'50年代に入ってからの溝口映画は観ることの容易な、上映やBS放映(映画枠の多かったかつては地上波でもよく放映されていました)も多い作品がほとんどなので、1回3作ずつの紹介にします。というか前回まで1回2作ずつだったので毎回長すぎてしまったばかりか時差も開いてしまいました。戦後17作目で遺作となった監督第88作『赤線地帯』'56も今週の始めに観終わっていますが、前回までで戦後第5作、監督第76作の『わが恋は燃えぬ』'49までしか進んでいないのです。戦後の溝口映画の復調は'50年代、特に戦後第9作『西鶴一代女』'52(ヴェネツィア国際映画祭監督賞受賞、キネマ旬報ベストテン第9位)、第10作『雨月物語』'53(ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞、ベストテン第3位)、第11作『祇園囃子』'53(ベストテン第9位)、第12作『山椒大夫』'54(ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞、ベストテン第9位)、第14作『近松物語』'54(ベストテン第5位)の時期の創作力の大爆発で世界映画の最前線に立ち、今回の'50年~'51年の3作、最晩年の'55年~'56年の3作はその大噴火をサンドイッチする形で'52年~'54年作品には及ばないとされていますが、戦後の松竹からの5作に較べると生まれ変わったかのような自信と安定感が見られます。『西鶴一代女』があまりに鮮烈なのでその直前の今回の3作はまだスランプ期と見られる批評家・観客の世評も根強くありますし、専属脚本家の依田義賢氏の回想録『溝口健二の人と芸術』'64でも今回の3作は失敗作とされていますが、松竹での『女優須磨子の恋』『わが恋は燃えぬ』の煮え切らなさをたどってきて今回の3作のどれでもいいですが、松竹作品が中途半端な成功作だったとしたら今回はようやく腰の据わった作品になっていて、溝口本来のエモーショナルな訴求力が回復したのが感じられる、感動のある映画です。また今回の現代劇3作を通過したからこそ『西鶴一代女』からの歴史劇に生々しい現代性を与えることができたとも考えられるので、溝口映画の戦後の本格的蘇生は『雪夫人絵図』から始まったと見たいのです。
●3月2日(金)
『雪夫人絵図』(滝村プロダクション・新東宝/新東宝'50)*86min(オリジナル62分), B/W; 昭和25年10月25日公開
○製作・滝村和夫、原作・舟橋聖一、脚本・依田義賢/舟橋和郎、撮影・小原譲治、音楽・早坂文雄、美術・水谷浩、助監督・小森白
○あらすじ 旧華族の一人娘として育った雪夫人(木暮実千代)は養子直之(柳永二郎)を迎えて結婚したが、放蕩無頼の直之はキャバレーの女綾子(浜田百合子)に溺れ、いたずらに財産を減らすばかりであった。雪夫人には幼い頃から親しくしていた菊中方哉(上原謙)がいた。二人は互いに愛し合っていたが、雪夫人は夫と別れて方哉と一緒になる決心はつかなかった。彼女は父の死後生計の独立を計るため熱海で旅館を経営するが、直之はその旅館を綾子のものにしようと画策する。しかも直之は雪夫人に子供が出来たのを聞いた時自分の子ではないとなじる。全てに絶望した雪夫人は秋近い芦の湖に身を沈めるのであった。原作は舟橋聖一。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
監督第77作。溝口が松竹を辞めてフリーになった経緯は諸説ありますが、依田氏には「松竹とうまくいかなくなった」としか溝口は語らなかったそうです。ただその時田中絹代の渡米があり、松竹を辞める前に『西鶴一代女』のシナリオ第1稿が完成していて企画が立ち消えになったことも依田氏は書いており、新天地の新東宝での第1作が『西鶴一代女』だったら良かったか、それともやはり『西鶴一代女』は迂回してようやく実現したからこそ成功作になったか思いをめぐらしています。依田氏は脚本家として『雪夫人絵図』『お遊さま』『武蔵野夫人』を原作の文学性をうまく生かしきれなかった映画と自省しているのでこの3作を迂回と見るのですが、またこの3作の原作は優れた現代文学と言えるものですが、原作のテーマの移植にはこだわらず映画として一本立ちした充実した作品になっていると思います。戦後松竹作品で横組みのクレジット・ロールに違和感を感じてきてから本作でようやく早坂文雄の音楽とともに立て書きのデザイン文字のクレジット・タイトル字幕を観ると、ああ溝口映画がやっと帰ってきたんだ、と胸に迫る思いがします。映画は雪夫人の熱海の邸宅に招かれてきた女中の久我美子(本作当時19歳)の語りで、代々華族のこの家に仕えてきた家系の娘として雪夫人への憧憬のナレーションから始まりますが、本作は原作は旧華族の没落を描いたテーマとして太宰治の『斜陽』や映画では『安城家の舞踏会』の系列に入るものです。しかし映画はそうした社会的テーマはぐっと後退して、性的にも経済的にもマゾヒスティックな共依存関係のスパイラルに陥っている木暮実千代の雪夫人とその夫で精力絶倫の道楽婿養子直之の破滅的でエロティックな状況が前面に出てきます。本作のサービス精神は大したもので、雪夫人邸に着いた久我美子は女中頭に勧められてさっそく長い入浴シーンの中で雪夫人への思慕を走らせますし、すぐに東京の当主(雪夫人の実父)の急死の報に雪夫人の幼なじみの上原謙と葬儀に駆けつけると、葬儀の晩に酔った直之が雪夫人とセックスの最中に水を持ってこさせられるという具合で、このサディスティックなエロ婿養子役を柳永二郎が見事に演じています。
