今回の感想文は前回に続いて'51年度のウォルシュ作品の掉尾を飾る西部劇作品『遠い太鼓』と'52年の海洋冒険歴史映画『海賊黒ひげ』の2作です。'52年にはもう1作、グレゴリー・ペックとアン・ブライス、アンソニー・クイン主演のユニヴァーサルの大作『世界を彼の腕に』もあり、これは前年ペックをワーナーの大作『艦長ホレーショ』に借りた交換条件だったかもしれませんが、『世界を彼の腕に』にもウォルシュが出張しているのは(これも交換条件かもしれませんが)『艦長ホレーショ』の好評を裏づけるものでしょう。今回残念ながら映像ソフトが手元になく観直す機会がありませんでしたが、『海賊黒ひげ』も同作に劣らない大作でウォルシュの好調ぶりが堪能できる快作になりました。また'51年度の『死の砂塵』(6月公開)、『艦長ホレーショ』(9月公開)に続いて同年を締めくくるゲイリー・クーパー主演作『遠い太鼓』は派手に観せようと思えばいくらでも大がかりにできる(実際大規模なロケーション撮影によって作られた)内容をさりげなくシンプルにまとめ上げており、しかも渋みや枯れた味わいを狙ったあざとさもないウォルシュらしい人情味の溢れたもので、傑作や代表作というのとは別にこうした好作が普通に作れるのも大ヴェテランにして新鮮な創作力を失わなかった証であり、大らかなウォルシュの作風は傑出した作品よりも一見地味に見える水準作によく表れているとも言えそうです。それはこれまた荒唐無稽な海賊映画『海賊黒ひげ』にも言えて、こちらはウォルシュの代表作の一つとしてもいいようなめりはりの効いた冒険映画ですが、こういう芸術的方向性とはまったく無縁な娯楽活劇を入念に作り、出来上がったのは上乗な娯楽映画であるとともに立派な芸術作品にもなっているのは名匠の腕前の本領発揮を見る思いがして舌を巻くしかありません。拙い感想文でその一端でもお伝えできるといいのですが。
●11月20日(月)
『遠い太鼓』Distant Drums (ワーナー'51)*100min, Technicolor; 日本公開1953年(昭和28年)1月
(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 「セントルイス」のミルトン・スパーリングが制作する色彩開拓劇1952年度作品で、「昼間の決闘」のナイヴン・ブッシュがストーリーを書き下ろし、彼とマーティン・ラッキン(「極楽スパイ狩り」)が脚色に当たった。監督は「白熱」のラウール・ウォルシュ。撮影のシド・ヒコックス、音楽のマックス・スタイナーもそれぞれ「白熱」と同様である。主演は「真昼の決闘」のゲイリー・クーパーに新人マリ・アルドンで、以下「マニラ」のリチャード・ウェッブ、「われら自身のもの」のレイ・ティール、新人アーサー・ハニカットらが助演する。
[ あらすじ ] 1840年、フロリダ地方では米人がインディアンに対して7年間も悪戦苦闘を続けていた。フロリダ辺域の防備にあたるワイアット大尉(ゲイリー・クーパー)はタフツ海軍中尉(リチャード・ウェッブ)と協力して、夜陰に乗じてセミノール・インディアンを襲い、捕虜になっていた白人たちを救い、砦を爆破した。捕虜だったジュディ(マリ・アルドン)をつれて根拠地にかえる途中、彼らはインディアンの大群に襲われ、一時は草に火を放って難を逃れたが、夜に入ってワイアットたちはインディアンに完全に包囲されてしまった。逃れる道は沼地を歩いて渡るほかにはなく、猛獣毒蛇を警戒しながら彼らは奥へ奥へと進んだ。途中、米軍の装具をつけた1人のインディアンを捕らえてインディアン集落の在りかを白状させた彼らは直ちにそこを襲撃した。しかし新しいインディアンの大群が現れ、ワイアットたちはかろうじて逃れて、彼らの根拠地にたどりついた。彼らはここで最後の抵抗を試み、川をへだててインディアンと対峙した。その夜、不気味なインディアンの歌を遠く聞きながら、ワイアットはジュディに己が身上を語り、彼女への愛情をそれとなく打ち明けた。一夜あけてワイアットはインディアン酋長に一騎打ちを挑み、水中での激闘の末、これを勝利した。その時テイラー将軍(ロバート・バラット)の率いる米軍が応援にかけつけインディアンを掃討してくれた。生き残りの一隊は無事に助かり、ワイアットとジュディは過去いっさいを水に流して固く抱擁した。
本作は冒頭にフロリダ各地の沼地に河川、フロリダのエヴァグレイズ国立自然公園を始めアメリカ各地の国立自然公園にロケ、と説明字幕が掲げられます。自然公園というと日本ではきれいに整えられた箱庭的な規模のものを想像してしまいますがとんでもなく、アメリカの自然公園とはジャングルをそのままの状態で放置してあるような、東京23区まるごと入れてもお釣りがくるくらい馬鹿でかい自然保護地帯をなしているのがわかります。それだけでも本作の見もので、本物のジャングルよりは地図がある分だけましにせよ、またロケ地としては経済的で便利だったにせよロケには変わりありませんから撮影の手間ひまを考えるとスタッフもキャストも大変だったろうなと思います。主演のゲイリー・クーパー以外スター格のキャストがいないのはクーパー以外のキャストの予算からでは本作の出演を受けるスター格の俳優がいなかったからではないか、と邪推もしたくなるほど出演をひるむような企画だったのではないかと画面から伝わってくる、体力勝負の映画が本作です。ではその内容はといえば、インディアンの攻撃を避けながらフロリダの大泥炭地帯を逃げてくるだけの映画。