Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
『元禄忠臣蔵 前篇』(興亜映画・松竹京都撮影所/松竹'41)*112min, B/W; 昭和16年12月1日公開 : https://youtu.be/P1RvxFlXwQo
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
○あらすじ 元禄十四年三月十四日、播州赤穂城主浅野内匠頭(浅野内匠頭)は城内松の廊下で吉良上野介(三桝万豊)に刃傷に及び即切腹となった。その悲報と亡君の辞世が赤穂の城に届く。城代家老大石内蔵助(河原崎長十郎)の幼なじみ井関徳兵衛(羅門光三郎)が仇討ちを訴えるが大石は拒絶し、徳兵衛は息子紋左衛門(坂東春之助)と切腹する。大石は最後の大評定で初めて決死の同志に本心を打ち明ける。それから間もなく、伏見の笠屋では夜な夜な遊女と戯れる大石の姿が見られるようになった。大石の妻おりく(山岸しづ江)は悩み、富森助右衛門(中村翫右衛門)ら浪士は大石の狂態にはがゆさを禁じ得なかったが、甲府宰相徳川綱豊(市川右太衛門)は富森に大石の心中を教え浪士らの軽はずみな行動を戒めるのであった。真山青果の同名戯曲の映画化。文部大臣賞特賞受賞作。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
本作は大石内蔵助が主人公とはいえ役名のある配役だけで登場人物70名に及ぶ群像劇でもありますが、人物の描かれ方は万事この調子でいきなりその場その場の事件だけを見せられていきます。もちろん登場人物間の相談や説明の場面も多く、特に大石の代弁者となって浪士たちに(つまり大石の妻子を筆頭にした作品人物全般や、すべてをひっくるめて観客に)状況や事情の解説をするのが徳川綱豊で、この綱豊は大石に次いで非常に重要な作品人物ですが、綱豊自身も作品人物ゆえに客観的視点人物とはなり得ないので大石や綱豊の忠義忠臣的言動がどこまで遵法的クーデターの意志で、どこからが謀叛の自覚があり、結局大石の思慮は武家の面子と赤穂藩領民保護の両方を立てようとして空転してしまうのですが、苦労衷心した挙げ句の選択とも追い詰められてとも両方に取れる曖昧で矛盾の多い言動が累積しながら映画は進んでいきます。舞台劇であれば観客は常に直接描かれない何重もの意味をくみ取りながら観覧が進んでいくでしょうが、映画では描かれたものがそのまま作中世界の真実で、描かれないものはないものとして進んでいきます。すでに映画冒頭から浅野内匠頭は問答無用で他人を斬りつける人物として描かれて閉まっています。即日切腹という当時の法的感覚自体が狂っているのですが、それも承知で沙汰に及んだと遺言に遺されて「誇り高い名君だった」と慕い、刀を抜いて反撃しなかった吉良に「武士ではない」と仇討ちを誓う赤穂浪士たちも狂っています。藩主の自滅で難民となった赤穂藩の領民の経済的保障を案じる(藩内通貨を公用通貨に両替する)家老らしい大石の政治的配慮も描かれていますが、仇討ちを直訴しに来て退けられると息子ともども切腹心中して訴える大石の幼なじみ、井関徳兵衛(演じる羅門光三郎は中島らもの筆名の由来になった、臭みのある性格俳優です)のエピソードはあまりに生々しく、明らかに赤穂藩を危機に曝した失格政治家は浅野内匠頭なのですが、政敵吉良もまたたちの良くない人物と描かれているとはいえそれが暗殺の根拠とはならないので、この映画は「忠臣蔵」事件に政治的明察を行った真山青果版新歌舞伎『元禄忠臣蔵』を原作としながらも題材をありのままに描いてしまうことで竹田出雲の人形浄瑠璃版『仮名手本忠臣蔵』1748から派生したさまざまな通俗忠臣蔵と見かけ上大差のない、それを映画の巨大スケールで描いたスペクタクル作品にとどめることになった歯がゆい感じが残ります。そういう作品としては本作はイタリア史劇『カビリア』'14やハリウッドの『十誡』'23、『ベン・ハー』'27から『スパリタカス』'60らと肩を並べる大力作で、日本人の矛盾に満ちた情動と政治感覚を丸ごと捉えてそのまま描き出した一大エピックで、これが戦時下に体制翼賛映画として作られ、観客には受けずに興行的には失敗作となり、政府からは文部大臣賞特賞の奨励作品とされた歴史的な暗部がある映画なのも問題を残す結果となったと言えます。前篇は大石が江戸へ上る場面で後篇の不穏さを予感させながら終わり、観客はすでに爽快感のある忠臣蔵を期待はまったくないままもやもやとした気分を持て余すことになります。そしてその予感は後篇でだいたい的中することになります。
●2月23日(金)
『元禄忠臣蔵 後篇』(松竹京都撮影所/松竹'42)*111min, B/W; 昭和17年2月11日公開
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
○あらすじ 浅野家再興の望みを断たれ、大石はいよいよ江戸へ上ることに決めた。高輪泉岳寺に主君の墓参を済ませた大石は、その足で瑶泉院(三浦光子)を訪ね、さりげない永のいとまを告げるのであった。元禄十五年十二月十四日吉良邸に討入った四十七士は吉良の首級をあげ、見事主君の仇を果した。その処分について是非両論がまき起ったが、彼らを死なせてやるのが武士道と主張したのは綱豊であった。十六年二月三日義士たちは静かに切腹の座に上る。磯貝十郎左衛門(河原崎国太郎)の婚約者おみの(高峰三枝子)は、自分達の婚約が仇討のための策略からであったのかと、小姓に扮して細川邸に入り込んだが、磯貝の肌に秘められた形見の琴爪を見て全てを知り、彼のあとを追って自害する。キネマ旬報ベストテン第7位。
(津村秀夫『溝口健二というおのこ』長崎一編・溝口健二監督作品総リストより)
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
Image may be NSFW.