雪夫人が直之と離婚しようとするいきさつはあらすじの通りで、雪夫人は人格的にはかつての臣下の息子で雪夫人の幼少時からの遊び相手に仕えていた琴の師範の上原謙と慕いあっているのですが、夫の柳永二郎が下品な愛人のキャバクラ歌手浜田百合子を連れて堂々と熱海邸に泊まりに来ようと、一旦は決意して離婚を申し出に向かおうと、雪夫人にとっては直之に虐げられるのが至上の快楽という性癖が骨の髄まで染み込んでいるので別れられない。また直之も雪夫人を虐げるのが夫婦の絆になっているので虐待や放蕩が止められない。そうしているうちに理性的な上原謙も愛想をつかし、キャバクラ歌手浜田百合子の実は旦那だった直之の手代の山村聡が熱海の雪夫人邸の権利書を手に入れてしまう、というとコメディなのですが、このコメディは雪夫人を自殺に追いこむので実に無責任かつ残酷に終わります。芦ノ湖ほとりの上原謙の住まうホテルに上原謙の不在を知っていながら雪夫人が訪ねる。大ロングで俯瞰で撮られたテラスのオープンカフェで雪夫人が上原謙といつも飲んでいた紅茶を頼む。給仕の動きにつれてカメラがパンして、給仕が紅茶を持って戻ると雪夫人の姿は消えている。ラストカットはホテルのテラスからの芦ノ湖の湖畔の草むらを久我美子がかき分けて、雪夫人の帯を見つけて湖に投げこみ「お嬢さまの意気地なし!馬鹿……」と絶叫絶句する長いカットで終わります。ゴダールが本作を「崩れるような美しさ」と絶賛していますが、一見古風なテーマに見えて雪夫人とその夫(雪夫人が失踪し、泥酔して訪ねてきた上原謙に最初「酔っ払いと話すつもりはない!」と強く出ていた柳永二郎が、上原謙が眠りこんでしまいそうになると狼狽して「頼むから雪子をとらないでくれ!」と嘆願する豹変ぶり)の異常なようでいて割と普遍性のある夫婦関係が意外にも説得力のある描き方で成功しており、道具立ては日本的な情緒なのに良く出来たイタリア映画やフランス映画のようなラテン的な明晰性があります。原作のクライマックスは雪の芦ノ湖畔ですが本作撮影の年は雪に恵まれなかったそうで依田氏も残念がっていますが、雪景色でなくても十分なクライマックスです。現在は国有化しているという旧華族邸を借りたロケも見応えがあり、戦後作で溝口が初めて継続して追求できるテーマをつかみ足場を見つけた作品としてもっと見直されていい映画でしょう。戦後の松竹作品でも成功作と言える『歌麿をめぐる五人の女』『夜の女たち』にはこの足が着いた感じがなかったのです。それはもうご覧になれば一目瞭然です。
●3月3日(土)
『お遊さま』(大映京都撮影所/大映'51)*89min(オリジナル95分), B/W; 昭和26年6月22日公開 : https://youtu.be/7Oji7mdJL24 : https://youtu.be/Vxtua8lsNDM
○製作・永田雅一、原作・谷崎潤一郎、脚本・依田義賢、撮影・宮川一夫、音楽・早坂文雄、美術・水谷浩
○あらすじ お遊さま(田中絹代)は富豪の粥川へ嫁入ったが間もなく夫と別れ、一人息子の養育につとめていた。妹お静(乙羽信子)が芹橋慎之助(堀雄二)とお見合いする時、お遊さまはつき添っていた。慎之助はかえってお遊さまに心ひかれるのであった。お静と慎之助は結婚した。お遊さまも慎之助を想っているのを知ったお静は、名前だけの妻に甘んじ、二人の間のかけ橋となるのであったが、世間の口もやかましくなり、お遊さまは実家に戻り二人を不幸にしていたことを悟り、伏見の酒造家に再婚する。芹橋家は破産し、お静は産後の肥立ちが悪く死んだ。ある月見の夜、豪華な屋敷の前に赤ん坊が捨てられていた。その赤ん坊は慎之助がお静亡き後思い余ってお遊さまに託したものであった。原作は谷崎潤一郎の「芦刈」。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
監督第78作。日活在籍時~第一映画社~新興キネマ~戦前・戦中の松竹と、ずっと文芸部長と監督の関係だった川口松太郎が永田雅一の興した大映の製作部長に就任して溝口が招かれた作品で、永田雅一は日活在籍時~第一映画社~新興キネマと溝口作品のプロデューサーでしたから依田氏からすれば大映には招かれるべくして招かれた観があったそうです。しかしこの時はフリーとしての単発契約で、大映の専属監督になるのは『雨月物語』'53からになったのは会心の成功作(それが新東宝での『西鶴一代女』'52になったわけですが)をものしてからにしたかったのだろう、と依田氏は溝口の心境を推察しています。それは当然待遇や発言権にも反映されるので、『雪夫人絵図』~『武蔵野夫人』の3作は松竹時代同様会社側の企画だったのも脚本家依田氏自身が高く買わない理由なのですが、特に前作『雪夫人絵図』は新東宝での待遇にスタッフに八つ当たりして大変だったそうで、プロデューサーや経営陣にではなくスタッフに当たるのが溝口らしいのですが、本作は田中絹代もアメリカから帰ってきた、会社も永田雅一と川口松太郎の大映なので前作のような八つ当たりはなかったようです。また、前回溝口が脚本家の依田氏を撮影に立ち会わせるのは難航した作品の時ほど多く『わが恋は燃えぬ』では依田氏はあまり立ち会っていないように書きましたが、『わが恋~』でもヒロインの夫を演じる菅井一郎が長回しのシーンで同時録音なのに何度も同じ箇所でつっかえてリテイクになるので溝口が罵倒しまくり、思いつめた菅井が降板を申し出る現場に立ち会っており、威圧して怒鳴れば周りがついてくると思っているような溝口らしいエピソードですが、今回の『お遊さま』の場合は原作がほとんどドラマらしい展開がない上に回想形式の小説で、しかも川口松太郎から「回想は止めてくれ、映画でそういうのは僕は大嫌いだ」と厳命されて脚本が難航し、ようやく出来たシナリオを溝口が各映画会社の合同監督会で親しい小津安二郎らに「こういうシナリオなんだが」と相談して、たぶん溝口の自信のなさそうな様子が受けてしまったらしく「このシナリオは何ですか。