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映画日記2018年1月8日・9日/アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)のほぼ全作品(18)

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 あまりに当たり前で普段は意識しないことですが、劇映画・ドキュメンタリーを問わず映画はたいがい数十~数百のカットを編集して作られています。最近の長編アニメーション映画では2時間の長さで2,000カットを超えることもあるようですが、2時間の映画の場合実写映画では800~1,000カットが平均値でしょう。1時間は3,600秒ですからここぞという箇所ではめまぐるしくカットが割られますが、緩急のめりはりをつけるならば数十秒~数分のカットもあれば1秒以下の瞬間的なカットもある、というのがスクリーン上映用映画のカット数です(テレビドラマでは短いカット割りはあわただしいので、もっと少なくなります)。こうしたカット割りによる映画編集はモンタージュと呼ばれ、世界初の劇映画に位置づけられる、公開当時大ヒットした10分弱の短編西部劇「大列車強盗」(1903年)に始まるとされます。監督のエドウィン・S・ポーター(1869-1941)はカット割りの概念がなかった当時、列車強盗とその逮捕にいたる劇を14のカットに分割撮影し、1編の短編劇映画に編集しました。映画はその後長編化していきますが、まだ演劇や紙芝居の次元で1場面1カットが原則だったものを1場面でロング、ミドル、アップ、クローズアップ、人物や対象物の切り返しなどさまざまにカットを割った撮影から編集してダイナミックな効果を上げ、体系的な映像のモンタージュ技法を作り上げたのが「映画の父」と呼ばれるD・W・グリフィス(1875-1948)です。1909年から短編映画の監督になったグリフィスは中短編でさまざまなモンタージュを駆使して映画技法の基礎を築き、アメリカ映画の長編化が始まる前年の1912年頃には技法を完成し、長編第2作の3時間の大作『国民の創生』'15でモンタージュ技法の集大成と言うべき作品を生み出しました。同作はサイレント時代のアメリカの長編劇映画で歴代3位以内に入る記録的大ヒットになりましたが、さらにグリフィスは『国民の創生』の興行収入と前借りした予算すべてをつぎ込んで人類史2,600年を古代バビロン、ローマ帝国、中世フランス、現代アメリカの4つの平行したドラマで構成した野心作『イントレランス』'16で大群衆を写すためのクレーン撮影の発明(日本の映画用語でクレーン撮影を「イントレ」と呼ぶのは同作によるものです)、気球による空中撮影まで敢行し、4つのドラマ用に実物大の巨大野外セットを建設し、時空を超えたモンタージュまで駆使して当時の観客の理解を超える超大作を作り上げ、映画史上最大の大赤字を記録してしまいます。グリフィスの余生は『イントレランス』の赤字返済のために費やされたとはいえサイレント時代にさらに多くの傑作佳作を送り出しますが、映画のトーキー化とともに映画監督としてのキャリアは断たれてしまいます。ですが『国民の創生』と『イントレランス』の2作はグリフィス以後の映画監督の教科書になり、グリフィスの確立したモンタージュ技法はトーキー以後の映画にも映画の基本文法として通用するもので、今日でもそれは変わらない、というよりもグリフィスの発明した映像技法によって作られているものが「映画」と呼ばれ続けていることになるわけです。
 以上を踏まえた上でアマチュア映画でも実験映画でもなく商業映画のジャンルで、世界の長編劇映画史上唯一の、驚愕の前人未踏の全編1カット(!)長編劇映画に挑んだのがヒッチコックであり、それがヒッチコックが監督デビュー以来初めて自分のプロダクションを設立してフリーの映画監督になり、初のカラー作品でもあった『ロープ』なのは特筆すべきことでしょう。その他多くの点で初めてづくしのこの作品は正月にボケッと見ていても抜群に面白くもあり、ヒッチコック最大の問題作でありながらこれを嫌う人はほとんどいない世紀の珍品です。少なくとも『ロープ』の前後作『パラダイン夫人の恋』『山羊座のもとに』よりは各段に高い評価を受けているほどで、ではハリウッド進出後のヒッチコック作品中1、2を争う不人気作品『山羊座のもとに』がそんなに駄目かというと失敗作には失敗作なりの味があり、今回もまた感想文に四苦八苦することになりそうな予感がします。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一・蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。

