Quantcast
Channel: 人生は野菜スープ(または毎晩午前0時更新の男)
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3141

現代詩の起源(17); 三好達治詩集『測量船』(xii・了)

$
0
0
 三好達治(1900.8-1964.4)昭和29年9月/54歳
 (撮影・浜谷浩)

イメージ 1

 詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
 第二巻、昭和5年(1930年)12月20日刊(外箱)

イメージ 2

      三好達治揮毫色紙

イメージ 3

イメージ 4

 数回で済むはずのつもりが、三好達治についてはこれまでの「現代詩の起源」で最長の長さ(と回数)になってしまいました。第1詩集『測量船』についてのみならず同時代の現代詩との対照、三好達治の詩業全般の概括に話題が及んでしまったからです。もちろんその意図は三好の全詩業の出発点である『測量船』がどういう意義を備えていたかを知るためですが、創作家についてよく言われるように「処女作にすべてがある」と考えてのことではありません。詩集『測量船』の全38編自体がおおよそ6年間におよぶ作品からの自選集で、作風の変遷から見ても3期に分けられ(もちろん変化の過程で前後の時期に重なりあう作品もあります)、三好自身によって「測量船補遺」として再刊版に増補された詩編もご紹介しましたが晩年の『定本三好達治全詩集』、さらに没後の『三好達治全集』では「測量船補遺」は遺漏詩編がさらに増補され『測量船』に採択された詩編は初期6年間の詩作中4割足らずだったのがわかります。もっと詳細に述べれば昭和21年の再刊版『測量船』(南北書園版)で14編の「測量船拾遺」が増補され、昭和37年の『定本三好達治全詩集』ではさらに22編が増補され、詩人逝去の前月の昭和39年3月に編集完了した新版『測量船』ではさらに2編、また昭和39年10月刊の全集第1巻ではさらに15編、昭和41年11月刊の全集第12巻の遺漏編では2編が追加されました(全集では「測量船拾遺」は総計56編)。発表順で見れば三好の処女作詩編は大正15年6月に同人誌「青空」に同時発表された5編であり、その巻頭詩「玻璃盤の胎児」です。5編を「青空」掲載順に再度引用してみましょう。


 生れないのに死んでしまつた
 玻璃盤の胎児は
 酒精(アルコール)のとばりの中に
 昼もなほ昏々と睡る

 昼もなほ昏々と睡る
 やるせない胎児の睡眠は
 酒精の銀(しろがね)の夢に
 どんよりと曇る亜剌比亜数字の3だ

 生れないのに死んでしまつた
 胎児よお前の瞑想は
 今日もなほ玻璃を破らず
 青白い花の形に咲いてゐる
  (「玻璃盤の胎児」全行・「青空」大正15年=1926年6月、「測量船(南北書房版)」昭和22年=1947年1月刊「測量船拾遺」収録)


 祖母は蛍をかきあつめて
 桃の実のやうに合せた掌(て)の中から
 沢山な蛍をくれるのだ

 祖母は月光をかきあつめて
 桃の実のやうに合せた掌の中から
 沢山な月光をくれるのだ
  (「祖母」全行・同上発表、同上収録)


 木の枝に卵らみのり
 日に日にゆたかにみのり
 いつしかに心ふるへて
 しらじらと命そだちて
 木の枝に卵らみのる
  (「短唱」全行・同上発表、同上収録)


 魚の腹は
 白ければ光り
 魚の腹は
 たそがれかけてふくらむ

 魚のこゑ
 ちいちいと空にきこえ
 光れる腹をひるがへす

 雲間に魚の産卵をはり
 魚はうれしや
 たらたら たらたら
 風鈴のやうに降りてくる
  (「魚」全行・同上発表、同上収録)


 母よ――
 淡くかなしきもののふるなり
 紫陽花(あぢさゐ)いろのもののふるなり
 はてしなき並樹のかげを
 そうそうと風のふくなり

 時はたそがれ
 母よ 私の乳母車を押せ
 泣きぬれる夕陽にむかつて
 輪々(りんりん)と私の乳母車を押せ

 赤い総(ふさ)ある天鵞絨(びろおど)の帽子を
 つめたき額(ひたひ)にかむらせよ
 旅いそぐ鳥の列にも
 季節は空を渡るなり

 淡くかなしきもののふる
 紫陽花いろのもののふる道
 母よ 私は知つてゐる
 この道は遠く遠くはてしない道
  (「乳母車」全行・同上発表、詩集『測量船』昭和5年12月刊収録)