僕は恥をかきましたよ」と依田氏にえらい剣幕で迫る。どこが悪いかと訊けばそれは脚本家の仕事だろうと来る。では勉強してきますと答えれば今から勉強してどうするのだ、それでは別の脚本家にお願いしたらどうかと言えばこれからそんな余裕はない、とさんざん叩かれて推敲を重ねたそうです。しかし主演が田中絹代であることに問題があった、とも依田氏は指摘しています。田中絹代はアメリカから帰ったばかりで数作出演していたがアメリカかぶれの演技になったと不評が続いていたところでした。本作の純粋に和風なヒロインは田中絹代には挽回のチャンスでしたが、ヒロインのお遊さまは天然のお嬢さまで世事にうとい性格設定なのが作品の中心になっている。ところが田中絹代の得意な役はよく気の回る、回りすぎるくらいにまわる女性像で、田中絹代のキャラクターを活かすと乙羽信子演じる妹お静とかぶってしまう。一人の男を譲りあう姉妹の話になってしまうのでいかにお遊さまをぼんやりした控えめな女性にするかで依田氏は苦心したようです。
前作『雪夫人絵図』、本作、次作『武蔵野夫人』は文芸映画三部作とも言えて、新東宝、大映、東宝と会社もプロデューサーも違いますし『雪夫人~』だけ木暮実千代主演ですが、文芸映画という以上に似たところがあります。『雪夫人~』を誉めておいて何ですが、本来男性主人公は上原謙のはずが柳永二郎の方が厭らしい魅力のある主人公になっている。依田氏は上原謙が雪夫人への思慕を断念するために久我美子を強姦するアイディアを出して溝口に却下されたのを「上原謙のイメージではないから」だろうと残念がっていますが、これは共同脚本の舟橋和郎(原作者の舟橋聖一に指定された原作者の実弟)が原作からの改変を自由に許されていた証拠でもあれば、依田氏の考えるような理由でなく上原謙の役柄の性格的一貫性のためとして溝口の判断は正解だと思います。しかし柳永二郎の方が自由奔放な人間として魅力的なのは誤算から生じた成功とも言えるので、『お遊さま』の場合は真のヒロインは乙羽信子の演じる妹お静になってしまっている。溝口は『愛怨峡』のようなたくましいヒロインも描きますが、『残菊物語』のヒロインのような耐えしのぶ女性が田中絹代の貫禄あるヒロインと並ぶと耐えしのぶヒロインの方に共感が起きてしまいます。また依田氏の努力にもかかわらず田中絹代がおぼろ月夜のような天然お嬢さまにはどうしても見えないので、こればかりはいかに大女優といえども資質としか言いようがない。またこの三部作は没落旧家三部作でもあり、またヒロインと男性主人公が決して結ばれない三部作でもあるのですが、何だかんだ言って未亡人の姉に惚れたばかりにその妹と結婚した主人公は最終的に夫婦愛の確認に行き着くのですから真のヒロインである妹も無念の産褥死を遂げるとはいえ夫の愛を勝ち得るわけです。本作の成果は初めて大映のカメラマン宮川一夫と組んだことで、撮影・宮川一夫、音楽・早坂文雄、美術・水谷浩とは『雨月物語』からの大映作品最強チームになるのですが、これも撮影前にはキャリアの浅い宮川に溝口は不服を洩らしていたそうですが、撮影が始まった途端に宮川の腕前に感服したそうで、映像的には『残菊物語』から意識的に始まっていた長回しが本作で長い時間経過を感じさせるための効果を強め、新東宝作品ですから宮川カメラマンではありませんが『西鶴一代女』でさらに試してみた後『雨月物語』以降の大映作品に至るという流れがわかります。しかし本作は三部作の中では感動の弱い作品で、姉妹と一人の男という溝口映画でももっともミニマムなドラマ上の実験がどうもうまくさばけなかった印象が残り、前後作の間に置いて観ると発見はありますが単独の1作として観ると物足りなさが残ります。それでも『夜の女たち』以外の戦後の松竹作品よりは格段の安定感はあるので、試行錯誤ではなくたまたま小ぢんまりとした仕上がりになったと見るべきでしょう。ラストカットの幻想的な美しさだけでも大映時代の作風の予告にはなっているので、これは三部作では本作ならではの味です。
●3月4日(日)
『武蔵野夫人』(東宝'51)*85min(オリジナル92分), B/W; 昭和26年9月14日公開 : https://youtu.be/E8b30gyZvuo : https://youtu.be/ZkIgME0oxmk
○製作・児玉英生、原作・大岡昇平、脚本・依田義賢/福田恒存、撮影・玉井正夫、音楽・早坂文雄、美術・松山崇、助監督・小森白
○あらすじ 閑静な武蔵野台地に住む道子(田中絹代)と夫の秋山(森雅之)、そこへ道子の従弟勉(片山明彦)が復員してきた。勉は道子の家に住みたがったが嫉妬深い秋山は彼をアパート住いさせる。勉は道子の従兄大野の妻富子(轟夕起子)の提案で富子の娘の家庭教師となる。昔の武蔵野を道子と勉は散策する内、いつしか二人はお互いにひかれるようになる。富子は二人のことを秋山に暴露し、富子と秋山は急速に親しくなる。ある日道子と勉は散策中嵐に会いホテルで一夜を過したが、道子は勉の激情をやさしく説得するのであった。勉は道子の許を去った。富子に捨てられた秋山が家に戻ると道子は香の匂いの中で静かに死んでいた。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