●1月8日(月)
『ロープ』Rope (米トランスアトランティック・ピクチャーズ=WB'48)*80min, Technicolor; 日本公開昭和37年(1962年)10月12日、昭和59年(1984年)5月

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○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 英国の劇作家で「ガス燈」を書いたパトリック・ハミルトンの戯曲“Rope's end”を俳優・作家・監督であるヒューム・クローニンが脚色し、アーサー・ローレンツが脚本化したサスペンスもの。監督は「見知らぬ乗客」「サイコ」のアルフレッド・ヒッチコック。撮影は「疑惑の影」のジョセフ・ヴァレンタインと、「クオ・ヴァディス」のウィリアム・V・スコール。レオ・F・フォーブステインが音楽を担当している。出演者は「裏窓」「めまい」「リバティ・バランスを射った男」のジェームズ・スチュアート、「見知らぬ乗客」「夢去りぬ」のファーリー・グレンジャー、「謎の大陸アトランティス」やTV「ヒッチコック劇場」のジョン・ドール、「断崖」「気球船探検」のサー・セドリック・ハードウィック、「美しき被告」のダグラス・ディック、コンスタンス・コリアらヒッチコック作品に出ている者が多い。製作は「私は告白する」以後TVを手がけているシドニー・L・バーンステイン。なお事件の実際の時間と映画の時間とがぴったり同じになっている。
○あらすじ(同上) 大きな窓からマンハッタンの摩天楼が一目で見渡せるニューヨークのあるアパートの一室、殺人は夕方、この部屋で行われた。フィリップ(ファーリー・グレンジャー)とブラントン(ジョン・ドール)という大学を出たばかりの青年2人が同級生だったデイビッド(ディック・ホーガン)を絞め殺して、死体を衣装箱に入れたのだ。動機など別にない。ただ自分たちがずば抜けて人より秀れていることを試したかったのだ。2人はもっとスリルを味わうために被害者の父(サー・セドリック・ハードウィック)、恋人(ジョアン・チャンドラー)、被害者の恋仇だったケネス(ダグラス・ディック)、伯母(コンスタンス・コリア)、青年たちの先生だった大学教授(ジェームズ・スチュアート)を招いて晩餐会を催す。死体入りの衣装箱の上にごちそうを並べて皆に食べさせたり、殺人に使ったロープで幾冊かの本を縛って父親に贈ったりして、腹の中で優越感を味わっていた。時間が経つにつれて、フィリップは犯した罪の恐ろしさに次第に冷静さを失っていくが、ブランドンは鋼鉄のような神経の持ち主で、教授がかつて世の中には法律など超越した超人がいてもいいといった言葉を思い出し、彼は死骸を教授に見せてやりたいというヒロイックな衝動にかられる。2人の異常さに感づいた教授は、偶然被害者の帽子を見つけて、殺人発覚の糸口をつかむ。一旦外に出た教授は煙草入れを忘れたと電話してから、再び部屋を訪れたが、フィリップはすっかりとり乱していた。教授に箱を開けて見せた時、日頃から説いていた殺人とは現実に人を殺すことではなく、より抽象的、学究的なものだったことを2人は発見するのだった。逆上したフィリップの拳銃をとり上げた教授は、空に向けてそれを発砲した。救急車がかけつけ、2人は法律で裁かれることになる。