 このうち「乳母車」が当時中堅詩人の親分格だった詩人、百田宗治に激賞されて、百田の紹介により新作詩編の発表誌がみるみるうちに広がって6年間に100編近い詩とそれに倍する批評、エッセイ、翻訳を発表していくことになり、第1詩集『測量船』刊行時には新鋭詩人というよりもすでに三好自身が専業文筆家として身を立てている中堅詩人だったのです。収録詩編がほぼ発表順に配列された詩集『測量船』は、前半1/3を過ぎたあたりから急激に腕前を上げた三好のプロの詩人への成長が見られます。しかし先に上げた三好の初発表詩5編は名作「乳母車」以外はとても褒めようがないもので、「短唱」「魚」は萩原朔太郎の「愛憐詩編」の平凡な模倣ですし、「祖母」は佐藤春夫や堀口大學らのハイカラな機知の詩に似せたほんの断章的試作に過ぎず、「玻璃盤の胎児」は萩原が大手拓次に接近した作風を真似て稚拙に終わったものです。それを言えば「乳母車」も室生犀星の文体を手本に北原白秋的着想を換骨奪胎したもので、三好の語感の良さが唯一模倣に終わらない自律性を持つ名作になりましたが、この5編だけからはまだ試作時代の学生詩人の偶然の産物に見えます。三好が萩原と室生贔屓で、萩原と室生の師の北原白秋嫌い、萩原と室生の盟友の大手拓次嫌いだったのを思うと初めて発表した処女作詩編5編に拓次もどきの「玻璃盤~」、白秋的な「乳母車」があるのは面白い現象ですが、「玻璃盤~」が奇想詩のでき損ない、「乳母車」が5編中唯一の成功作になっているのは興味が持たれるところです。『測量船』に採録されたのが5編中「乳母車」だけだったのももっともなことでした。
 また、三好は文学好きの青年ではありましたが詩人としての出発は遅く、旧制高校を卒業し東京帝国大学に入学したのが大正14年(1925年)で、そこで梶井基次郎や丸山薫に出会い、梶井と丸山が出していた同人誌「青空」に同年生まれの新入生、北川冬彦とともにようやく参加したのが大正15年の新学期で、26歳になる少し前に発表したのがその年6月発行の「青空」に載せた前述の5編です。北川は「青空」参加時にすでに第1詩集を持ち第2詩集をまとめており(『三半規管喪失』大正14年1月刊、『検温器と花』大正15年10月刊)、当時もっとも強力なカリスマ性で文壇を牽引していた小説家・横光利一からも注目されていた存在で、また「青空」のグループは梶井基次郎を始めとして横光の盟友の川端康成と親好を深めることになります。いわば当時の文学青年の中でもエリート学生集団だったのですが、稚拙な作品が大半だった初期の三好が急激な成長を遂げたのは、梶井、北川らの親友からの刺戟と先輩文学者からの厚意による多彩な発表舞台で場数を踏む幸運に恵まれたのが大きいでしょう。とりわけかねてからの憧れだった萩原朔太郎に直接師事し、秘書を勤める時期を持ったのは他に得難い体験でした。それが自他ともに三好を萩原の愛弟子と認めさせ、三好自身の抱負と自負につながっただろうことは想像に難くありません。

 文筆専業だっただけに三好の詩業は膨大ですので、三好が亡くなるちょうど2年前に、三好を師と慕う若手俳人の石原八束を編者として三好の指示のもとに編まれた『定本三好達治全詩集』の目次細目を参照するのが便利でしょう。今回は三好達治詩集『測量船』の最後の回なので、いま一度三好達治の詩業の全貌をまとめてみたいと思います。

 詩集『定本三好達治全詩集』石原八束編
 筑摩書房、昭和37年(1962年)3月30日刊

イメージ 5

イメージ 6

[ 定本三好達治全詩集・目次 ]
一の歌: 測量船(昭和5年12月刊)
測量船拾遺
二の歌: 南窗集(昭和7年8月刊)
間花集(昭和9年7月刊)
間花集拾遺
山果集(昭和10年11月刊)
山果集拾遺
霾(昭和14年4月刊『春の岬』より)
霾拾遺
三の歌: 短歌集『日まはり』(昭和9年6月刊)
短歌拾遺
四の歌: 艸千里(昭和14年7月刊)
艸千里拾遺
五の歌: 一點鐘(昭和16年10月刊)
一點鐘拾遺
六の歌: 覊旅十歳(昭和17年6月刊)抄
朝菜集(昭和18年6月刊)抄
寒柝(昭和18年12月刊)抄
干戈永言(昭和20年6月刊)抄
七の歌: 花筐(昭和19年6月刊)
花筐拾遺
八の歌: 路上百句(『定本三好達治全詩集』にて新編)
九の歌: 故郷の花(昭和21年4月刊)
故郷の花拾遺
十の歌: 砂の砦(昭和21年7月刊)
日光月光集(上下巻、昭和22年5月・10月刊)抄
日光月光集拾遺
十一の歌: 駱駝の瘤にまたがつて(昭和27年3月刊)
 間人断章
 秋風裡
 水光微茫
駱駝の瘤にまたがつて拾遺
十二の歌: 百たびののち(『定本三好達治全詩集』内新作詩集)

 これに詩集全編が抹消された『捷報いたる』(昭和17年7月刊)と、没後の『三好達治全集』第3巻(昭和40年12月刊)にまとめられた最晩年の「百たびののち以後」21編(絶筆の詩編「春の落葉」は逝去4日前の執筆)を加えたものが三好達治の全詩業になります。『定本三好達治全詩集』の目次を見ると大冊詩集『駱駝の瘤にまたがつて』は本来の構想では詩集3冊の合本の意図だったのがわかります。