監督第79作。本作は溝口映画でも例外中の例外的題材で、溝口という人はサイレント末期に泉鏡花原作映画の成功作を次々送り出していたのが文学センスとしてはもっとも向いていたのではないかと思います。泉鏡花は手法は明治大正の現代文学でしたが霊界やお化け、たたりや因果の存在を信じ、警官や役人を怖がり、チラシ一枚ですら文字の書かれた紙を文筆家として崇め家人に粗末な扱いを許さなかった人で、昼は大学教授で夜は義侠盗賊団長が主人公の小説を真面目なリアリズムの冒険ロマンス小説として書いていたような小説家でした。つまり明治大正昭和を生きていた人でしたが中身は江戸時代の町人だったような人です。鏡花よりは近代人だったとはいえ溝口も人間性ではなかなか古臭く、映画監督としての映像感覚は抜群に鋭く新しかったのは鏡花の小説家としての前衛性や独創性と同様ですが、鏡花同様様式的な類型化ぬきには現代人を描けなかった創作家です。溝口が生彩を放つのは娼婦や芸人、職人の世界か、その予備軍のような破滅的な状態を生きている人物たちを描いた時でした。『雪夫人絵図』と『お遊さま』は没落ものとして何とか溝口なりの類型化が効いたものでしたが、本作のようにヒロインたち(田中絹代、轟夕起子)の夫たち(森雅之、山村聡)が大学教授、実業家となるとにわかに嘘くさい人物造型しかできなくなってしまうのです。溝口は鏡花ほど学歴コンプレックスは持っていなかったようですが若すぎるほどの年齢から映画界以外の社会を知らず、もちろん映画製作の世界はあらゆる社会階層の人種と接する機会があるでしょうがそれは映画という切り口で接するだけでもあって、芸人や職人の心境には入りこめ、また特殊な例ですが忠臣蔵の世界の大石内蔵助を映画監督の立場に置きかえられても、大学教授や実業家となると本作や『祇園囃子』'53のように戯画化した描き方しかできない。本作は大岡昇平自身を擬したようなスタンダール研究家のフランス文学者の大学教授がヒロインの夫で、脚色に大岡の文学仲間で演劇人でもある福田恒存がクレジットされていますが、依田氏の著書では本作は失敗作として急いで通り過ぎられていて福田恒存の脚色の役割については触れられていません。ヒロインの夫の大学での教室場面程度にしか関わっていないのかもしれません。とにかく森雅之演じるフランス文学教授の戯画化がひどく、戯画化はいいですがキャラクターに一貫性がない。『雪夫人~』の上原謙のような観客側の男性主人公ではないからひどくてもいいとしたのかもしれませんが、ヒロインを自殺に追いこむ仇役としても森雅之と轟夕起子の出たとこまかせの行動は人物像として説得力がなさすぎます。それは轟夕起子の夫役の実業家の山村聡もそうで、原作小説でもやたらと他人に煙草をねだる卑しい男に描かれていますが、『祇園囃子』の会社幹部のように舞妓を使って取引先に枕営業をかけるのが得意技としているビジネスマンの描き方でもない(戦前の映画会社は新年会に新聞雑誌の映画批評家・映画欄担当者を招いて、好きなだけ大部屋女優に枕接待をさせる習わしでした)。原作小説の戯画化は登場人物の性格設定に一貫性がありますが、それは小説の記述によって説得力を与えられたもので、筋書きだけ抜き出して映画化してもリアリティは生まれなかったということです。
しかし本作は『雪夫人絵図』とも異なるムードで意外と見応えある佳作になっています。『お遊さま』では正直ミスキャストだった田中絹代が(『お遊さま』では溝口が田中に「今回はあなたを美しく撮りますよ」と言ったそうですが、それがかえってあだになった気がします)ここでは没落した旧家の、婿養子を夫に持つ中年女性を地味に、慎ましく演じています。『雪夫人~』にせよ本作にせよなぜ婿養子かというと戦前には女性の家督相続権はなかったからで、これは現在では皇室だけにしか残っていないのでピンときませんが、『雪夫人~』や本作のヒロインは昭和10年代に結婚したと思われるので戦後には女性にも相続権が認められるとは思われていなかったのです。本作は敗戦末期に復員してきたヒロインの夫の森雅之が早く日本など負けないかなと愚痴をこぼすうちに青酸カリの配給はあるは、防空壕を掘ると古墳跡地だったらしく人骨は出てくるわで日々気弱になっていくうちにヒロインの母、父が次々と亡くなり、溝口には珍しいテンポの良さで敗戦を迎え、従弟の大学生の勉の復員の時には勉の父の軍人は割腹自殺しているのが語られますが、武蔵野の野原がヒロインと片山明彦演じる勉にとって唯一敗戦日本の喧騒を忘れて安らげる場所になります。一方ヒロインの名義の家と土地を乗っ取ろうとする轟夕起子とヒロインの夫の森雅之の不倫カップルが権利書の不備でしくじり、山村聡演じる遊び人の夫との仲は冷えきっている轟夕起子は次に勉を誘惑しようとしますがはねのけられて森雅之に勉とヒロインの仲を告げ口する。一方ヒロインと勉は武蔵野散歩中に激しい雷雨にあって安ホテルに泊まり、勉はヒロインに迫るがヒロインは穏やかに、しかしきっぱり拒絶する(ヒッチコックの『私は告白する』'53みたいですが、こっちの方が先)、勉から二度と会わないと告げられたヒロインは帰宅して轟夕起子の夫の従兄(山村聡)から自分の夫が権利書を持ち出したと知り、さらに自分が先に死んだ場合でない限り権利書の記載は有効と従兄から聞いて、財産権の譲渡先を勉に書き変えた遺言書を残して配給の青酸カリを飲んで自殺する。