララだった。二人が結婚するのは近々らしい。
映画の山場になる、スチュアートの文通相手が実は新入り女店員マーガレット・サラヴァンと判明する喫茶店での初デートの約束場面は、店をクビになったばかりのスチュアートを慰めに来たブレサートについて来てもらって一方的にスチュアートの側から文通相手がサラヴァンだとわかる運びになっており、ここまでで映画はまだ前半で、後半はどうやってスチュアートがサラヴァンに自分が文通相手だと明かすかというのが主眼になります。まず店主モーガンからの誤解が解けて解雇が撤回され妻の不貞のショックで療養中のモーガンに代わってスチュアートが店長代理になる、店ではサラヴァンは意識して気丈な振る舞いで通しているので何かとスチュアートにつっかかってくる。それはスチュアートが文通相手がサラヴァンだと知る前からなので以前はスチュアートも本気で怒っていたが、繊細な手紙のやりとりをしていた相手がサラヴァンだと知ってしまうと負けず嫌いの性格からわざとつっかかってくるのがわかってしまって怒りより困惑してサラヴァンがいじらしく思えてきて、そういうスチュアートのリアクションの変化に徐々にふたりの関係も変わってくる。その間もスチュアートとサラヴァンの匿名の文通は続いているので、サラヴァンがどれほど相手のことを理想化して夢見ているのかもスチュアートはサラヴァン自身から聞かされる。結末はキネマ旬報の紹介記事通りですしあらすじを読まずに映画をご覧になればなお良いでしょう。本作は文通を電子メールに置き換えてトム・ハンクス主演作『ユー・ガット・メール』'98にリメイクされています。ルビッチらしさという点では豪快な辛辣さや隠微なエロティシズム、痛烈な皮肉やばかばかしさ、表現の微妙さを抑えて広い観客層に受け入れられるような優しい上出来の市井恋愛ロマンス映画になっているのがパワー全開の時のルビッチとは違いますが、アメリカ参戦も間近な世界情勢のこの頃、こういう万人受けする小品を作っておきたかった移民一世のルビッチの気持もわかるような気がして、本作はアメリカ人観客のうち総合すれば数多い少数民族系移民への慰問映画という意図があり、それがさりげないようでいていつまでも心に残る名作と定評を呼んだ本作の隠し味になっているのだと思います。また映画の中盤で視点人物スチュアートの側には文通相手がわかってしまうという構成はシナリオの立て方としては大胆で、そのあたりにも相手の正体が判らない同士(観客にはばらしておく)が結末で一気に結ばれる、という常套手段ではない工夫が複雑な味わいを生んでいるあたりは、やはりルビッチならではと感心させられます。
●3月30日(金)
『淑女超特急』That Uncertain Feeling (MGM, 1941)*84min, B/W、日本劇場未公開・映像ソフト発売; https://youtu.be/1AKoQcczNNc (Full Movie)
○あらすじ(同上) 結婚生活に失望した不眠症に悩む人妻ジル・ベイカー(マール・オベロン)が、ピアニストのセバスチャン(バージェス・メレディス)と恋仲になるが、それを知った夫のラリー(メルヴィン・ダグラス)は猛然と奪還作戦を開始する……。
しかし本作発表の'41年といえば『マルタの鷹』に始まるフィルム・ノワール元年で、同作や『ヨーク軍曹』、『偽りの花園』『市民ケーン』『断崖』など並みいる名作の中からジョン・フォードの真面目映画『わが谷は緑なりき』がアカデミー賞作品賞で、翌年は『ミニヴァー夫人』、翌々年は『カサブランカ』と確かに名作ばかりには違いないですが、崖っぷちに追いつめられてもルビッチならば絶対撮らないような映画ばかりです。そうしたアメリカ映画界の風潮にノリまでサイレント時代の'25年のままのお気楽な艶笑コメディを平然とまた作ってしまうあたりがルビッチらしいと言うか、本作はクレジット・タイトルの後いかにもサイレント映画風に字幕画面から始まります。