端的に言って本作の基本アイディアはこれだけに尽きます。恋あり主人公の悲しい過去ありは大事な要素ですがそれを描くならどんなプロットに乗せてもいいので、まず土台になるのは泥炭地帯の大横断劇です。『死の砂塵』が保安官がテキサス州の大荒野を縦断して容疑者を護送する話だったように、西部劇(本作の舞台は南部ですが)とは最小限の物語要素にさまざまな趣向を詰めこめる、この上なく効率の良い映画の発明だったのが実感されます。ただし説明抜きにジャンルとして西部劇が寿命を保ったのは'50年代半ば~末までだったので(南北戦争前後の時代が国民的記憶に共有されていたのが西部劇の条件でした)、その後の西部劇の作者や観客はカッコつきのジャンルとして学習的・批評的に西部劇を作り、また観るしかなくなったのも事実です。本作に類似した現代版西部劇的作品の傑作に『エヴァグレイズを渡る風』'58(ニコラス・レイ、監視官が野鳥の密猟団のアジトを目指してエヴァグレイズ川をさかのぼる話で『地獄の黙示録』'79の原型と指摘されるもの)がありますが、そこではすでに古典的な西部劇的構成自体の虚構性が露わになっています。ともあれアメリカ映画が20世紀の世界の映画でも圧倒的に優位だったのは西部劇と音楽劇(ミュージカル)、戦争映画を大量生産できる素材と製作者たち、膨大な観客からの需要があったからで、ラオール・ウォルシュはアメリカ映画の長編化の時点で新鋭監督だった人ですからアメリカ映画の根本を作った数十人の映画監督に数えられることもあり、ウォルシュの映画を観ると映画の誕生を見る思いがします。ウォルシュの師D・W・グリフィス(1875-1948)の最後の監督作品が1931年、グリフィス門下の兄弟弟子E・V・シュトロハイム(1885-1957)さえ最後の監督作品が1932年だったのを思うとウォルシュのキャリアの長さは異例で、それだけアメリカ映画の歴史を作ってきた人、'50年代には現役映画人最古の映画監督になっていたのです。本作は映画のトーキー化最初のスターでもあるゲイリー・クーパー主演作なのも見所で、クーパーは長身の二枚目スターの嚆矢となった人でもありました。サイレント時代は長身であることが男性スターの条件ではなく、'30年代でもまだ映画スターは長身に限りませんでしたが、クーパーが人気を博した頃から二枚目俳優は長身、背が低くてもいいのは性格俳優と分かれていったのです。映画のトーキー化は映画映像のリアリティの水準を一変させたので、フルサイズのショットではっきりと長身が目立つプロポーションの良さも求められるようになりました。本作は何しろ沼地やエヴァグレイズ川をぞろぞろ逃げてくる映画なので主人公の一行は浅くても腰、深ければ肩まで沼地に沈んでいます。人物のアップやミドル・ショットは地面に上がってひと休みしている時だけで、沼や川をずぶずぶ進む人物たちを撮影するには岸やボート、仮設した桟橋などにカメラを据えるしかないので、クーパーの長身はこういう時に生きてきます。いやクーパーも、まさか長身が本作のようなずぶ濡れ映画のために使われる時がくるとは予期していなかったでしょう。本作の内容はあらすじからは先住民侮蔑的のように見えてしまいますがそんなに一面的なものではなく、クーパー演じる主人公はインディアン一族と友好関係を結んで信望が篤く、族長の娘と恋愛結婚して男の子をもうけ、愛妻に先立たれた後もインディアン部落に溶け込んで愛児と暮らしている男です。本作はリチャード・ウェッブ(他に知らない俳優ですが好演、ナレーションの声がクーパーそっくり)演じるタフツ中尉が白人との和平に応じず白人開拓者を捕虜にしているインディアン部族との紛争解決のため、先住民関係の問題に人生を捧げたスペシャリストのクーパーに捕虜奪還部隊の隊長を依頼しに訪ねる場面から始まっています。いささか美化された人物像ですが西部劇は一般的に思われているほど白人のインディアン居住地問題について侵略的ではなく、むしろインディアンは率直かつ正直で誇り高く(『壮烈第七騎兵隊』のアンソニー・クインのように)、友好関係を築こうとする白人とインディアンをあざむき利用しようとする白人がいる、という描かれ方の方が多いのです。戦後西部劇ではそれがよりはっきりと描かれるようになり、ウォルシュの本作は好戦的な種族も描いているため侵略的に見える面もありますが、映画は平和裡にインディアン部族に溶け込んで混血の愛児と暮らしているクーパーから始まり、結末ではクーパーが新しい恋人(マリ・アルドン)とともに愛児の待つインディアン部族に帰っていきます。このヒロイン女優の出演作は他に知りませんが本作では初々しく魅力的で、出番が少ないのもあって華を添える程度ですがこの映画ではこれで十分でしょう。100分というのはこの内容には少々長いかな、という感じもしますが、ワニやヘビが出たり、インディアンとの一騎打ちの水中格闘があったり、蒸し蒸しした映画だけにクーパーのひげ剃りシーンが気持良さそうだったりと見せたいシーンがあり、むしろ2時間たっぷり延ばせる題材を100分に圧縮したのが(会話で交わされる道のりと映像の省略法が辻褄の合わない感じがするのはそのためでしょう)本作をかえって平坦にもして、その分大らかな印象の好作にしています。無駄な力を感じさせないところが本作の長所でもあり、好ましい水準作にとどめてもいる一因でもあるのでしょう。
●11月21日(火)