権利書に妻の同意書が必要と知ってやけ酒を飲んで帰宅した夫がヒロインの亡骸を発見し、慌てて隣人の山村聡と轟夕起子夫婦を呼び、遅れて現れた勉は遺言書を見せられ激怒して武蔵野の散歩道を歩いて行く、「あなたの好きだった武蔵野はもうないのです。本当の武蔵野は今の騒がしい街やお店、工場にしかないのです」とヒロインの遺言書のナレーションが勉の後ろ姿に重なって映画は終わります。『雪夫人~』『お遊さま』本作と、ヒロインと恋人が決して結ばれない三部作はこうして締めくくられるのですが、どれも似たような部分と異なる部分で三作三様の味わいがあり、この3作に先立って次作『西鶴一代女』のシナリオ第1稿が完成していたというのは興味深く、いよいよ次に実現する『西鶴一代女』こそは男から男へと決して恋のかなうことのない、徹底的に男運の悪い封建時代の女の転落一代記となるのです。没落三部作が溝口のスランプ期どころかフリー監督として出向先の会社企画に乗りながらも、結果的には溝口自身のテーマに引きつけて『西鶴一代女』に跳躍するための周到な準備期間にしおおせたのは改めて舌を巻かないではいられません。次回は『西鶴一代女』'52、『雨月物語』'53、『祇園囃子』'53です。しかも溝口の余命はあと4年きりだったのです。
●3月2日(金)
『雪夫人絵図』(滝村プロダクション・新東宝/新東宝'50)*86min(オリジナル62分), B/W; 昭和25年10月25日公開
○製作・滝村和夫、原作・舟橋聖一、脚本・依田義賢/舟橋和郎、撮影・小原譲治、音楽・早坂文雄、美術・水谷浩、助監督・小森白
○あらすじ 旧華族の一人娘として育った雪夫人(木暮実千代)は養子直之(柳永二郎)を迎えて結婚したが、放蕩無頼の直之はキャバレーの女綾子(浜田百合子)に溺れ、いたずらに財産を減らすばかりであった。雪夫人には幼い頃から親しくしていた菊中方哉(上原謙)がいた。二人は互いに愛し合っていたが、雪夫人は夫と別れて方哉と一緒になる決心はつかなかった。彼女は父の死後生計の独立を計るため熱海で旅館を経営するが、直之はその旅館を綾子のものにしようと画策する。しかも直之は雪夫人に子供が出来たのを聞いた時自分の子ではないとなじる。全てに絶望した雪夫人は秋近い芦の湖に身を沈めるのであった。原作は舟橋聖一。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
監督第77作。溝口が松竹を辞めてフリーになった経緯は諸説ありますが、依田氏には「松竹とうまくいかなくなった」としか溝口は語らなかったそうです。ただその時田中絹代の渡米があり、松竹を辞める前に『西鶴一代女』のシナリオ第1稿が完成していて企画が立ち消えになったことも依田氏は書いており、新天地の新東宝での第1作が『西鶴一代女』だったら良かったか、それともやはり『西鶴一代女』は迂回してようやく実現したからこそ成功作になったか思いをめぐらしています。依田氏は脚本家として『雪夫人絵図』『お遊さま』『武蔵野夫人』を原作の文学性をうまく生かしきれなかった映画と自省しているのでこの3作を迂回と見るのですが、またこの3作の原作は優れた現代文学と言えるものですが、原作のテーマの移植にはこだわらず映画として一本立ちした充実した作品になっていると思います。戦後松竹作品で横組みのクレジット・ロールに違和感を感じてきてから本作でようやく早坂文雄の音楽とともに立て書きのデザイン文字のクレジット・タイトル字幕を観ると、ああ溝口映画がやっと帰ってきたんだ、と胸に迫る思いがします。映画は雪夫人の熱海の邸宅に招かれてきた女中の久我美子(本作当時19歳)の語りで、代々華族のこの家に仕えてきた家系の娘として雪夫人への憧憬のナレーションから始まりますが、本作は原作は旧華族の没落を描いたテーマとして太宰治の『斜陽』や映画では『安城家の舞踏会』の系列に入るものです。しかし映画はそうした社会的テーマはぐっと後退して、性的にも経済的にもマゾヒスティックな共依存関係のスパイラルに陥っている木暮実千代の雪夫人とその夫で精力絶倫の道楽婿養子直之の破滅的でエロティックな状況が前面に出てきます。本作のサービス精神は大したもので、雪夫人邸に着いた久我美子は女中頭に勧められてさっそく長い入浴シーンの中で雪夫人への思慕を走らせますし、すぐに東京の当主(雪夫人の実父)の急死の報に雪夫人の幼なじみの上原謙と葬儀に駆けつけると、葬儀の晩に酔った直之が雪夫人とセックスの最中に水を持ってこさせられるという具合で、このサディスティックなエロ婿養子役を柳永二郎が見事に演じています。
雪夫人が直之と離婚しようとするいきさつはあらすじの通りで、雪夫人は人格的にはかつての臣下の息子で雪夫人の幼少時からの遊び相手に仕えていた琴の師範の上原謙と慕いあっているのですが、夫の柳永二郎が下品な愛人のキャバクラ歌手浜田百合子を連れて堂々と熱海邸に泊まりに来ようと、一旦は決意して離婚を申し出に向かおうと、雪夫人にとっては直之に虐げられるのが至上の快楽という性癖が骨の髄まで染み込んでいるので別れられない。また直之も雪夫人を虐げるのが夫婦の絆になっているので虐待や放蕩が止められない。そうしているうちに理性的な上原謙も愛想をつかし、キャバクラ歌手浜田百合子の実は旦那だった直之の手代の山村聡が熱海の雪夫人邸の権利書を手に入れてしまう、というとコメディなのですが、このコメディは雪夫人を自殺に追いこむので実に無責任かつ残酷に終わります。芦ノ湖ほとりの上原謙の住まうホテルに上原謙の不在を知っていながら雪夫人が訪ねる。大ロングで俯瞰で撮られたテラスのオープンカフェで雪夫人が上原謙といつも飲んでいた紅茶を頼む。