 創元社の創元文庫から刊行された『日本詩人全集』全11巻(昭和27年8月~昭和28年11月刊、丸山薫・伊藤信吉・大江満雄・北川冬彦・小野十三郎編)は明治編が2巻、大正編が3巻、昭和編が5巻で戦後編が1巻という巻立てで、昭和28年5月刊の第8巻「昭和編(3)」は「四季」派・「コギト/日本浪漫派」とその周辺詩人の巻で25人の詩人が収録されていますが、三好達治が巻頭で24編が選ばれています(二番手は丸山薫)。三好の部の内訳は『測量船』から5編、『南窗集』から2編、『間花集』から1編、『艸千里』から1編、『一點鐘』から5編、『花筐』から1編、『砂の砦』から2編、『日光月光集』から1編、『駱駝の瘤にまたがつて』から5編となっています。このうち『測量船』から選ばれた5編は「雪」「村(恐怖に澄んだ……)」「僕は」「燕」「郷愁」です。
 また角川書店の角川文庫から刊行された『現代詩人全集』全10巻(昭和35年8月~昭和38年3月刊、神保光太郎・伊藤信吉・村野四郎・鮎川信夫編)は近代編(明治・大正)が4巻、現代編(大正・昭和)が4巻、戦後編が2巻という巻立てで、こちらも第8巻「現代IV」が「四季」派・「コギト/日本浪漫派」とその周辺詩人が19人で三好達治が巻頭、次が丸山薫ですが、創元社の『日本詩人全集』では中原中也は「歴程」派の巻に収録されていたのに『現代詩人全集』ではこの第8巻の巻末詩人になっています。三好の部は『日本詩人全集』同様24編で内訳は『測量船』から7編、『南窗集』から2編、『間花集』から2編、『霾(『春の岬』)』から2編、『艸千里』から2編、『一點鐘』から1編、『朝菜集』から1編、『花筐』から1編、『砂の砦』から2編、『日光月光集』から1編、『駱駝の瘤にまたがつて』から3編です。『測量船』からは「乳母車」「雪」「甃のうへ」「村(鹿は角に……)」「村(恐怖に澄んだ……)」「庭(太陽はまだ……)」「郷愁」が選ばれており、このうち『日本詩人全集』との重複は「雪」「村(恐怖に澄んだ……)」「郷愁」です。なお『日本詩人全集』の当該巻は丸山薫編・解説、『現代詩人全集』の当該刊は村野四郎編・解説ですが三好生前の刊行なので、選択には三好の希望も採り入れていると考えられます。
 さらに集英社の集英社文庫から日本ペンクラブ編で全25巻が刊行された短編小説・エッセイ名作選の最終巻は唯一の詩集で大岡信が編・解説に当たった『愛の詩集・ことばよ花咲け』(昭和59年4月刊)ですが、明治・大正・昭和の詩人111名を収録するうち三好達治は3編収録、いずれも『測量船』からで「春の岬」「甃のうへ」「Enfance finie」が選ばれています。「春の岬」と「Enfance finie」を選んでいるのが大岡信らしいセンスと言えるでしょうか。

 以上3種を『測量船』への収録順に整理すると「春の岬」「乳母車」「雪」「甃のうへ」「村(鹿は角を……)」「村(恐怖に澄んだ……)」「庭(太陽はまだ……)」「僕は」「燕」「Enfance finie」「郷愁」の11編になります。「鴉」「鳥語」「私と雪と」などの重苦しく長い散文詩、「湖水」「アヴェ・マリア」「雉」「菊」「十一月の視野に於て」など内向性や尖鋭性、攻撃性が勝った作品はアンソロジー向けとは言えず、「村(恐怖に澄んだ……)」「僕は」あたりでとどめているのがわかります。「鴉」「鳥語」「私と雪と」、また「湖水」「アヴェ・マリア」「雉」「菊」「十一月の視野に於て」などは『測量船』の中でも重要な作品ですから、これらを抜きにして『測量船』を測るのは片手落ちの感が免れません。また「少年」「谺」「春」「落葉」などもアンソロジー向けの好編小品ですが先の11編で尽きている、と見られて入らなかったのでしょう。ともあれ、上記3種のアンソロジーに選ばれた11編を再引用してみましょう。すべて詩集『測量船』(昭和5年=1930年12月刊)収録作なので初出誌だけ記載します。行分け詩は1字下げとしましたが、散文詩は原文改行の文字下げのままにしました。


 春の岬旅のをはりの鴎どり
 浮きつつ遠くなりにけるかも
  (「春の岬」全行・詩集初出、昭和2年=1927年春作)


 母よ――
 淡くかなしきもののふるなり
 紫陽花(あぢさゐ)いろのもののふるなり
 はてしなき並樹のかげを
 そうそうと風のふくなり

 時はたそがれ
 母よ 私の乳母車を押せ
 泣きぬれる夕陽にむかつて
 輪々(りんりん)と私の乳母車を押せ

 赤い総(ふさ)ある天鵞絨(びろおど)の帽子を
 つめたき額(ひたひ)にかむらせよ
 旅いそぐ鳥の列にも
 季節は空を渡るなり

 淡くかなしきもののふる
 紫陽花いろのもののふる道
 母よ 私は知つてゐる
 この道は遠く遠くはてしない道
  (「乳母車」全行・「青空」大正15年=1926年6月)