『海賊黒ひげ』Blackbeard the Pirate (RKO'52)*98min, Technicolor; 日本公開1953年(昭和28年)6月
(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 「零号作戦」のエドモンド・グレインジャーが製作し、「壮烈第7騎兵隊」のラウール・ウォルシュが監督した海賊活劇1952年作品。デヴァロン・スコットの原案を「拳銃王」のアラン・ルメイが脚色した。撮影は「零号作戦」のウィリアム・スナイダー、音楽は「地上最大のショウ」のヴィクター・ヤングの担当。主演は「宝島(1950)」のロバート・ニュートンと「永遠のアンバー」のリンダ・ダーネルで、「探偵物語」のウィリアム・ベンディックス、新人キース・アンデス、「黒ばら」のトリン・サッチャー、アイリン・ライアンらが助演する。
[ あらすじ ] 17世紀の末期、中南米沿岸の諸港を荒らした"海賊黒ひげ"(ロバート・ニュートン)に対し、英国王からヘンリイ・モーガン卿(トリン・サッチャー)に追討の命が下った。彼はジャマイカに根拠地を設けた。若い船医ロバート・メイナード(キース・アンデス)は元海賊のモーガンと"黒ひげ"が内通しているとにらみ、それをあばくため私掠船に乗り込むことにした。その船の船長ベラミーと結婚するためモーガンの養女で大海賊の家系のエドウィナ(リンダ・ダーネル)と侍女アルヴィーナ(アイリン・ライアン)も乗り込んだが、ベラミーが殺されて船はすでに"黒ひげ"に奪われており、たちまち一斉砲撃を受けた。"黒ひげ"は傷を負い、ロバートは生き残りの水夫ギリー(スケルトン・ナッグス)とともに"黒ひげ"の手術をさせられた。海賊船にただ1人の女としてエドウィナに危難がふりかかろうとしたとき、ロバートはこれを救ったが、"黒ひげ"は彼女が持っている卿の宝物を奪った。その間、ロバートは彼女の荷物の中から卿と海賊がグルになっている証拠の手紙を手に入れ、船の一時停泊中に味方の船員ブリッグス(リチャード・イーガン)に託して島の総督宛に送った。"黒ひげ"は卿の追跡にそなえて船を海賊島に泊め、宝物を祕密の場所に隠した。間もなく卿の率いる大部隊が襲撃を加え、"黒ひげ"は危いところを身代わりをたてて難を逃れた。卿は島に凱旋するや総督になり、ロバートの送った証拠の手紙を発見して彼の逮捕を命じたが、ロバートはいまや相思の仲であるエドウィナと一緒に英本国に帰国しようと決意した。だが2人の乗り込んだ便船はやはり"黒ひげ"一味に占領されていた。船内では海賊島に隠した宝物の分配をめぐって、"黒ひげ"腹心組と頭目のベン(ウィリアム・ベンディックス)率いる叛乱組が対峙し、不穏な形勢にあった。そこにモーガンの艦隊が到着して軍勢が上陸して島では戦いが起こり、"黒ひげ"は自分そっくりな島の狂人を影武者にして殺害し身替わりの死体を発見させる。モーガンに再会したエドウィナはロバートが反逆罪で指名手配されているのを知る。ロバートとエドウィナは船窓から海に飛び込み島へ逃れた。"黒ひげ"は捕虜にされた部下たちを脱走させ再びロバートとエドウィナの隠れたモーガンの艦隊の一艘を奪い、モーガンの艦と一騎打ちとなるがエドウィナを人質にモーガンの艦を撤退させる。"黒ひげ"はロバートとベンに宝物を掘り出させて船に積み込み、叛乱組は頭目のベンを殺されてほかは船艙に監禁された。"黒ひげ"が再び宝物を島へ隠そうとしたとき、船艙を脱出した叛乱組が襲いかかり、宝物は海中に没した。海賊たちは"黒ひげ"に対する怒りを爆発させ、彼を波打際に生き埋めする極刑に処した。ロバートとエドウィナは海賊の乗り捨てたボートに乗り、"黒ひげ"の最後を望見しながら自由の海に乗り出した。
本作は公開時「首だけ出して砂浜の波打ち際に生き埋め」というラスト・シーンで語り草になったそうです。タイトル・ロールの「海賊黒ひげ(Blackbeard)」を演じるロバート・ニュートンは悪役役者で、ディズニー初の実写映画『宝島』'50の海賊フック船長がいちばん知られている出演作でしょう。つまり本作は大ヒット作のディズニー映画のRKO映画社によるパクりというかパチモンというか、便乗企画なのですが、ウォルシュはダグラス・フェアバンクス企画・製作・主演の『バグダッドの盗賊』'24でフリッツ・ラングの『死滅の谷』'21のトリック撮影のパクりを、フェアバンクスの依頼ではありますが堂々やってのけてドイツの芸術映画からハリウッドの娯楽映画にエキゾチシズムを換骨奪胎してのけた人、そもそもラングよりずっと先輩監督でもあれば『バグダッドの盗賊』はディズニーのアニメ作品の源泉といえる作品です。源泉といえば徴収と解く、ウォルシュがディズニー映画からパクるのは立派に育った自分の子供からおこづかいをもらうようなもので、そんな理屈をつけなくても本作と『宝島』は同じ俳優が海賊の親玉を演じるだけでまったく別の作品です。もっとも最初海賊黒ひげ役はチャールズ・ロートンが予定されていたそうで、それがニュートンに変更されてから原案の改稿があったそうですからあながち便乗作品とばかりは言えないようです。ウォルシュらしいな、と思うのはシナリオの無理や矛盾に無頓着なあたりで、さすがに本作まで荒唐無稽な企画はジョン・フォードやハワード・ホークスは受けないでしょうし、マイケル・カーティスやウィリアム・ディターレ、フリッツ・ラングなら(なぜか3人ともドイツ出身)案外平然と受けるでしょうが、本作のウォルシュほど泰然自若とはせずシナリオの辻褄合わせに頭を悩ませたでしょう。