給仕の動きにつれてカメラがパンして、給仕が紅茶を持って戻ると雪夫人の姿は消えている。ラストカットはホテルのテラスからの芦ノ湖の湖畔の草むらを久我美子がかき分けて、雪夫人の帯を見つけて湖に投げこみ「お嬢さまの意気地なし!馬鹿……」と絶叫絶句する長いカットで終わります。ゴダールが本作を「崩れるような美しさ」と絶賛していますが、一見古風なテーマに見えて雪夫人とその夫(雪夫人が失踪し、泥酔して訪ねてきた上原謙に最初「酔っ払いと話すつもりはない!」と強く出ていた柳永二郎が、上原謙が眠りこんでしまいそうになると狼狽して「頼むから雪子をとらないでくれ!」と嘆願する豹変ぶり)の異常なようでいて割と普遍性のある夫婦関係が意外にも説得力のある描き方で成功しており、道具立ては日本的な情緒なのに良く出来たイタリア映画やフランス映画のようなラテン的な明晰性があります。原作のクライマックスは雪の芦ノ湖畔ですが本作撮影の年は雪に恵まれなかったそうで依田氏も残念がっていますが、雪景色でなくても十分なクライマックスです。現在は国有化しているという旧華族邸を借りたロケも見応えがあり、戦後作で溝口が初めて継続して追求できるテーマをつかみ足場を見つけた作品としてもっと見直されていい映画でしょう。戦後の松竹作品でも成功作と言える『歌麿をめぐる五人の女』『夜の女たち』にはこの足が着いた感じがなかったのです。それはもうご覧になれば一目瞭然です。
●3月3日(土)
『お遊さま』(大映京都撮影所/大映'51)*89min(オリジナル95分), B/W; 昭和26年6月22日公開 : https://youtu.be/7Oji7mdJL24 : https://youtu.be/Vxtua8lsNDM
○製作・永田雅一、原作・谷崎潤一郎、脚本・依田義賢、撮影・宮川一夫、音楽・早坂文雄、美術・水谷浩
○あらすじ お遊さま(田中絹代)は富豪の粥川へ嫁入ったが間もなく夫と別れ、一人息子の養育につとめていた。妹お静(乙羽信子)が芹橋慎之助(堀雄二)とお見合いする時、お遊さまはつき添っていた。慎之助はかえってお遊さまに心ひかれるのであった。お静と慎之助は結婚した。お遊さまも慎之助を想っているのを知ったお静は、名前だけの妻に甘んじ、二人の間のかけ橋となるのであったが、世間の口もやかましくなり、お遊さまは実家に戻り二人を不幸にしていたことを悟り、伏見の酒造家に再婚する。芹橋家は破産し、お静は産後の肥立ちが悪く死んだ。ある月見の夜、豪華な屋敷の前に赤ん坊が捨てられていた。その赤ん坊は慎之助がお静亡き後思い余ってお遊さまに託したものであった。原作は谷崎潤一郎の「芦刈」。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
監督第78作。日活在籍時~第一映画社~新興キネマ~戦前・戦中の松竹と、ずっと文芸部長と監督の関係だった川口松太郎が永田雅一の興した大映の製作部長に就任して溝口が招かれた作品で、永田雅一は日活在籍時~第一映画社~新興キネマと溝口作品のプロデューサーでしたから依田氏からすれば大映には招かれるべくして招かれた観があったそうです。しかしこの時はフリーとしての単発契約で、大映の専属監督になるのは『雨月物語』'53からになったのは会心の成功作(それが新東宝での『西鶴一代女』'52になったわけですが)をものしてからにしたかったのだろう、と依田氏は溝口の心境を推察しています。それは当然待遇や発言権にも反映されるので、『雪夫人絵図』~『武蔵野夫人』の3作は松竹時代同様会社側の企画だったのも脚本家依田氏自身が高く買わない理由なのですが、特に前作『雪夫人絵図』は新東宝での待遇にスタッフに八つ当たりして大変だったそうで、プロデューサーや経営陣にではなくスタッフに当たるのが溝口らしいのですが、本作は田中絹代もアメリカから帰ってきた、会社も永田雅一と川口松太郎の大映なので前作のような八つ当たりはなかったようです。また、前回溝口が脚本家の依田氏を撮影に立ち会わせるのは難航した作品の時ほど多く『わが恋は燃えぬ』では依田氏はあまり立ち会っていないように書きましたが、『わが恋~』でもヒロインの夫を演じる菅井一郎が長回しのシーンで同時録音なのに何度も同じ箇所でつっかえてリテイクになるので溝口が罵倒しまくり、思いつめた菅井が降板を申し出る現場に立ち会っており、威圧して怒鳴れば周りがついてくると思っているような溝口らしいエピソードですが、今回の『お遊さま』の場合は原作がほとんどドラマらしい展開がない上に回想形式の小説で、しかも川口松太郎から「回想は止めてくれ、映画でそういうのは僕は大嫌いだ」と厳命されて脚本が難航し、ようやく出来たシナリオを溝口が各映画会社の合同監督会で親しい小津安二郎らに「こういうシナリオなんだが」と相談して、たぶん溝口の自信のなさそうな様子が受けてしまったらしく「このシナリオは何ですか。僕は恥をかきましたよ」と依田氏にえらい剣幕で迫る。どこが悪いかと訊けばそれは脚本家の仕事だろうと来る。では勉強してきますと答えれば今から勉強してどうするのだ、それでは別の脚本家にお願いしたらどうかと言えばこれからそんな余裕はない、とさんざん叩かれて推敲を重ねたそうです。しかし主演が田中絹代であることに問題があった、とも依田氏は指摘しています。田中絹代はアメリカから帰ったばかりで数作出演していたがアメリカかぶれの演技になったと不評が続いていたところでした。本作の純粋に和風なヒロインは田中絹代には挽回のチャンスでしたが、ヒロインのお遊さまは天然のお嬢さまで世事にうとい性格設定なのが作品の中心になっている。ところが田中絹代の得意な役はよく気の回る、回りすぎるくらいにまわる女性像で、田中絹代のキャラクターを活かすと乙羽信子演じる妹お静とかぶってしまう。一人の男を譲りあう姉妹の話になってしまうのでいかにお遊さまをぼんやりした控えめな女性にするかで依田氏は苦心したようです。