1枚タイトルで「人類(The Man)は進化の歴史の中であらゆる場所を征服してきた。ただ一つの場所を除いては――」実写カット「女子トイレ」。ドアを開けて出てくる夫人たちを過ぎてカメラが室内に入ると鏡に向かって化粧を直しながらおしゃべりしている夫人たち、という具合で、この頃よく眠れないから精神科にかかっているのという話にヒロインのマール・オベロンが「私しゃっくりが止まらないのよ」「それは精神科に行った方がいいわ」そして精神科通いしているうちにしゃっくりが出てくるきっかけがいつも夫のメルヴィン・ダグラスがふざけて脇腹を突っついてくる時と気づいた頃、待合室で知りあった男性患者がボサボサ髪の変人ピアニストのバージェス・メレディスで、生命保険会社取締役の夫にない芸術家然としたメレディスの言動は芸術家というよりただの変人なのですが(口癖が"Fool It!"で、日本盤DVDでは「ダサッ」と訳されているのがまた何とも……)、のぼせ上がったヒロインにはメレディスを主賓にホーム・パーティを開いたりする。メレディスがピアノを弾こうとするとダグラスが慌てて高級花瓶を戸棚に避難させたりする。メレディス「ベートーヴェンの『悲愴』を弾きます」隣室に移ろうとするダグラス、その友人が「長い曲なのか?」「葉巻3本分だ」カット変わって曲が終わるとパーティ室にはピアノに向かうメレディスとピアノにもたれかかるヒロインしかいない、「ダサッ」という調子でメレディスがヒロインの友人から居候になり、ついに夫から出ていくから離婚手続きをしよう、という話になります。夫がホテル住まいになるとようやくヒロインもメレディスの変人ぶりに気づいてくる。調子に乗ったメレディスがヒロインの脇腹を突っついてしゃっくりが出て、ヒロインは泣く泣く夫を呼び戻しに行く。まだまだあるのですが、だいたいこういった調子で時代背景は違ってもサイレント作品『当世女大学』のストレート・リメイク作り自体をルビッチが楽しんでいる感じの盆栽趣味的な映画です。観ている間はいまいちだなあと思ってしまいますが、感想文を書いているうちにそう悪くない映画なんじゃないかと思えてきました。これはこれでルビッチ本来の趣味全開の作品で、作りたくて作った映画に違いないと思えるからです。ちなみにバージェス・メレディスは『ロッキー』'76でシルヴェスター・スタローン演じる主人公のボクサーのトレーナー役のあの人です。意外なところに意外な人が出ているものです。
●3月31日(土)
『生きるべきか死ぬべきか』To Be or Not to Be (Romaine Film Corp. / United Artists, 1942)*99min, B/W、日本公開昭和64年('89年)6月28日; https://youtu.be/7W_B10VbYjI : https://youtu.be/n4KQTrMLWmI (Trailer)
○あらすじ(同上) 39年のワルシャワ。俳優のヨーゼフ(ジャック・ベニー)とマリア(キャロル・ロンバート)のトゥラ夫妻は、シェークスピアの「ハムレット」の中で、2人でハムレットとオフェーリアを演じ、当たりをとっていた。ある日マリアは、若くハンサムなポーランド空軍のソビンスキー中尉(ロバート・スタック)に言い寄られ、夫ヨーゼフが「生きるべきか、死ぬべきか……」の長ゼリフの場面を演じている間、楽屋で中尉との逢瀬を楽しんでいた。しかしその間にも、ポーランドの情勢は悪化し、一座もナチスを刺激しないように、政府から風刺劇「ゲシュタポ」の公演中止を言い渡される。やがてワルシャワもドイツ軍に占領され、ナチの暴虐に対しポーランド人の抵抗は続いた。その頃ロンドンに配属されていたソビンスキー中尉は、ワルシャワに向かったシレツキー教授(スタンリー・リッジス)がナチのスパイであることを知り、英国情報部の協力を得て、単身ワルシャワに帰国、知らせを聞いたトゥラー一座は、「ゲシュタポ」の衣裳であるナチの制服を着て、シレツキー教授を迎える大芝居をうつ。そして教授の陰謀を未然にくいとめた一座の人々は、やがてヒトラーがポーランドを訪れたチャンスを利用して、ポーランドから脱出する計画をたてる。そして中尉の先導のもと、彼らは一座の人々の正体を知って追跡するドイツ軍を振り切って、イギリスへと旅立つのだった。