あらすじは淡々と書いていてどこに矛盾や無理があるか一見わかりませんが、まず物語の上では新人キース・アンデス演じる船医メイナードが主人公で、その主人公が海賊黒ひげと内通している、とにらんだ元海賊のヘンリー・モーガン卿の悪事を暴くため潜入捜査する、というのが映画の発端です。そこに時代劇のお姫様女優のスター、リンダ・ダーネル演じるヘンリー卿の養女で大海賊の末裔エドウィナが絡んできて、婚約者の船長を殺されていたエドウィナに主人公は惚れてしまいますが、実はエドウィナはヘンリー卿の手先で船長との婚約も黒ひげとの内通との便を図った政略結婚(と簡単に主人公にバラしてしまうのもおかしいのですが、エドウィナは主人公を協力者にするために籠絡しているわけです)で、ここで主人公の当初の目的がほとんど行方不明になってしまいます。ヘンリー卿の悪事を暴くどころか「どうでもいいからエドウィナを守る」になってしまい、悪女のはずのエドウィナが結局利害関係から対決することになるヘンリー卿と黒ひげの間で人質交換的にキャッチボールされる重要証人の主人公に面倒見よくつきあって、おかげで人質価値を陪乗することになってしまいます。主人公カップルがその始末ですからヘンリー卿と海賊黒ひげは悪役同士で対立し、さらに黒ひげの海賊団は財宝独り占めをめぐって姑息な分裂を起こし、人質を盾にヘンリー卿を反したものの自滅してしまい、感想文冒頭に書いたように部下たちの反乱でリンチにあって黒ひげは死にます。主人公カップルはというと、自力で脱出して黒ひげリンチの目撃者になって海へと漕ぎ出しますが、体制権力を味方につけたヘンリー卿にとっての危険人物である主人公とヘンリー卿の裏切り者であるヒロインはどこへ行こうというのでしょう。いわゆるモラルは別として、結局登場人物全員が目的を見失ってしまうこの映画は、善玉であれ悪玉であれそもそも誰に共感すればいいのでしょう。そういう普通あらゆる映画が原則としている観客の共感のライン、共感というのは特にいわゆる共感や感情移入ではなくて視点の一貫性、映画内の秩序の基準への同意でもいいですが、そうした観客が期待する一貫性に本作はあまりにも無頓着すぎるというのがただでさえ荒唐無稽な設定の本作を本当に荒唐無稽に近づけています。こうした無頓着さ、作中人物の性格の一貫性のなさ、首尾一貫しない描写はサイレント時代の映画には相当平気で行われており、名作中の名作と言われる作品から上げれば『サンライズ』'27、『風』'28、何よりアメリカ長編映画の原点であるグリフィスの『国民の創生』'15からしてそうでした。グリフィスはウォルシュの師匠ですし同作品の助監督はウォルシュその人、ワンポイント出演ですがウォルシュ自身も役者としてリンカーン暗殺犯を演じ、リンカーンを狙撃した後劇場の2階席から舞台に飛び降りて逃走する鮮烈な演技をスタントなしでやってのけ、その一瞬の出演場面だけで映画史上もっとも有名な殺人犯になりました。サイレント時代の映画になぜ性格描写の矛盾、統一性の欠如が許されたかには十分な理由があって、簡単に言えばトーキー化した映画とはリアリティの基準が違ったとしか説明できませんが、ウォルシュはトーキー以降にはちゃんとその辺はわきまえていたにもかかわらず本作は一大サイレント精神に基づいてつぎはぎだらけのシナリオをそのまま映画化してしまったとおぼしく、こういう事態は通常プリプロダクション段階で誰かが気づきプロデューサーに決定をあおぐものですが、プリプロダクション段階どころか完成試写や公開に当たっても誰も事態を阻止できなかったようです。読み合わせの段階でプロデューサーの決定が出たものだからウォルシュも変えようがなかったのかもしれません。またはクランクイン後に次々とシナリオ変更の通達があり(「もっとラヴシーンを」とか「黒ひげの出番を増やせ」とか)その結果首尾一貫しないものになった、とも考えられます。とかく出たとこ勝負の企画が多いRKO作品ですから黒ひげ役の主役変更に伴う原案改稿に伴い、クランクイン時にシナリオの決定稿ができていなかった可能性も多いにあります。ですから一概に監督ウォルシュの嗜好と責任とは言えないのですが、それでも最低限に辻褄は合わせながらクランクアップまでに必要なシークエンスは仕上げる、そしてどうにか編集でまともな映画にまとめ上げられるだけの素材は提出するのが一般的な映画監督の仕事ですしウォルシュもそこまではやったかもしれませんが、完成作品はというとウォルシュらしさが映画全編にぶちまけられた、面白いシークエンスが続出する替わりいったい何をやりたかったのかわけのわからないまま始終する活劇映画になってしまったのが本作でしょう。監督というのは和製漢語でDirectorの訳語になりますが、ウォルシュがDirectionしたのは数々の場面であって一編の映画全体を統一体としてDirectionしたのではないと見ると、本作のサイレント時代の映画に近い性格がわかります。それはもう、本作は痛快無類に面白いのですが、場面場面の面白さだけで成り立っていて映画全体の一貫性をまるで顧慮していない。ヌーヴェル・ヴァーグの作品どころではありません。ホークスの傑作『三つ数えろ』もそうでしたが、あれはもともとそういう原作小説を映画に起こして力業でねじ伏せてみせたものでした。『海賊黒ひげ』が似ているのはほら吹きじいさんが炉端で孫に聞かせる思いつきまかせのほら噺です。