前作『雪夫人絵図』、本作、次作『武蔵野夫人』は文芸映画三部作とも言えて、新東宝、大映、東宝と会社もプロデューサーも違いますし『雪夫人~』だけ木暮実千代主演ですが、文芸映画という以上に似たところがあります。『雪夫人~』を誉めておいて何ですが、本来男性主人公は上原謙のはずが柳永二郎の方が厭らしい魅力のある主人公になっている。依田氏は上原謙が雪夫人への思慕を断念するために久我美子を強姦するアイディアを出して溝口に却下されたのを「上原謙のイメージではないから」だろうと残念がっていますが、これは共同脚本の舟橋和郎(原作者の舟橋聖一に指定された原作者の実弟)が原作からの改変を自由に許されていた証拠でもあれば、依田氏の考えるような理由でなく上原謙の役柄の性格的一貫性のためとして溝口の判断は正解だと思います。しかし柳永二郎の方が自由奔放な人間として魅力的なのは誤算から生じた成功とも言えるので、『お遊さま』の場合は真のヒロインは乙羽信子の演じる妹お静になってしまっている。溝口は『愛怨峡』のようなたくましいヒロインも描きますが、『残菊物語』のヒロインのような耐えしのぶ女性が田中絹代の貫禄あるヒロインと並ぶと耐えしのぶヒロインの方に共感が起きてしまいます。また依田氏の努力にもかかわらず田中絹代がおぼろ月夜のような天然お嬢さまにはどうしても見えないので、こればかりはいかに大女優といえども資質としか言いようがない。またこの三部作は没落旧家三部作でもあり、またヒロインと男性主人公が決して結ばれない三部作でもあるのですが、何だかんだ言って未亡人の姉に惚れたばかりにその妹と結婚した主人公は最終的に夫婦愛の確認に行き着くのですから真のヒロインである妹も無念の産褥死を遂げるとはいえ夫の愛を勝ち得るわけです。本作の成果は初めて大映のカメラマン宮川一夫と組んだことで、撮影・宮川一夫、音楽・早坂文雄、美術・水谷浩とは『雨月物語』からの大映作品最強チームになるのですが、これも撮影前にはキャリアの浅い宮川に溝口は不服を洩らしていたそうですが、撮影が始まった途端に宮川の腕前に感服したそうで、映像的には『残菊物語』から意識的に始まっていた長回しが本作で長い時間経過を感じさせるための効果を強め、新東宝作品ですから宮川カメラマンではありませんが『西鶴一代女』でさらに試してみた後『雨月物語』以降の大映作品に至るという流れがわかります。しかし本作は三部作の中では感動の弱い作品で、姉妹と一人の男という溝口映画でももっともミニマムなドラマ上の実験がどうもうまくさばけなかった印象が残り、前後作の間に置いて観ると発見はありますが単独の1作として観ると物足りなさが残ります。それでも『夜の女たち』以外の戦後の松竹作品よりは格段の安定感はあるので、試行錯誤ではなくたまたま小ぢんまりとした仕上がりになったと見るべきでしょう。ラストカットの幻想的な美しさだけでも大映時代の作風の予告にはなっているので、これは三部作では本作ならではの味です。
●3月4日(日)
『武蔵野夫人』(東宝'51)*85min(オリジナル92分), B/W; 昭和26年9月14日公開 : https://youtu.be/E8b30gyZvuo : https://youtu.be/ZkIgME0oxmk
○製作・児玉英生、原作・大岡昇平、脚本・依田義賢/福田恒存、撮影・玉井正夫、音楽・早坂文雄、美術・松山崇、助監督・小森白
○あらすじ 閑静な武蔵野台地に住む道子(田中絹代)と夫の秋山(森雅之)、そこへ道子の従弟勉(片山明彦)が復員してきた。勉は道子の家に住みたがったが嫉妬深い秋山は彼をアパート住いさせる。勉は道子の従兄大野の妻富子(轟夕起子)の提案で富子の娘の家庭教師となる。昔の武蔵野を道子と勉は散策する内、いつしか二人はお互いにひかれるようになる。富子は二人のことを秋山に暴露し、富子と秋山は急速に親しくなる。ある日道子と勉は散策中嵐に会いホテルで一夜を過したが、道子は勉の激情をやさしく説得するのであった。勉は道子の許を去った。富子に捨てられた秋山が家に戻ると道子は香の匂いの中で静かに死んでいた。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
監督第79作。本作は溝口映画でも例外中の例外的題材で、溝口という人はサイレント末期に泉鏡花原作映画の成功作を次々送り出していたのが文学センスとしてはもっとも向いていたのではないかと思います。泉鏡花は手法は明治大正の現代文学でしたが霊界やお化け、たたりや因果の存在を信じ、警官や役人を怖がり、チラシ一枚ですら文字の書かれた紙を文筆家として崇め家人に粗末な扱いを許さなかった人で、昼は大学教授で夜は義侠盗賊団長が主人公の小説を真面目なリアリズムの冒険ロマンス小説として書いていたような小説家でした。つまり明治大正昭和を生きていた人でしたが中身は江戸時代の町人だったような人です。鏡花よりは近代人だったとはいえ溝口も人間性ではなかなか古臭く、映画監督としての映像感覚は抜群に鋭く新しかったのは鏡花の小説家としての前衛性や独創性と同様ですが、鏡花同様様式的な類型化ぬきには現代人を描けなかった創作家です。溝口が生彩を放つのは娼婦や芸人、職人の世界か、その予備軍のような破滅的な状態を生きている人物たちを描いた時でした。