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 原作戯曲は実際の殺人事件に基づいているそうですから題材としてはかなりの際物だったわけです。殺人犯の青年2人が同性愛関係にあったことも世間を騒がせたそうで、当時の倫理規定からか映画では暗示にとどめている程度ですが、公開時の観客には周知だったので特に強調するまでもなかったとも言えます。前書きの通り本作はヒッチコックが独立プロを設立した第1作かつ初のカラー作品で、初めてジェームズ・スチュアートを主演に迎えた作品でもあり、女性の登場人物もいますが初期の『ダウンヒル(下り坂)』'27以来のヒロインのいない映画で、その点でも『ダウンヒル(下り坂)』より徹底しており、西部劇を含む時代物では稀にありますが現代劇ではそんな作品は滅多にありませんからヒロイン不在の映画としても初の試みになります。音楽もタイトルバックのみですが、これは遭難映画『救命艇』で前例があります。またポスターにも見られるように、本作の最大の売りは2にジェームズ・スチュアート主演作、1にヒッチコック作品であることで、ついに監督の顔と名前がポスターにまで主演俳優と同格以上にでかでかと出るようになり、また犯罪サスペンス映画でありながらアート系映画のようなイメージ・ポスターまで作られて、ハイブロウな映画観客向けの作品と強調するような広告戦略が採られたのもヒッチコック映画で初めてのことだったでしょう。はなから通好みの観客に挑戦するような作品と謳うような大胆なプロモーションがなされていたことを雄弁に語るポスターですが、サスペンス映画はハッタリが勝負ならばこのハッタリは大したものです。しかも映画の内容は、意外なほどに観やすく構えずに楽しめるものなのです。
 現代ならばHD撮影で撮ろうと思えばいくらでも長時間のカットが撮れますが、35mmフィルムのリールがせいぜい10分~12分が限界だった当時、ヒッチコックが考えついたのはリールの切れ目が動きまわるカメラが壁や人物の背中を写した箇所で次のリールを同じ映像から始める、という撮影法でした。「10分間撮影」と呼ばれたこの方法なら、80分の本作は8リールの長回しを連続させて作り上げることができます(実際には高層マンションの外景からカメラが高い階の一室の窓に近づいていき、カットが室内に切り替わって本編が始まりますから、厳密にはイントロをなす外景のカットと、1カットに見せかけたドラマ本編の2カットからなります)。本作の手法を低予算映画のための方便(映画全編ではありませんが、基本的に1シーン1カットでセットとフィルム、撮影日数分の人件費を削減する方法)として活用したのがベルイマンの『牢獄』'49で、『ロープ』の翌年にさっそく影響を受けた映画が現れたのは当時いかに本作が同業者である映画監督たちの注目を集めたかを物語るものです。一方1シーン1カットの技法は戦前すでに溝口健二に見られ、戦後はイタリアのロッセリーニ、アントニオーニらが溝口ともヒッチコックともベルイマンとも関係なくたどり着いていた手法でした。大島渚の『日本の夜と霧』'60が107分43カット、ポーランドのスコリモフスキの『不戦勝』'65が70分17カット、という極端な例もありますが、影響関係はともかくこの手法は映画から時間の省略法を可能な限り排除し、映画に含まれたカットは基本的に現実の時間進行をそのまま切り取ってきたものになる、という効果が生まれます。映画全編1カット(冒頭の外景も時間内に含む)の『ロープ』では観客は80分ノンストップで省略なしのドラマに立ち会うことになり、ベルイマンは演劇的解釈で自己の手法としましたがヒッチコックの場合はカメラが動く動く動く、登場人物に含まれない第3の人物の視点のように、まるで幽霊のように、冒頭の殺人から結末のスチュワートがピストルをぶっ飛ばしてパトカーを呼ぶエンディングまで室内を浮遊している非人称の視点となっています。
 おそらくそこまではヒッチコックは計算しておらず、映画全編をドラマの経過時間と一致させる着想から全編1カットの発想に飛躍したものと思われます。出来上がったのは幽霊カメラの視点という計算していたらできなかったような奇妙な映像による長編劇映画でした。これを誰だかわからない主観ショットに置き換えると、後続のホラー映画にも与えた影響は絶大です。一人称視点によるコンピューター・ゲームの原点でもあるわけで、映画史上ではムルナウの『最後の人』'24(これはヒッチコックがもっとも影響を受けた映画でもあります)~『市民ケーン』'41(これはヒッチコックの非嫡出子というべきオーソン・ウェルズ作品でした)~『ロープ』につながる流れを見れば本作の先駆性と、意表を突く面白さにも納得がいくような気がします。