 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
  (「雪」全行・「青空」昭和2年3月)


 あはれ花びらながれ
 をみなごに花びらながれ
 をみなごしめやかに語らひあゆみ
 うららかの跫音(あしおと)空にながれ
 をりふしに瞳(ひとみ)をあげて
 翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
 み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
 廂々(ひさしひさし)に
 風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
 わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ
  (「甃(いし)のうへ」全行・「青空」大正15年7月)


鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つてゐた。芋が一つころがつてゐた。

そとでは桜の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自転車がしいていつた。
脊中を見せて、少女は藪を眺めてゐた。羽織の肩に、黒いリボンをとめて。
  (「村」全行・「青空」昭和2年6月)


 恐怖に澄んだ、その眼をぱつちりと見ひらいたまま、もう鹿は死んでゐた。無口な、理窟ぽい青年のやうな顔をして、木挽小屋の軒で、夕暮の糠雨に霑(ぬ)れてゐた。(その鹿を犬が噛み殺したのだ)。藍を含むだ淡墨いろの毛なみの、大腿骨のあたりの傷が、椿の花よりも紅い。ステッキのやうな脚をのばして、尻のあたりのぽつと白い毛が水を含むで、はぢらつてゐた。

 どこからか、葱の香りがひとすぢ流れてゐた。

 三椏(みつまた)の花が咲き、小屋の水車が大きく廻つてゐた。
  (「村」全行・「詩と詩論」昭和4年12月、原題「林」)


 太陽はまだ暗い倉庫に遮ぎられて、霜の置いた庭は紫いろにひろびろと冷めたい影の底にあつた。その朝私の拾つたものは凍死した一羽の鴉であつた。かたくなな翼を紡錘(つむ)の形にたたむで、灰色の瞼(まぶた)をとぢてゐた。それを抛げてみると、枯れた芝生に落ちてあつけない音をたてた。近づいて見ると、しづかに血を流してゐた。
 晴れてゆく空のどこかから、また鴉の啼くのが聞えた。
  (「庭」全行・「文學」昭和4年12月)


 さう、さうだ、笛の心は慰まない、如何なる歌の過剰にも、笛の心は慰まない、友よ、この笛を吹くな、この笛はもうならない。僕は、僕はもう疲れてしまつた、僕はもう、僕の歌を歌つてしまつた、この笛を吹くな、この笛はもうならない、――昨日の歌はどこへ行つたか? 追憶は帰つてこない! 春が来た、友よ、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

 昨日の歌はどこへ行つたか? 思出は帰つてこない! 昨日の恋はどこへ行つたか? やさしい少女は帰つてこない! 彼女はどこへ行つたか? 昨日の雲は帰つてこない! ああ、いづこの街の黄昏に、やさしい彼女の会話があるか、彼女の窓の黄昏に、いかなる会話の微笑があるか、僕は、僕はもう知らない、春が来た、友よ、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

 僕は今日、春浅い流れに沿つて、並樹の影を歩いたのだ、空は曇つてゐた、僕は、野景に、遠い畑や火見櫓(ひのみやぐら)を眺めたのだ、森の梢に鶫が光つて飛んでゐた。風に、高圧線が鳴つてゐた。それから、いろいろの悲しい憧憬れが、僕に、僕の頬に、少し泪(なみだ)を流したのだ、僕は、僕は疲れて帰つて来たのだ、僕はもう追憶の行衛を知らない、友よ、春が来た、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。
  (「僕は」全行・「文藝レビュー」昭和4年5月、「詩と詩論」昭和4年12月)


 「あそこの電線にあれ燕が
 ドレミハソラシドよ」

 ――毎日こんなにいいお天気だけれど、もうそろそろ私たちの出発も近づいた。午後の風は胸に冷めたいし、この頃の日ぐれの早さは、まるで空の遠くから切ない網を撒かれるやうだ。夕暮の林から蜩(ひぐらし)が、あの鋭い唱歌でかなかなかなかなと歌ふのを聞いてゐると、私は自分の居る場所が解らなくなつてなぜか泪(なみだ)が湧いてくる。
 ――それは毎年誰かの言ひだすことだ。風もなかつたのに、私は昨夜柿の実の落ちる音を聞いた。あんなに大きく見えた入道雲も、もうこの頃では日に日に小さくなつて、ちよつと山の上から覗いたかと思ふと、すぐまたどこかへ急いで消えてしまふ。
 ――私は昨夜稲妻を見ましたわ。稲妻を見たことがある? あれが風や野原をしらぬ間にこんなにつめたくするのでせう。これもそのとき見たのだけれど、夜でも空にはやはり雲があるのね。
 ――あんなちつちやな卵だつたのに、お前も大変もの知りになりましたね。
 ――さあみんな夜は早くから夢を見ないで深くお眠り、そして朝の楽しい心で、一日勇気を喪はずに風を切つて遊び廻らう。帰るのにまた旅は長いのだから。
 ――帰るといふのかしら、去年頃から、私はどうも解らなくなつてしまつた。幾度も海を渡つてゐるうちに、どちらの国で私が生れたのか、記憶がなくなつてしまつたから。
 ――どうか今年の海は、不意に空模様が変つて荒れたりなどしなければいいが。
 ――海つてどんなに大きいの、でも川の方が長いでせう?
 ――もし海の上で疲れてしまつたらどうすればいいのかしら。海は水ばかりなんでせう。そして空と同じやうに、どこにも休むところがないのでせう、横や前から強い風が吹いてきても。
 ――疲れてみんなからだんだん後に遅れて、ひとりぼつちになつてしまつたらどんなに悲しく淋しいだらうな。
 ――いや、心配しなくていいのだ。何も心配するには当らない。海をまだ知らないものは訳もなくそれを飛び越えてしまふのだ。その海がほんとに大きく思へるのは、それはまだお前たちではない。海の上でひとりぼつちになるのは、それはお前たちではないだらう……。けれども何も心配するには当らない。私たちは毎日こんなに楽しく暮してゐるのに、私たちの過ちからでなく起つてくることが、何でそんなに悲しいものか。今までも自然がさうすることは、さうなつてみれば、いつも予め怖れた心配とは随分様子の違つたものだつた。ああ、たとへ海の上でひとりぼつちになるにしても……。
  (「燕」全行・「詩と詩論」昭和3年9月)