Clik here to view.
本作は前篇では字幕タイトルだけだった場面進行に読み上げるナレーション音声がつくなど、興亜映画製作・松竹配給から製作・配給とも松竹名義に一本化したため観やすさについて多少配慮が加わりましたが、内容は前篇以上に入り組んでおり、直接的な忠義のアピールを強調するシーンが増えて、全体の収拾に向かって進む進行は前篇よりダイナミックなため映画としての完成度は上がったとも言えます。河原崎国太郎演じる磯貝十郎左衛門が能衣装のままの相手との室内での一対一の様式的剣戟場面など見せ場と言える場面もあり、また討入りの場を省略していかに忠臣蔵を見せるかを原作譲りで巧みに語り(しかし討入りを見せないという前提自体が劇では必然性がありますが映画ではなく、溝口の主張は「本物の討入りを再現するのなら吉良役の役者に死んでもらわねばいかんでしょう」というリアリズムの立場だったといいますからとぼけた話です)、討入りを見せない、大石が四十七士に投降を命じる、磯貝十郎左衛門と真意を確かめに男装して小姓になりすます婚約者のおみの(高峰三枝子、VHSパッケージ画像参照)が終盤のエピソードになりますが、いよいよ目立つ戦争翼賛要素と理性的な政治家大石内蔵助像、また大石の意をくむ徳川綱豊のあり方に大きな矛盾があり、ハリウッド映画ですら'30年代初頭のギャング映画で末路まで投降しない反逆者を描いていたのを思うと忠臣蔵と言えど投降しない忠臣蔵、投降せざるを得ない忠臣蔵の描き方の可能性があった。真山版忠臣蔵も時局柄明確に描いていませんが、演劇の抽象性から観客(読者)は人物の内面に踏みこむ鑑賞を迫られます。大石の場合は赤穂藩の民の代弁者として浅野内匠頭の仇討ちを遂行しなければならなかった。「赤穂あっての民ではない、民あっての赤穂だ」と言う意味の台詞があります。浅野家再興の望みが消えても旧赤穂民のコミュニティーは浅野家の赤穂藩にあり、浅野家断絶後も民のアイデンティティを保つために大石と四十七士に求められていたのは吉良への仇討ちであり民のための殉職だった、と一応の解釈ができます。江戸時代の日本は統一国家でも何でもなく藩単位の小国の集まりであり、小国は中央政府の江戸幕府にとっては侵略植民地のようなもので、赤穂浪士の忠臣忠義は徳川家でも皇室でもなく赤穂藩の忠義でしかなかったでしょう。真山版忠臣蔵の描く「元禄」時代の日本人とはそのようなものです。これを出来事だけ描くと「護れ/興亜の兵の家」で「情報局国民映画参加作品」になる。しかし大石内蔵助にとっての「兵の家」の「国民」は赤穂藩の民に限定されるので、難民化して他の君主に分譲される赤穂民の最後の願いをかなえるために討入りを遂行し殉職する動機はむしろ純粋に植民地クーデター首謀者だったでしょう。映画にはそれを考えさせない強い力があり、軍国主義映画というものがあれば本作、特にこの後篇は軍国主義映画そのものですから退屈で嫌悪感を催す雰囲気に満ちています。前篇の哀切な調子は後篇では悲壮感にすら高まっており、合理性を欠いたやせ我慢の美学のような日本的美意識を押しつけて観客を屈服させようとする、いつも強引な溝口映画でもこれほど観客の感受性を蔑視した強引な映画はないというくらい高飛車で傲慢です。ですがそれは平時にあって『元禄忠臣蔵』を観られる現代の観客だから感じられるので、昭和16年の製作時(後篇ではさらに太平洋戦争開戦直後に最終編集が行われたはずです)にこの映画はそれほど強引でなければ作れなかったので、D・W・グリフィスの『イントレランス』'16をベートーヴェンの第5交響曲、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂天井画に喩えた評価がありますが、『元禄忠臣蔵』もそれらと同列に並ぶ巨大な作品です。退屈きわまりなく悪趣味この上なく人間性に対する侮辱とすら言えても芸術的基準では大偉業、力業と認めないでは済まない皮肉がある。しかもグリフィスの『イントレランス』やアベル・ガンスの『ナポレオン』'27のようには溝口が格別本作を作りたくて作ったわけではないのが皮肉に輪をかけており、いっそ企画が流れた方が良かったかもしれない映画かもしれないのです。