そこにあるのはとにかく聞き手を面白がらせたい精神と旺盛かつ奔放な想像力の喜びなので、多少のでたらめなどは瑕瑾でしかない、日本流の「活動屋魂」みたいな浪花節臭いものではないすっきりした都会的な割り切り方があります。いつもこんなにふんどしの紐が緩いウォルシュではありませんが、丹沢を登っていたのに着いてみたら大山の頂上だったみたいな磊落さはそれはそれでありではありませんか。本作も125万ドルの純益を上げるヒット作になったといいますし、翌'53年の海洋冒険歴史映画(これもRKO作品、つまり本作が当たったからこその企画)『海賊船シー・デビル号の冒険』ではウォルシュは本作とは打って変わって緊密な構成と見事な一貫性で完成度の高い佳作を作り上げます。それもいいですが、どさくさ紛れにでき上がってしまった闇鍋のような本作の面白さはウォルシュ作品中でもひときわ際立っている観があります。
●11月20日(月)
『遠い太鼓』Distant Drums (ワーナー'51)*100min, Technicolor; 日本公開1953年(昭和28年)1月
(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 「セントルイス」のミルトン・スパーリングが制作する色彩開拓劇1952年度作品で、「昼間の決闘」のナイヴン・ブッシュがストーリーを書き下ろし、彼とマーティン・ラッキン(「極楽スパイ狩り」)が脚色に当たった。監督は「白熱」のラウール・ウォルシュ。撮影のシド・ヒコックス、音楽のマックス・スタイナーもそれぞれ「白熱」と同様である。主演は「真昼の決闘」のゲイリー・クーパーに新人マリ・アルドンで、以下「マニラ」のリチャード・ウェッブ、「われら自身のもの」のレイ・ティール、新人アーサー・ハニカットらが助演する。
[ あらすじ ] 1840年、フロリダ地方では米人がインディアンに対して7年間も悪戦苦闘を続けていた。フロリダ辺域の防備にあたるワイアット大尉(ゲイリー・クーパー)はタフツ海軍中尉(リチャード・ウェッブ)と協力して、夜陰に乗じてセミノール・インディアンを襲い、捕虜になっていた白人たちを救い、砦を爆破した。捕虜だったジュディ(マリ・アルドン)をつれて根拠地にかえる途中、彼らはインディアンの大群に襲われ、一時は草に火を放って難を逃れたが、夜に入ってワイアットたちはインディアンに完全に包囲されてしまった。逃れる道は沼地を歩いて渡るほかにはなく、猛獣毒蛇を警戒しながら彼らは奥へ奥へと進んだ。途中、米軍の装具をつけた1人のインディアンを捕らえてインディアン集落の在りかを白状させた彼らは直ちにそこを襲撃した。しかし新しいインディアンの大群が現れ、ワイアットたちはかろうじて逃れて、彼らの根拠地にたどりついた。彼らはここで最後の抵抗を試み、川をへだててインディアンと対峙した。その夜、不気味なインディアンの歌を遠く聞きながら、ワイアットはジュディに己が身上を語り、彼女への愛情をそれとなく打ち明けた。一夜あけてワイアットはインディアン酋長に一騎打ちを挑み、水中での激闘の末、これを勝利した。その時テイラー将軍(ロバート・バラット)の率いる米軍が応援にかけつけインディアンを掃討してくれた。生き残りの一隊は無事に助かり、ワイアットとジュディは過去いっさいを水に流して固く抱擁した。
本作は冒頭にフロリダ各地の沼地に河川、フロリダのエヴァグレイズ国立自然公園を始めアメリカ各地の国立自然公園にロケ、と説明字幕が掲げられます。自然公園というと日本ではきれいに整えられた箱庭的な規模のものを想像してしまいますがとんでもなく、アメリカの自然公園とはジャングルをそのままの状態で放置してあるような、東京23区まるごと入れてもお釣りがくるくらい馬鹿でかい自然保護地帯をなしているのがわかります。それだけでも本作の見もので、本物のジャングルよりは地図がある分だけましにせよ、またロケ地としては経済的で便利だったにせよロケには変わりありませんから撮影の手間ひまを考えるとスタッフもキャストも大変だったろうなと思います。主演のゲイリー・クーパー以外スター格のキャストがいないのはクーパー以外のキャストの予算からでは本作の出演を受けるスター格の俳優がいなかったからではないか、と邪推もしたくなるほど出演をひるむような企画だったのではないかと画面から伝わってくる、体力勝負の映画が本作です。ではその内容はといえば、インディアンの攻撃を避けながらフロリダの大泥炭地帯を逃げてくるだけの映画。端的に言って本作の基本アイディアはこれだけに尽きます。恋あり主人公の悲しい過去ありは大事な要素ですがそれを描くならどんなプロットに乗せてもいいので、まず土台になるのは泥炭地帯の大横断劇です。『死の砂塵』が保安官がテキサス州の大荒野を縦断して容疑者を護送する話だったように、西部劇(本作の舞台は南部ですが)とは最小限の物語要素にさまざまな趣向を詰めこめる、この上なく効率の良い映画の発明だったのが実感されます。ただし説明抜きにジャンルとして西部劇が寿命を保ったのは'50年代半ば~末までだったので(南北戦争前後の時代が国民的記憶に共有されていたのが西部劇の条件でした)、その後の西部劇の作者や観客はカッコつきのジャンルとして学習的・批評的に西部劇を作り、また観るしかなくなったのも事実です。