 海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。

  約束はみんな壊れたね。

  海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。

  空には階段があるね。

 今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣(わか)れよう。床(ゆか)に私の足跡が、足跡に微かな塵が……、ああ哀れな私よ。

  僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。
  (「Enfance finie」全行・「詩と詩論」昭和6年4月)


 蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角(まちかど)に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
  (「郷愁」全行・「オルフェオン」昭和5年2月)


 確かにこれらは詩集『測量船』の佳什清唱で詩集の名を高め三好の名声をポピュラーにした名作群ですが、昭和初年のモダニズム詩人であり、フランス象徴主義詩を専攻し、ボードレールの散文詩集『巴里の憂鬱』の本邦初の全訳者であった三好の姿はほとんど反映されていません。先に選ばれたアンソロジー収録作で三好のモダニスト的側面を伝えているのは「Enfance finie」「郷愁」ですが、よりモダニズム的で尖鋭的なのは次に上げる諸作でしょう。


 この湖水で人が死んだのだ
 それであんなにたくさん舟が出てゐるのだ

 葦(あし)と藻草(もぐさ)の どこに死骸はかくれてしまつたのか
 それを見出した合図(あひづ)の笛はまだ鳴らない

 風が吹いて 水を切る艪(ろ)の音櫂(かい)の音
 風が吹いて 草の根や蟹の匂ひがする

 ああ誰かがそれを知つてゐるのか
 この湖水で夜明けに人が死んだのだと

 誰かがほんとに知つてゐるのか
 もうこんなに夜が来てしまつたのに
  (「湖水」全行・発表誌不詳、推定『測量船』初期)


 鏡に映る、この新しい夏帽子。林に蝉が啼いてゐる。私は椅子に腰を下ろす。私の靴は新しい。海が私を待つてゐる。

 私は汽車に乗るだらう、夜が来たら。
 私は山を越えるだらう、夜が明けたら。

 私は何を見るだらう。
 そして私は、何を思ふだらう。

 ほんとに私は、どこへ行くのだらう。

 窓に咲いたダーリア。窓から入つて来る蝶。私の眺めてゐる雲、高い雲。

 雲は風に送られ
 私は季節に送られ、

 私は犬を呼ぶ。私は口笛を吹いて、樹影に睡つてゐる犬を呼ぶ。私は犬の手を握る。ジャッキーよ、ブブルよ。――まあこんなに、蝉はどこにも啼いてゐる。

 私は急いで十字を切る、
 落葉の積つた胸の、小径の奥に。

 アヴェ・マリア、マリアさま、
 夜が来たら私は汽車に乗るのです、
 私はどこへ行くのでせう。

 私のハンカチは新しい。
 それに私の涙はもう古い。

 ――もう一度会ふ日はないか。
 ――もう一度会ふ日はないだらう。

 そして旅に出れば、知らない人ばかりを見、知らない海の音を聞くだらう。そしてもう誰にも会はないだらう。
  (「アヴェ・マリア」全行・「詩と詩論」昭和4年9月)


 山腹に朴(ほほ)の幹が白い。萱原に鴉の群が下りてゐる。鴉が私を見た。私は遠い山の、電柱の列が細く越えてゐるのを眺めた。私は山襞に隠れていつた。

 道は川に沿ひ、翳り易い日向に、鶺鴒(せきれい)が淡い黄色を流して飛ぶ。

 枯葉に音をたてる赤楝蛇(やまかがし)の、その心ままなる行衛。

 夕暮に私は雉を買つた。夜になつて、川を眺める窓を閉ざした。私は酒を酌んだ。水の音が窓から遠ざかつていつた。

 食膳の朱塗りの上に、私は一粒の散弾を落した。
  (「雉――安西冬衛君に」全行・「詩と詩論」昭和4年12月)


 花ばかりがこの世で私に美しい。
 窓に腰かけてゐる私の、ふとある時の私の純潔。

 私の膝。私の手足。(飛行機が林を越える。)
 ――それから私の秘密。

 秘密の花弁につつまれたあるひと時の私の純潔。
 私の上を雲が流れる。私は楽しい。私は悲しくない。

 しかしまた、やがて悲しみが私に帰つてくるだらう。
 私には私の悲しみを防ぐすべがない。

 私の悩みには理由がない。――それを私は知つてゐる。
 花ばかりがこの世で私に美しい。
  (「菊――北川冬彦君に」全行・「オルフェオン」昭和5年2月)


 倫理の矢に命(あた)つて殞(お)ちる倫理の小禽(ことり)。風景の上に忍耐されるそのフラット・スピン!