原作戯曲自体はブールジェの『弟子』1889(心理学研究のために少女を誘惑して自殺に追い込んだ学生とその師である学者の話)を俗流ニーチェ解釈=ナチス的優生思想にかぶれた青年たちとその師の哲学教授(スチュワート)に置き換えて犯罪サスペンス化した、今どきの青年マンガかアニメのようなものですが、ヒッチコックがこの手法を試してみるにはそんな題材の戯曲でも十分、むしろ通常の映画技法では映画になどなりようがなかった(できないではないが、大して面白くならない)だろうと思われるのは痛快な皮肉を感じます。'40年代のヒッチコック作品はユーモアが稀薄なのが難点と言われますが、『救命艇』や本作のような極端な実験的手法の作品にはかえって強烈なブラック・ユーモアがあり、それが一定の古さ以上に作品を古びないものにしているのも実験の幸徳かもしれません。そしてもちろん実験にもしっかりと娯楽性の裏打ちがあるのがすでにヒッチコックの定評になっていたのです。

●1月9日(火)
『山羊座のもとに』Under Capricorn (英米トランスアトランティック・ピクチャーズ=WB'49)*117min, Technicolor; 日本未公開(テレビ放映、映像ソフト発売)

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○製作=シドニー・バーンスタイン、アルフレッド・ヒッチコック/原作(小説)=ヘレン・シンプソン/脚色=ジェームズ・ブライディ/脚本=ヒューム・クローニン/撮影=ジャック・カーディフ、ポール・ビースン、イアン・クレイグ、デイヴィッド・マクネイリー、ジャック・ヘイスト/美術=トーマス・N・モラハン/衣裳=ロジャー・ファース/音楽=リチャード・アディンセル/編集=A・S・ベーテス/カラー・コンサルタント=ナタリー・カルマス、ジョーン・ブリッジ
○あらすじ 1830年代のイギリス領オーストラリアにオーストラリア提督(セシル・パーカー)の甥でアイルランド貴族の青年アデア(マイケル・ワイルディング)が新天地を求めてやって来た。アデアは土地の名士フラスキー(ジョゼフ・コットン)の妻ヘンリエッタ(イングリッド・バーグマン)の幼なじみだったが、フラスキーはかつて貴族のヘンリエッタの家の馬丁で、ヘンリエッタとの駆け落ちの際に正当防衛でヘンリエッタの兄を殺害した容疑でオーストラリアに流刑になった人物だった。7年の刑期を終えたフラスキーは財をなしてヘンリエッタと結婚していたが社交界からは孤立し、ヘンリエッタは酒びたりの毎日を送って家政婦ミリー(マーガレット・レイトン)を始めとする使用人たちにすら蔑まれ、フラスキー邸はミリーが仕切っている状態だった。アデアは提督や検事総長(デニス・オディア)の反対を無視してフラスキー夫妻と交際し、ヘンリエッタを立ち直らせようとする。家政婦ミリーはアデアに敵意を抱き、フラスキーにアデアとヘンリエッタの不貞を囁く。アデアは一計を策して提督のパーティーにフラスキー夫妻を招待するが、フラスキーは遠慮してアデアに妻のエスコートを頼む。社交パーティーでヘンリエッタの美貌は周囲を圧倒するが、ミリーに妻とアデアの不貞の現場を見たと嘘の告げ口をされて激昂したフラスキーが乱入しヘンリエッタを連れて帰る。妻を信じなくなったフラスキーに、ますますヘンリエッタの酒量は増え、ミリーは酒に少しずつ睡眠薬を盛りヘンリエッタを混迷状態に追い込む。アデアの来訪にヘンリエッタはついに感情を抑えきれず、駆け落ちの時に兄を撃ったのは自分であり、フラスキーは身代わりに罪をかぶって流刑になったと打ち明ける。そこにフラスキーが現れ、アデアともみ合っているうちに拳銃が暴発してアデアは瀕死の重傷を負う。フラスキーは投獄され、故意の事件なら再犯で死刑が確定する。ヘンリエッタは過去の事件の真相を提督に訴え、アデアの回復と証言までフラスキーは保釈される。フラスキーとは和解できないままヘンリエッタは幻覚すら見るようになるが、寝たふりをしている間にミリーが入ってきて、ベッドの上のミイラの首を掃除用バスケットに隠し酒に大量の睡眠薬を混ぜたのに気づく。ヘンリエッタは夫の助けを呼び、フラスキーもミリーの企みに気づく。ミリーは邸から去り、回復したアデアは事件を暴発事故と証言してアイルランドに帰国し、フラスキー夫妻も許されてアイルランドに帰国する許可がおりる。