本作に類似した現代版西部劇的作品の傑作に『エヴァグレイズを渡る風』'58(ニコラス・レイ、監視官が野鳥の密猟団のアジトを目指してエヴァグレイズ川をさかのぼる話で『地獄の黙示録』'79の原型と指摘されるもの)がありますが、そこではすでに古典的な西部劇的構成自体の虚構性が露わになっています。ともあれアメリカ映画が20世紀の世界の映画でも圧倒的に優位だったのは西部劇と音楽劇(ミュージカル)、戦争映画を大量生産できる素材と製作者たち、膨大な観客からの需要があったからで、ラオール・ウォルシュはアメリカ映画の長編化の時点で新鋭監督だった人ですからアメリカ映画の根本を作った数十人の映画監督に数えられることもあり、ウォルシュの映画を観ると映画の誕生を見る思いがします。ウォルシュの師D・W・グリフィス(1875-1948)の最後の監督作品が1931年、グリフィス門下の兄弟弟子E・V・シュトロハイム(1885-1957)さえ最後の監督作品が1932年だったのを思うとウォルシュのキャリアの長さは異例で、それだけアメリカ映画の歴史を作ってきた人、'50年代には現役映画人最古の映画監督になっていたのです。本作は映画のトーキー化最初のスターでもあるゲイリー・クーパー主演作なのも見所で、クーパーは長身の二枚目スターの嚆矢となった人でもありました。サイレント時代は長身であることが男性スターの条件ではなく、'30年代でもまだ映画スターは長身に限りませんでしたが、クーパーが人気を博した頃から二枚目俳優は長身、背が低くてもいいのは性格俳優と分かれていったのです。映画のトーキー化は映画映像のリアリティの水準を一変させたので、フルサイズのショットではっきりと長身が目立つプロポーションの良さも求められるようになりました。本作は何しろ沼地やエヴァグレイズ川をぞろぞろ逃げてくる映画なので主人公の一行は浅くても腰、深ければ肩まで沼地に沈んでいます。人物のアップやミドル・ショットは地面に上がってひと休みしている時だけで、沼や川をずぶずぶ進む人物たちを撮影するには岸やボート、仮設した桟橋などにカメラを据えるしかないので、クーパーの長身はこういう時に生きてきます。いやクーパーも、まさか長身が本作のようなずぶ濡れ映画のために使われる時がくるとは予期していなかったでしょう。本作の内容はあらすじからは先住民侮蔑的のように見えてしまいますがそんなに一面的なものではなく、クーパー演じる主人公はインディアン一族と友好関係を結んで信望が篤く、族長の娘と恋愛結婚して男の子をもうけ、愛妻に先立たれた後もインディアン部落に溶け込んで愛児と暮らしている男です。本作はリチャード・ウェッブ(他に知らない俳優ですが好演、ナレーションの声がクーパーそっくり)演じるタフツ中尉が白人との和平に応じず白人開拓者を捕虜にしているインディアン部族との紛争解決のため、先住民関係の問題に人生を捧げたスペシャリストのクーパーに捕虜奪還部隊の隊長を依頼しに訪ねる場面から始まっています。いささか美化された人物像ですが西部劇は一般的に思われているほど白人のインディアン居住地問題について侵略的ではなく、むしろインディアンは率直かつ正直で誇り高く(『壮烈第七騎兵隊』のアンソニー・クインのように)、友好関係を築こうとする白人とインディアンをあざむき利用しようとする白人がいる、という描かれ方の方が多いのです。戦後西部劇ではそれがよりはっきりと描かれるようになり、ウォルシュの本作は好戦的な種族も描いているため侵略的に見える面もありますが、映画は平和裡にインディアン部族に溶け込んで混血の愛児と暮らしているクーパーから始まり、結末ではクーパーが新しい恋人(マリ・アルドン)とともに愛児の待つインディアン部族に帰っていきます。このヒロイン女優の出演作は他に知りませんが本作では初々しく魅力的で、出番が少ないのもあって華を添える程度ですがこの映画ではこれで十分でしょう。100分というのはこの内容には少々長いかな、という感じもしますが、ワニやヘビが出たり、インディアンとの一騎打ちの水中格闘があったり、蒸し蒸しした映画だけにクーパーのひげ剃りシーンが気持良さそうだったりと見せたいシーンがあり、むしろ2時間たっぷり延ばせる題材を100分に圧縮したのが(会話で交わされる道のりと映像の省略法が辻褄の合わない感じがするのはそのためでしょう)本作をかえって平坦にもして、その分大らかな印象の好作にしています。無駄な力を感じさせないところが本作の長所でもあり、好ましい水準作にとどめてもいる一因でもあるのでしょう。
●11月21日(火)
『海賊黒ひげ』Blackbeard the Pirate (RKO'52)*98min, Technicolor; 日本公開1953年(昭和28年)6月
(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] 「零号作戦」のエドモンド・グレインジャーが製作し、「壮烈第7騎兵隊」のラウール・ウォルシュが監督した海賊活劇1952年作品。デヴァロン・スコットの原案を「拳銃王」のアラン・ルメイが脚色した。撮影は「零号作戦」のウィリアム・スナイダー、音楽は「地上最大のショウ」のヴィクター・ヤングの担当。主演は「宝島(1950)」のロバート・ニュートンと「永遠のアンバー」のリンダ・ダーネルで、「探偵物語」のウィリアム・ベンディックス、新人キース・アンデス、「黒ばら」のトリン・サッチャー、アイリン・ライアンらが助演する。