 小禽は叫ぶ。否、否、否。私は、私から堕ちる血を私の血とは認めない。否!

 しかし、倫理の矢に命つて殞ちる倫理の小禽よ!

   ★

 雲は私に告げる。――見よ! 見よ! 如何に私が常に変貌するところのもの、飛び去るところのものであるか。私は自らを否定する。実に私の宿命から、かく私は私の生命を旅行し、私自らの形象から絶えず私を追放する。否!…… 否!……

 それに私は答へる。――君は、追求することによつて建築し、建築することによつて移動する。ああ智慧と自由の、羨望に価する者よ! ただ、しかしながらその宿命を以て告げるところの、君や、常に敗北の影ある旅行者よ!
  (「十一月の視野に於て」全行・「文學(第一書房版)」昭和4年12月)


 これらはあまりアンソロジーには選ばれない作品ですが、まだ読者の取りつきやすい明快さを備えています。しかし詩集『測量船』の圧巻は静謐で透明感がありながらも陰鬱な抒情性と、かつ自虐的なナルシシズムに満ちた長い散文詩「鴉」「鳥語」「私と雪と」の3編です。詩集ではこの順に分散されていますが、発表順では「鳥語」昭和4年11月、「鴉」昭和4年12月、「私と雪と」昭和5年1月と3か月連続発表されており、明らかにこの3編は同一モチーフによる連作をなしています。以後も三好の散文詩の創作はありますが『測量船』の中のこの3編の系譜に属する詩は散文詩、行分け詩とも『測量船』の時期きりといえるので、それは三好がもっとも畏敬した親友、梶井基次郎の夭逝(昭和7年3月)によって張りを失い第2詩集『南窗集』(昭和7年8月刊)からの4行詩詩集三部作(『間花集』昭和9年7月刊、『山果集』昭和10年11月刊)の間に途絶えて、または断念してしまった感覚かもしれません。
 しかもこれら『測量船』のピークをなしている長い散文詩が密度が高くエモーショナルで鮮烈であるとしても果たして良い詩と言えるかというと、「春の岬」や「雪」、「乳母車」や「甃のうへ」、「Enfance finie」や「郷愁」のように文句なしに良い詩とは言えない。たぶん90年近い歳月を経ていまだに日本の、日本語の詩になじめない発想を含んでいる。『測量船』の大半の詩がその後の現代詩の規範になっているので何となくわかった気になってしまうが、実は『測量船』はまだ真価のわからない詩集で、萩原朔太郎の詩の正統な後継でもなければ昭和初年のモダニズムの代表的詩集でもなく、明治・大正以来の近代抒情詩のモダニズムを経た主知的刷新でもない、三好本人が意図していたより混沌とした不統一な質感があちこちに破綻一歩手前で押し込められている詩集なのではないか、と思われるのです。三好の『測量船』以後晩年までの詩業は先の数回で見渡してきました。再び詩集『測量船』の圧巻にして特異点でもある「鳥語」「鴉」「私と雪と」をご紹介して結びにしたいと思います。


 私の窓に吊された白い鸚鵡は、その片脚を古い鎖で繋がれた金環(かなわ)のもうすつかり錆びた円周を終日噛りながら、時としてふと、何か気紛れな遠い方角に空虚なものを感じたやうに、いつもきまつて同じ一つの言葉を叫ぶ。

 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 実は、それは甲高く発音される仏蘭西語で、J'ai tue'……と云ふだけの、ほんの単純な言葉だから、こんな風に訳したのではすつかり私の空想になつてしまふのである。しかしまたこの私の空想にも理由がある。
 最初私は、私の工夫から試みにそれを J'ai tue'…… le temps と補つて見て、その下で、毎日それを気にもしないで、秩序のない私の読書を続けてゐた。つまり、

 ――キノフモケフモワタシハムダニヒヲスゴス。

 と、さう云つて、彼女は私の窓で無邪気に頸をかしげてゐたのである。そしてそれから後、ある日ふとした会話の機みから初めて、その言葉の不吉な意味を私に暗示したのは、この家の痩せて背の高い女中のローズであつた。薔薇(ローズ)と呼ばれる年とつたその女中は、今私のゐるここの一家の人人と共に、永い年月を、長崎から神戸を経て、こんな風に東京の郊外で住まふやうになるまで、彼女の運命と時間を、主家の住居の一隅でいつも正直に過ごして来たものらしい。
「……けれど、どうも変ですわね。うちの人達はみんな、それを聞くのを、きつと厭やなのに違ひありません。」
 私は、それに就てはもう何も彼女から聞きたくなかつた。ただ新しく、云はばこの家族の隙間に、一室を借りただけの私にとつて、知らぬ他国から遠く移つて来た人達の、その瑣々とした、歴史の永く変遷した昔の出来事の詳しい穿鑿(せんさく)などは、も早や趣味としても好ましくなかつたのである。何故なら、凡そどのやうな事の真実も、所詮は自由なイデエの、私の空想よりも遥かに無力であつたから。