『雪夫人絵図』と『お遊さま』は没落ものとして何とか溝口なりの類型化が効いたものでしたが、本作のようにヒロインたち(田中絹代、轟夕起子)の夫たち(森雅之、山村聡)が大学教授、実業家となるとにわかに嘘くさい人物造型しかできなくなってしまうのです。溝口は鏡花ほど学歴コンプレックスは持っていなかったようですが若すぎるほどの年齢から映画界以外の社会を知らず、もちろん映画製作の世界はあらゆる社会階層の人種と接する機会があるでしょうがそれは映画という切り口で接するだけでもあって、芸人や職人の心境には入りこめ、また特殊な例ですが忠臣蔵の世界の大石内蔵助を映画監督の立場に置きかえられても、大学教授や実業家となると本作や『祇園囃子』'53のように戯画化した描き方しかできない。本作は大岡昇平自身を擬したようなスタンダール研究家のフランス文学者の大学教授がヒロインの夫で、脚色に大岡の文学仲間で演劇人でもある福田恒存がクレジットされていますが、依田氏の著書では本作は失敗作として急いで通り過ぎられていて福田恒存の脚色の役割については触れられていません。ヒロインの夫の大学での教室場面程度にしか関わっていないのかもしれません。とにかく森雅之演じるフランス文学教授の戯画化がひどく、戯画化はいいですがキャラクターに一貫性がない。『雪夫人~』の上原謙のような観客側の男性主人公ではないからひどくてもいいとしたのかもしれませんが、ヒロインを自殺に追いこむ仇役としても森雅之と轟夕起子の出たとこまかせの行動は人物像として説得力がなさすぎます。それは轟夕起子の夫役の実業家の山村聡もそうで、原作小説でもやたらと他人に煙草をねだる卑しい男に描かれていますが、『祇園囃子』の会社幹部のように舞妓を使って取引先に枕営業をかけるのが得意技としているビジネスマンの描き方でもない(戦前の映画会社は新年会に新聞雑誌の映画批評家・映画欄担当者を招いて、好きなだけ大部屋女優に枕接待をさせる習わしでした)。原作小説の戯画化は登場人物の性格設定に一貫性がありますが、それは小説の記述によって説得力を与えられたもので、筋書きだけ抜き出して映画化してもリアリティは生まれなかったということです。
しかし本作は『雪夫人絵図』とも異なるムードで意外と見応えある佳作になっています。『お遊さま』では正直ミスキャストだった田中絹代が(『お遊さま』では溝口が田中に「今回はあなたを美しく撮りますよ」と言ったそうですが、それがかえってあだになった気がします)ここでは没落した旧家の、婿養子を夫に持つ中年女性を地味に、慎ましく演じています。『雪夫人~』にせよ本作にせよなぜ婿養子かというと戦前には女性の家督相続権はなかったからで、これは現在では皇室だけにしか残っていないのでピンときませんが、『雪夫人~』や本作のヒロインは昭和10年代に結婚したと思われるので戦後には女性にも相続権が認められるとは思われていなかったのです。本作は敗戦末期に復員してきたヒロインの夫の森雅之が早く日本など負けないかなと愚痴をこぼすうちに青酸カリの配給はあるは、防空壕を掘ると古墳跡地だったらしく人骨は出てくるわで日々気弱になっていくうちにヒロインの母、父が次々と亡くなり、溝口には珍しいテンポの良さで敗戦を迎え、従弟の大学生の勉の復員の時には勉の父の軍人は割腹自殺しているのが語られますが、武蔵野の野原がヒロインと片山明彦演じる勉にとって唯一敗戦日本の喧騒を忘れて安らげる場所になります。一方ヒロインの名義の家と土地を乗っ取ろうとする轟夕起子とヒロインの夫の森雅之の不倫カップルが権利書の不備でしくじり、山村聡演じる遊び人の夫との仲は冷えきっている轟夕起子は次に勉を誘惑しようとしますがはねのけられて森雅之に勉とヒロインの仲を告げ口する。一方ヒロインと勉は武蔵野散歩中に激しい雷雨にあって安ホテルに泊まり、勉はヒロインに迫るがヒロインは穏やかに、しかしきっぱり拒絶する(ヒッチコックの『私は告白する』'53みたいですが、こっちの方が先)、勉から二度と会わないと告げられたヒロインは帰宅して轟夕起子の夫の従兄(山村聡)から自分の夫が権利書を持ち出したと知り、さらに自分が先に死んだ場合でない限り権利書の記載は有効と従兄から聞いて、財産権の譲渡先を勉に書き変えた遺言書を残して配給の青酸カリを飲んで自殺する。権利書に妻の同意書が必要と知ってやけ酒を飲んで帰宅した夫がヒロインの亡骸を発見し、慌てて隣人の山村聡と轟夕起子夫婦を呼び、遅れて現れた勉は遺言書を見せられ激怒して武蔵野の散歩道を歩いて行く、「あなたの好きだった武蔵野はもうないのです。本当の武蔵野は今の騒がしい街やお店、工場にしかないのです」とヒロインの遺言書のナレーションが勉の後ろ姿に重なって映画は終わります。『雪夫人~』『お遊さま』本作と、ヒロインと恋人が決して結ばれない三部作はこうして締めくくられるのですが、どれも似たような部分と異なる部分で三作三様の味わいがあり、この3作に先立って次作『西鶴一代女』のシナリオ第1稿が完成していたというのは興味深く、いよいよ次に実現する『西鶴一代女』こそは男から男へと決して恋のかなうことのない、徹底的に男運の悪い封建時代の女の転落一代記となるのです。没落三部作が溝口のスランプ期どころかフリー監督として出向先の会社企画に乗りながらも、結果的には溝口自身のテーマに引きつけて『西鶴一代女』に跳躍するための周到な準備期間にしおおせたのは改めて舌を巻かないではいられません。次回は『西鶴一代女』'52、『雨月物語』'53、『祇園囃子』'53です。しかも溝口の余命はあと4年きりだったのです。