[ あらすじ ] 17世紀の末期、中南米沿岸の諸港を荒らした"海賊黒ひげ"(ロバート・ニュートン)に対し、英国王からヘンリイ・モーガン卿(トリン・サッチャー)に追討の命が下った。彼はジャマイカに根拠地を設けた。若い船医ロバート・メイナード(キース・アンデス)は元海賊のモーガンと"黒ひげ"が内通しているとにらみ、それをあばくため私掠船に乗り込むことにした。その船の船長ベラミーと結婚するためモーガンの養女で大海賊の家系のエドウィナ(リンダ・ダーネル)と侍女アルヴィーナ(アイリン・ライアン)も乗り込んだが、ベラミーが殺されて船はすでに"黒ひげ"に奪われており、たちまち一斉砲撃を受けた。"黒ひげ"は傷を負い、ロバートは生き残りの水夫ギリー(スケルトン・ナッグス)とともに"黒ひげ"の手術をさせられた。海賊船にただ1人の女としてエドウィナに危難がふりかかろうとしたとき、ロバートはこれを救ったが、"黒ひげ"は彼女が持っている卿の宝物を奪った。その間、ロバートは彼女の荷物の中から卿と海賊がグルになっている証拠の手紙を手に入れ、船の一時停泊中に味方の船員ブリッグス(リチャード・イーガン)に託して島の総督宛に送った。"黒ひげ"は卿の追跡にそなえて船を海賊島に泊め、宝物を祕密の場所に隠した。間もなく卿の率いる大部隊が襲撃を加え、"黒ひげ"は危いところを身代わりをたてて難を逃れた。卿は島に凱旋するや総督になり、ロバートの送った証拠の手紙を発見して彼の逮捕を命じたが、ロバートはいまや相思の仲であるエドウィナと一緒に英本国に帰国しようと決意した。だが2人の乗り込んだ便船はやはり"黒ひげ"一味に占領されていた。船内では海賊島に隠した宝物の分配をめぐって、"黒ひげ"腹心組と頭目のベン(ウィリアム・ベンディックス)率いる叛乱組が対峙し、不穏な形勢にあった。そこにモーガンの艦隊が到着して軍勢が上陸して島では戦いが起こり、"黒ひげ"は自分そっくりな島の狂人を影武者にして殺害し身替わりの死体を発見させる。モーガンに再会したエドウィナはロバートが反逆罪で指名手配されているのを知る。ロバートとエドウィナは船窓から海に飛び込み島へ逃れた。"黒ひげ"は捕虜にされた部下たちを脱走させ再びロバートとエドウィナの隠れたモーガンの艦隊の一艘を奪い、モーガンの艦と一騎打ちとなるがエドウィナを人質にモーガンの艦を撤退させる。"黒ひげ"はロバートとベンに宝物を掘り出させて船に積み込み、叛乱組は頭目のベンを殺されてほかは船艙に監禁された。"黒ひげ"が再び宝物を島へ隠そうとしたとき、船艙を脱出した叛乱組が襲いかかり、宝物は海中に没した。海賊たちは"黒ひげ"に対する怒りを爆発させ、彼を波打際に生き埋めする極刑に処した。ロバートとエドウィナは海賊の乗り捨てたボートに乗り、"黒ひげ"の最後を望見しながら自由の海に乗り出した。
本作は公開時「首だけ出して砂浜の波打ち際に生き埋め」というラスト・シーンで語り草になったそうです。タイトル・ロールの「海賊黒ひげ(Blackbeard)」を演じるロバート・ニュートンは悪役役者で、ディズニー初の実写映画『宝島』'50の海賊フック船長がいちばん知られている出演作でしょう。つまり本作は大ヒット作のディズニー映画のRKO映画社によるパクりというかパチモンというか、便乗企画なのですが、ウォルシュはダグラス・フェアバンクス企画・製作・主演の『バグダッドの盗賊』'24でフリッツ・ラングの『死滅の谷』'21のトリック撮影のパクりを、フェアバンクスの依頼ではありますが堂々やってのけてドイツの芸術映画からハリウッドの娯楽映画にエキゾチシズムを換骨奪胎してのけた人、そもそもラングよりずっと先輩監督でもあれば『バグダッドの盗賊』はディズニーのアニメ作品の源泉といえる作品です。源泉といえば徴収と解く、ウォルシュがディズニー映画からパクるのは立派に育った自分の子供からおこづかいをもらうようなもので、そんな理屈をつけなくても本作と『宝島』は同じ俳優が海賊の親玉を演じるだけでまったく別の作品です。もっとも最初海賊黒ひげ役はチャールズ・ロートンが予定されていたそうで、それがニュートンに変更されてから原案の改稿があったそうですからあながち便乗作品とばかりは言えないようです。ウォルシュらしいな、と思うのはシナリオの無理や矛盾に無頓着なあたりで、さすがに本作まで荒唐無稽な企画はジョン・フォードやハワード・ホークスは受けないでしょうし、マイケル・カーティスやウィリアム・ディターレ、フリッツ・ラングなら(なぜか3人ともドイツ出身)案外平然と受けるでしょうが、本作のウォルシュほど泰然自若とはせずシナリオの辻褄合わせに頭を悩ませたでしょう。あらすじは淡々と書いていてどこに矛盾や無理があるか一見わかりませんが、まず物語の上では新人キース・アンデス演じる船医メイナードが主人公で、その主人公が海賊黒ひげと内通している、とにらんだ元海賊のヘンリー・モーガン卿の悪事を暴くため潜入捜査する、というのが映画の発端です。そこに時代劇のお姫様女優のスター、リンダ・ダーネル演じるヘンリー卿の養女で大海賊の末裔エドウィナが絡んできて、婚約者の船長を殺されていたエドウィナに主人公は惚れてしまいますが、実はエドウィナはヘンリー卿の手先で船長との婚約も黒ひげとの内通との便を図った政略結婚(と簡単に主人公にバラしてしまうのもおかしいのですが、エドウィナは主人公を協力者にするために籠絡しているわけです)で、ここで主人公の当初の目的がほとんど行方不明になってしまいます。