 ―― J'ai tue'……ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。J'ai tue'…… J'ai tue'……。

 それにしても、しかしいつたい何のために、誰が誰を殺したのだらう? それも何時? どこで? どんな風にして? ――よろしい、消え去つた昔のことはどちらでもいい! それよりも先づ第一に、その言葉を信ずるなら、この金環に繋がれてゐる鳥が誰かを殺したのに相違ない。そこで一瞬の間に、私の想像がすぐに奇怪なデサンの織布(しよくふ)を織りあげる。たとへば私はここの主婦にかう云つて尋ねるだらう。
 ――答へて下さい、きつとかうなんでせう。昔、あなたの家のお祖父さまが、あなたの良人(マリ)に仰しやつたのです。どうかお前は、私がゐなくなつたら、もうこの国には住まないで、遠い東の、日本の国へでも行つて暮してお呉れ、この私はもうそんな遠い旅行に耐へられない年齢としになつたが、しかしお前は行つてお呉れ。どうか、それの詳しい理由は訊かないで、私の唯一の頼みだから、もうすぐ私が死んでしまつたなら、早く、私のこの願ひを実行してお呉れ。と、きつとそんな風に仰しやつたのです。あなたの良人マリに。
 ――さうですわ。なくなつた良人のジャンが、いつかそんなことを私に教へました。あなたもまた、それをあのジャンからいつかお聞きになつたのでせうか?
 ――いいえ、私はあなたのジャンを知りません。……そして、それからある日のこと、お祖父さまは朝のベッドの上で、誰も知らない間に冷めたくなつておしまひになつたのです。部屋の中には、何も平生と少しも変つたところがありませんでした。それにたつた一つお祖父さまの枕もとに吊されてあつたあの生きものの鸚鵡だけが、さうでせう、気がついて見ればその朝から、あんなに不吉なことを叫び始めたのです。それでその当座は、どうかしてあれを捨ててしまひたいとも思つて見たのでせうが、破れ靴でさへ捨て場に困るものを、まして生きてゐる鳥の捨て場所もないし、鳥の言葉が単純に、その意味の通り、お祖父さまの生涯を早めたとは、たとへ子供にだつて、素直にさうと信じらるべきことでもなし、その上あんなにお祖父さまは、永い年月の間あの鸚鵡を可愛がつてゐらつしやつたのだから、それは今になつて見れば、あのお祖父さまの思出の、生き残つてゐる唯一のものなんだし、それをこの家から失くすることは誰にも出来ないのでせう。
 ――さうです。それは事実と少しも違つて居りません。あなたの仰しやることは、私にとつても、この家族の誰にとつても、決して嬉しいことではありませんが、私は正直に答へませう。
 たとへこの会話が、私の想像の上であらうとも、私はもうここで、それを打切らなければならない礼儀を知つてゐる。
 事実はあまりに明瞭だ。夜明けに死んだジャンの父は、恐らくその生涯の半ばよりも永い間、誰にも秘密にした言葉を胸に抱いて、そのために不思議なほど無口な生涯を続けてゐたものであらう。そして幾度となく不眠の夜を過ごしたものに違ひない。実に、彼がこの世を去つた日の、その明方に到るまで、彼は予感の、それが最後の夜となりさうなあはれな恐怖に戦きながら、遥かに遠く過ぎ去つた昔の日の、制しがたかつた情熱の、激しい悔恨を繰り返してゐたのに違ひない。そして、その憂鬱の堆積の、一夜の疲労と入り混つて、僅かに慰められたやうに感じられたその明方に、もう窓硝子の白くなつてゐるのに気づかず、ふと彼は、追憶の壊れ落ちる胸から、祈りのやうに、吐息のやうに、心の忘れられない言葉を呟いたのである。すると枕もとから、まだ眠つてゐる筈のこの鸚鵡が、はつきりと、快活な夜明けの声で、その言葉を再び彼の耳に繰り返したのである。

 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 然り、今度は鳥の言葉が彼を殺した。そしてこの鳥はそれから後、彼女のかたく繋がれた運命の、もうすつかり錆びた金環の円周の中で、永くその言葉を叫び続けてゐる。私は日に幾度となく、この、嘗ては彼の悔恨であり、今はまた彼女の悔恨であるところの、さう思へば不思議に懐かしい言葉を聞くのである。

 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。

 この言葉は、しかしいつとなくそれを聞く私の心に深く滲み入り、日に日に私の記憶と入り混つて了つた。そしてやがてもう今では、嘗て昔の日に、私が人を殺したのだと、さう云つて、誰かが私の上に罪を露(あば)いたとしても、私は恐らくそれを否定しないであらう。今日も、私の無秩序な読書と、窓に咲き誇るダーリアの上で、鳥はその同じ言葉を繰り返してゐるのである。――君も私の部屋に来て、この鳥の言葉を聞くがいい。もし君にして、人を殺した記憶がなく、なほかつその遠い悔痕が欲しいなら。
  (「鳥語」全行・「詩神」昭和4年11月)


 風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯しない野原をさまようてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、そしてまたその荒まじい叫び声をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黒い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。

  ――とまれ!