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 まだあったヒッチコックの時代劇映画、ただし長編劇映画全53作のうち第16作『ウィンナー・ワルツ』'33、第23作『巌窟の野獣』'39、そして最後の時代劇が第35作の本作『山羊座のもとに』(ダブル・ミーニングで「南回帰線の下」つまりオーストラリアと、「運命の支配下で」ただし山羊座の運命がどんなものかは千差万別だと思いますが)ですから何でも撮らされた同時代の映画監督の中ではヒッチコックはまだしもでしょう。これがヒッチコックの14歳年上の師匠フリッツ・ラングなどは近未来SFからファミリー向け秘境冒険映画、官能サスペンスから心理スリラー、社会派犯罪映画、スパイ映画、戦争映画、ファンタジー・コメディ、西部劇、海洋映画、マフィア映画、メロドラマ、まだまだ分類できますが1910年代末~1960年までに考え得る娯楽映画のジャンルのうちミュージカルと伝記映画以外のほとんどを手がけています。それでいて何を撮ってもフリッツ・ラングだったのですから器用なんだか不器用なんだかわからない巨匠でしたが、ヒッチコックの時代劇映画3作は批評家からも観客からも今日ヒッチコック作品中の汚点みたいなあつかいを受けています。『巌窟の野獣』はヒット作になったそうですが製作・主演の名優チャールズ・ロートンの作品だ、とヒッチコックは嫌っており(嫌うだけあってロートンとこれが初の主演ヒロイン役のモーリン・オハラの魅力でヒットも当然の爽快娯楽作品です)、ワルツ王シュトラウス父子の脚色過多の疑似伝記映画『ウィンナー・ワルツ』はヒッチコック自身も認めるキャリアのどん底で(しかし我慢して観ると後から愛着が湧いてくるような不憫な魅力があります)、本作とは事情が違います。当時ハリウッド最高の人気女優イングリッド・バーグマンの出演交渉に成功したヒッチコックは舞い上がってバーグマン向けの時代メロドラマの企画を自分から立てて、ヒット確実と見こんでアメリカ=イギリス合作で全編イギリス撮影の絢爛豪華大作に仕上げ、ハリウッド女優中トップクラスのバーグマンのギャラと同等のギャラを自分の監督料にも割り当てる強気な大予算を組んで製作に望みました。結果映画は300万ドルの製作費に対して150万ドルの興収までしか届かず、ヒッチコック映画史上最悪に近い150万ドルの赤字作品になってしまいます。
 バーグマン主演のヒッチコック作品『白い恐怖』が製作費170万ドルに対して700万ドルのヒット、『汚名』が製作費240万ドルに対して715万ドル(国内485万ドル・海外230万ドル)のヒット、独立プロ第1作の前作『ロープ』でさえ製作費150万ドルに対して実験的な手法にもかかわらず220万ドルと帳尻の合う成果を収めたのに『山羊座のもとに』がいかに惨敗だったかがわかります。この時期のヒッチコックの失敗作とされる、やはり評価が低く汚点とまで言われる『パラダイン夫人の恋』が7大スター競演で製作費426万ドルに対して興収210万ドル(セルズニックとの契約打ち切り)、『舞台恐怖症』'50が興収101万ドル(製作費不明)ですから戦後のヒッチコック映画は『白い恐怖』『汚名』『パラダイン夫人の恋』『ロープ』『山羊座のもとに』『舞台恐怖症』(たぶん公表をはばかる低予算製作)とジリ貧になっていったのがわかる。『ロープ』はまだしもだったことになります。『舞台恐怖症』の次の『見知らぬ乗客』'51(製作費120万ドル、興収700万ドル)がヒッチコックの復活作と呼ばれた理由も納得します。景気の悪い金勘定の話ばかりになりましたが、本作はかつてイギリス時代のほとんどの作品を撮ったエルストリー撮影所(戦後にはアメリカのMGMが買収したアメリカ資本の撮影所になっていました)で、バーグマンとジョゼフ・コットン以外のキャストはイギリス人俳優、スタッフもエルストリー撮影所のイギリス人スタッフを使って撮影中は良い気分だったでしょう。製作費のうち100万ドルはバーグマンのギャラ(もう100万ドルはヒッチコックのギャラ)だったでしょうしハリウッドより映画自体の製作費は安くついたはずです。映画の内容とムードは『レベッカ』と『汚名』を混ぜてスリラー要素を抜き時代劇にしたような感じで、コットンの役柄は悪役ではないのですがローレンス・オリヴィエが演ればともかくコットンが演ると陰鬱陰険で、マイケル・ワイルディングもそれほど色男には見えませんが、この作品の展開ではバーグマンがワイルディングに転ぶ話にしか見えないのです。コットンの意外に粗野な面を生かしたキャスティングとも言えますが、設定からしても風貌からしてもコットンはもっと知的でなければおかしいので行動に説得力がなく、後半の展開はかなり無理があります。最後の最後になっていきなりそれまでのあれこれが一気に解決するのは『パラダイン夫人~』、本作、『舞台恐怖症』共通の難点で、これが決まればヒッチコック'30年代後半~'40年代前半、'50年代全般の成功作になるのですが『パラダイン夫人~』から『舞台恐怖症』までの4作は『ロープ』以外はどうもいけない。『ロープ』は特殊な実験的手法だったからこそ何とかどうにかなったかのような気がします。