ヘンリー卿の悪事を暴くどころか「どうでもいいからエドウィナを守る」になってしまい、悪女のはずのエドウィナが結局利害関係から対決することになるヘンリー卿と黒ひげの間で人質交換的にキャッチボールされる重要証人の主人公に面倒見よくつきあって、おかげで人質価値を陪乗することになってしまいます。主人公カップルがその始末ですからヘンリー卿と海賊黒ひげは悪役同士で対立し、さらに黒ひげの海賊団は財宝独り占めをめぐって姑息な分裂を起こし、人質を盾にヘンリー卿を反したものの自滅してしまい、感想文冒頭に書いたように部下たちの反乱でリンチにあって黒ひげは死にます。主人公カップルはというと、自力で脱出して黒ひげリンチの目撃者になって海へと漕ぎ出しますが、体制権力を味方につけたヘンリー卿にとっての危険人物である主人公とヘンリー卿の裏切り者であるヒロインはどこへ行こうというのでしょう。いわゆるモラルは別として、結局登場人物全員が目的を見失ってしまうこの映画は、善玉であれ悪玉であれそもそも誰に共感すればいいのでしょう。そういう普通あらゆる映画が原則としている観客の共感のライン、共感というのは特にいわゆる共感や感情移入ではなくて視点の一貫性、映画内の秩序の基準への同意でもいいですが、そうした観客が期待する一貫性に本作はあまりにも無頓着すぎるというのがただでさえ荒唐無稽な設定の本作を本当に荒唐無稽に近づけています。こうした無頓着さ、作中人物の性格の一貫性のなさ、首尾一貫しない描写はサイレント時代の映画には相当平気で行われており、名作中の名作と言われる作品から上げれば『サンライズ』'27、『風』'28、何よりアメリカ長編映画の原点であるグリフィスの『国民の創生』'15からしてそうでした。グリフィスはウォルシュの師匠ですし同作品の助監督はウォルシュその人、ワンポイント出演ですがウォルシュ自身も役者としてリンカーン暗殺犯を演じ、リンカーンを狙撃した後劇場の2階席から舞台に飛び降りて逃走する鮮烈な演技をスタントなしでやってのけ、その一瞬の出演場面だけで映画史上もっとも有名な殺人犯になりました。サイレント時代の映画になぜ性格描写の矛盾、統一性の欠如が許されたかには十分な理由があって、簡単に言えばトーキー化した映画とはリアリティの基準が違ったとしか説明できませんが、ウォルシュはトーキー以降にはちゃんとその辺はわきまえていたにもかかわらず本作は一大サイレント精神に基づいてつぎはぎだらけのシナリオをそのまま映画化してしまったとおぼしく、こういう事態は通常プリプロダクション段階で誰かが気づきプロデューサーに決定をあおぐものですが、プリプロダクション段階どころか完成試写や公開に当たっても誰も事態を阻止できなかったようです。読み合わせの段階でプロデューサーの決定が出たものだからウォルシュも変えようがなかったのかもしれません。またはクランクイン後に次々とシナリオ変更の通達があり(「もっとラヴシーンを」とか「黒ひげの出番を増やせ」とか)その結果首尾一貫しないものになった、とも考えられます。とかく出たとこ勝負の企画が多いRKO作品ですから黒ひげ役の主役変更に伴う原案改稿に伴い、クランクイン時にシナリオの決定稿ができていなかった可能性も多いにあります。ですから一概に監督ウォルシュの嗜好と責任とは言えないのですが、それでも最低限に辻褄は合わせながらクランクアップまでに必要なシークエンスは仕上げる、そしてどうにか編集でまともな映画にまとめ上げられるだけの素材は提出するのが一般的な映画監督の仕事ですしウォルシュもそこまではやったかもしれませんが、完成作品はというとウォルシュらしさが映画全編にぶちまけられた、面白いシークエンスが続出する替わりいったい何をやりたかったのかわけのわからないまま始終する活劇映画になってしまったのが本作でしょう。監督というのは和製漢語でDirectorの訳語になりますが、ウォルシュがDirectionしたのは数々の場面であって一編の映画全体を統一体としてDirectionしたのではないと見ると、本作のサイレント時代の映画に近い性格がわかります。それはもう、本作は痛快無類に面白いのですが、場面場面の面白さだけで成り立っていて映画全体の一貫性をまるで顧慮していない。ヌーヴェル・ヴァーグの作品どころではありません。ホークスの傑作『三つ数えろ』もそうでしたが、あれはもともとそういう原作小説を映画に起こして力業でねじ伏せてみせたものでした。『海賊黒ひげ』が似ているのはほら吹きじいさんが炉端で孫に聞かせる思いつきまかせのほら噺です。そこにあるのはとにかく聞き手を面白がらせたい精神と旺盛かつ奔放な想像力の喜びなので、多少のでたらめなどは瑕瑾でしかない、日本流の「活動屋魂」みたいな浪花節臭いものではないすっきりした都会的な割り切り方があります。いつもこんなにふんどしの紐が緩いウォルシュではありませんが、丹沢を登っていたのに着いてみたら大山の頂上だったみたいな磊落さはそれはそれでありではありませんか。本作も125万ドルの純益を上げるヒット作になったといいますし、翌'53年の海洋冒険歴史映画(これもRKO作品、つまり本作が当たったからこその企画)『海賊船シー・デビル号の冒険』ではウォルシュは本作とは打って変わって緊密な構成と見事な一貫性で完成度の高い佳作を作り上げます。それもいいですが、どさくさ紛れにでき上がってしまった闇鍋のような本作の面白さはウォルシュ作品中でもひときわ際立っている観があります。