つまり本作には反ナチ映画につきものの類型化した小型ヒットラーの集団みたいなナチス軍人は出てきません。ナチス軍部がヒットラーの掲げたアーリア人至上主義などではなく物資と領土の剥奪を目的にした実利的軍隊であることをはっきり描いています。だから建て前のヒットラーの主義主張の話題になると軍人たち自身が恥ずかしくて必ずジョークのネタにしてしまう。またナチスを出し抜くワルシャワ一座も祖国ポーランドのためなど口にもしない。名簿奪還は近親者の安全のためですし、芝居一座ですから演劇人の芸をもってヒットラーから上位命令を持ってきた部隊になりすまし、ワルシャワ侵略本部長に命令して一部隊を運ぶ輸送機を出させる。実にちゃっかりした話で、別に「悪」のナチスに対する「正義」のための戦いではないのです。イギリスに亡命した一座はさっそく得意のレパートリー『ハムレット』の興行を打ちます。いかにしてナチスを出し抜いたかを上演したりしないのは、つい今しがた映画観客が観てきた通りだからですし、作戦成功に英雄気取りの人物はひとりも出てきません。国外脱出の亡命計画を成功させたのは劇団全員の力であって個人の手柄ではない、主演俳優・女優夫妻だけの手柄でもなければ座付け作者兼演出家個人の手柄でもないからです。またポーランドはドイツ同様に反ユダヤ人主義的思潮が伝統的な国で、ポーランド政府がドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の帰国受け入れを公的に拒絶したことから2万人近いポーランド系ユダヤ人が難民状態になり、その中からドイツ大使館暗殺テロ事件の実行犯が出たことから1938年11月のドイツ国内のナチス突撃隊(SA、いわゆるナチス親衛隊=SSとは別組織)による反ユダヤ主義暴動、いわゆる「水晶の夜」事件が起こったとされます。ポーランド自体はドイツに劣らず自国のユダヤ人を迫害していた反ユダヤ主義的国家だったのは注意すべきで、そこにユダヤ系ドイツ人だったルビッチのシニカルな、決して現実は反ナチ=ヒューマニズム=親ユダヤという図式ではないことに対する醒めた視点があります。欧米諸国の大半は、アメリカも含めて基本的には反ユダヤ主義思潮が蔓延しており、ドイツはそれが極端な政策方針として現れたために欧米諸国各国のユダヤ系財閥が財界・政界・軍部に脅しをかけたのが第二次世界大戦の始まりであり、本作の劇団がポーランドに何の未練もなくイギリスへ亡命したのはユダヤ系ポーランド人劇団だからです。本作が反ナチ喜劇を理由に批判されたのは的はずれで実際は触れてはいけないタブー、すなわちポーランドに代表されるようにどこの国だって反ユダヤ主義じゃないかという着目を隠蔽されてきたのはいずれ後世にはわかるさとハンガリー亡命者の友人からの原案を買った監督兼プロデューサーのルビッチは達観していたでしょう。本作のエグゼクティヴ・プロデューサーになったハンガリー出身のイギリスの大プロデューサー、アレキサンダー・コルダも偉ければ旧オーストリア=ハンガリー帝国(現ポーランド)出身のカメラマン、ルドルフ・マテも最上の仕事ぶりです。主人公の俳優役のジャック・ベニーは本名ベンジャミン・キューベルスキー、シカゴ生まれの両親ともポーランド系ユダヤ人移民の俳優・コメディアンです。こうした人たちが反ユダヤ主義国家ポーランドへのナチス侵攻にヒューマニズムとか反戦以前にまず、歴史や国家への皮肉を感じないわけはなかったはずではありませんか。