 バーグマンの起用で浮かれてしまった以外にヒッチコックが失敗としているのが『ロープ』で味をしめた長回しで、本作はシーンごと、シーン内でもカットを割ってある映画ですが、ここぞという見せ場を作りたい時には突然5分前後続く長回しになります。玄関入って広間を抜けて階段上がって廊下を進んでドアを開けて部屋の中へ入り窓まで歩いて部屋を半周しぐるりと後ろを振り返る(またはその逆の順で出て行く)と映画監督なら誰もがやりたいが普通は理性が邪魔してやらないようなことを臆面もなくやってのけ、しかも基本的にはきちんとカットを割った映画なのでリズムを崩していることおびただしく、それなのに本作の見ものは長回しのカットにあるので映画のテンポが崩れていても長回しが出てくるとハッとなる、というより俳優の演技や映画の筋書きよりも映像手法、というより撮影技術に注意が向いてしまう。カメラマンが5人もクレジットされているのも何だか映像の不統一の原因のような気がしてきます。後の『私は告白する』'53の撮影でヒッチコックは主演俳優の希望で主演のモンゴメリー・クリフト自身の演技プランのヴァージョンとヒッチコック演出のヴァージョンの2通り撮影したそうですが、今回のバーグマンでも似た事態になっていたのではないか。本作最高のシーンはバーグマンがワイルディングに過去の秘密を告白する長い長い長回しを含むシークエンスですが、ここのバーグマンは凄いことになっています。入魂どころではない憑き物のついたような演技で、これはさすがにカットの割りようがなく長回しでバーグマンの告白が撮されるだけの必然性と説得力がある。ただしその説得力はバーグマンだけのものなので、聞き手である色男もどきの青二才のワイルディングや、告白の中で語られるコットンの過去の真実性にまで届くほど映画が行き届いていない。自分の告白自体に酔っているバーグマンの病的な妄想の中の過去、という迫真性でしかないのです。コットンはコットンで流刑者から成り上がって卑屈な根性が抜けない男のキャラクターを演じて乱れはないし、青二才色男のワイルディングもまあよくあるタイプの善良な自惚れ屋、善良だけど自惚れ屋でこれもキャラクターとしては明快でしょう。その他登場人物もろもろ、特に若い家政婦ミリー役のマーガレット・レイトンは『レベッカ』のダンヴァース夫人役ジュディス・アンダーソンを連想しない方が無理なくらいの大役をこなしているのに、人物の出入りの調節の悪さのせいで生かされているとは言いがたい。ヒッチコックはヒューム・クローニンの脚本に責任を転嫁していますがクローニンは『ロープ』の脚本にも貢献しているので、ヒッチコック自身が上手く捌ききれなかったのは興業的失敗を舐めてようやく気づいたのに違いありません。キャラクターごと、シーンごとには明確な意図があるが、全体像の中にうまくはまるようには計算が行き届かず、結果として一つの大きなドラマをなしていないのが本作を焦点を欠いた作品にしていて、この映画はどの人物の視点から観ればいいのかわからないような混乱状態のまま始終しています。その点では『巌窟の野獣』はおろか『ウィンナー・ワルツ』にすらおよばないので、『パラダイン夫人の恋』『舞台恐怖症』と併せた迷走三部作になっている。しかし全53作(観られるのは52作ですが)のヒッチコック映画の中で集中的に調子を崩した3作ですから、神様の失敗作とはどのようなものかを知るのにこれも所々光る演出の冴えがあるだけ侮れません。キャリア最後期の『引き裂かれたカーテン』'66、『トパーズ』'69の調子の悪さとも違います。本作の重量感には名作になり損ねた貫禄があり、映画に勝ち負けがあるとすれば敗軍の将のような風格があります。駄目だなあと思いながら風格だけでも鑑賞には値する分、『パラダイン夫人~』『舞台恐怖症』よりは上位なのではないでしょうか。

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