 私は立ちどまつて周囲に声のありかを探した。私は恐怖を感じた。

  ――お前の着物を脱げ!

 恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、余儀なくその命令の言葉に従つた。するとその声はなほ冷やかに、

  ――裸になれ! その上衣を拾つて着よ!

 と、もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。私は惨めな姿に上衣を羽織つて風の中に曝されてゐた。私の心は敗北に用意をした。

  ――飛べ!

 しかし何といふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧みた。手は長い翼になつて両腋に畳まれ、鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた服従の用意をした。

  ――飛べ!

 私は促されて土を蹴つた。私の心は急に怒りに満ち溢れ、鋭い悲哀に貫かれて、ただひたすらにこの屈辱の地をあとに、あてもなく一直線に翔(かけ)つていつた。感情が感情に鞭うち、意志が意志に鞭うちながら――。私は永い時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの惨めな敗北からは遠く飛び去つて、翼には疲労を感じ、私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みてゐた。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗な命令の声ではなかつたか。

  ――啼け!

 おお、今こそ私は啼くであらう。

  ――啼け!
  ――よろしい、私は啼く。

 そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は啼いてゐた。

  ――ああ、ああ、ああ、ああ、
  ――ああ、ああ、ああ、ああ、

 風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。冷めたいものがしきりに頬を流れてゐた。
  (「鴉」全行・「詩と詩論」昭和4年12月)


 今日私をして、なほ口笛を吹かせるのは何だらう?
 古い魅力がまた私を誘つた。私は靴を穿いて、壁から銃を下ろした。私は栖居(すまひ)を出た。折から雪が、わづかに、眩しくもつれて、はや遅い午後を降り重ねてゐた。犬は、しかし思ひ直してまた鎖にとめた。「私は一人で行かう。」そして雪こそ、霏々(ひひ)として織るその軽い織ものから、私に路を教へた。私はそれに従つた、――寧ろいさんで。

 私は林に入つた。はたと、続いて落ちる枯枝の音と鳥の羽搏きと。樹立の垂直はどこまでも重なりあつて、互に隠しあひ、それが冷めたく溜息つく雰囲気で私を支配した。私から何ものかが喪はれた。(ここには、生命があつて灯火がない。)私はそれを好んだ。恐らく私は疲れてゐたから。
 やがて日没の空が見え、林がきれた。そこに時刻の波紋が現れた。私は静かに銃器に装填した。(どこかで雪が落ちた。)私は額をあげ、眼深くした帽子の庇(ひさし)を反らし、樹立にぐつと肩を寄せた。射程が目測され、私の推測が疑ひのない一点の上に結ばれた。床尾の金具が、冷めたく肩に滲みた。私は息を殺した。緊張の中に鋼(はがね)のやうな倦怠が味はれた。そして微かな最後の契機を、ただ軽く食指が残したとき、――然り、獲物はそこに現れた。(しかも、この透視の瞬間にあつて、なほ私が如何に無智な者であつただらう!)獲物の歩並(あしなみ)は注視され、引鉄(ひきがね)が落ちた。泥とともに浅い雪が飛沫をあげた。硫黄の香りが流れた。この素早い嗅覚の現在が、まるで記憶の、漠とした遠い過去のやうに思はれた。
 私は獲物に向つて進んでいつた。しかし、それも狩猟者の喜びでではなかつた。獲物の野猪(しし)は、日暮(にちぼ)に黝(くろ)ずんだ肢体をなほ逞(たく)ましく横たへてゐた。その下で、流れ出る血が泥に吸はれてゐた。ふと、私は促されるやうに背後を顧みた。そして私は総(すべ)てを了解した!
 私の立つてゐた樹立の蔭に、今また私と同じ人影が、黄昏から彼の推測の一点に私を切り離して、狙撃者の眼深にした帽子の庇を反らし、私と同じ外套の襟を立て、その息を殺した照準の中に、既に私を閉ぢこめてゐた。
「よろしい、もはや! 私は斃れるだらう! まるで何かの小説の中の……」
 ――早や、私は横ざまに打ち倒れた。銃声が轟いた……、記憶の遠い谺に。
 そして、しかし今一度意識が私に帰つてきた。私は力めて、ただ眼を強く見開いた。視覚の最後の印象に、恰もそこに私自身を見るやうに、暮色の曇り空を凝視した。その凝視を続けようとした。しかし間もなく瞼は落ちた。私は傷ついて私の獲物の上に折り重なつてゐた。(あの狙撃者が、私に近づいて来るだらう。彼は、あらゆる点で私と一致してゐたから。)そして私の下の野獣が、もはやその刺(とげ)に満ちた死屍が、麻酔に入らうとする私にとつての、優しい魅力であつた。その時私は聴いたのである。私の下の死屍、寧ろ私と同じい静物から、それの中に囁く声を、「私と雪と……」
  (「私と雪と」全行・「文學」昭和5年1月)


(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)

Viewing all articles
Browse latest Browse all 3141

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>