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Possibly Recorded live at the Cellar Cafe, New York, June 15, 1964 (Original Saturn LP) or live at Judson Hall, New York, December 31, 1964 (Reissued ESP CD credited)
Originally Released by El Saturn Records Saturn IHNY165, 1976
Reissued by ESP Disk (CD) ESP-4054, 2009
All Composed and Arranged by Sun Ra
(Side A) ; Featuring Pharoah Sanders
A1. Gods On A Safari - 2:55
A2. The World Shadow - 7:01
A3. Rocket No. 9 - 3:51 (uncredited)
(Side B) ; Featuring Black Harold, Flute
B1. The Voice Of Pan - 3:00
B2. Dawn Over Israel - 5:54
B3. Space Mates - 2:38 (uncredited)
[ Sun Ra Featuring Pharoah Sanders & Black Harold Personnel ]
Sun Ra - piano, celesta
Pharoah Sanders - tenor saxophone
Black Harold - flute, percussion
Art Jenkins - vocal
Al Evans - trumpet
Teddy Nance - trombone
Marshall Allen - alto saxophone
Pat Patrick - baritone saxophone
Alan Silva - bass
Ronnie Boykins - bass
Cliff Jarvis - drums
Jimmhi Johnson - drums
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(Alternate Original El Saturn "Sun Ra Featuring Pharoah Sanders & Black Harold" LP Front Cover & Side A Label)
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サン・ラはメンバーのかけもちを嫌いましたが(バンドリーダーは大概そうでしょう)ギルモアに関しては結成以来の貢献度も高く、経済的に報われないアーケストラに献身的な上でギルモア自身が薬物不法所持による投獄や罰金で経済的苦境にあるのを考慮し、一時的な不参加を認めた様子です。サンダースは翌1965年にオーネット・コールマンの『Chappaqua Suite』、ジョン・コルトレーンの『Ascension』に招かれて注目され、1965年末にはジョン・コルトレーンの正式なバンドメンバーに起用されて1967年のコルトレーン急逝まで在籍し、やはりコルトレーンが目をかけていたアーチー・シェップ、アルバート・アイラーとともにコルトレーン門下生の若手テナー三羽烏と見なされる地位に着きますが、自分自身がリーダーとなるアルバムではシェップやアイラーほど個性の強いリーダーシップは発揮できなかったようです。コルトレーンにとってもサンダースとのツイン・テナーなら自分がバンドをコントロールできるが、シェップやアイラーとのツイン・テナー・バンドはまず考えられなかったでしょう。同じことがシェップやアイラーと同世代のギルモアにも言えて、アルトサックスのオーネット・コールマンの革新性を自分のテナー演奏に取り入れられないか試行錯誤していたコルトレーンに大きなヒントになったのがニューヨークに進出してきたサン・ラ・アーケストラの音楽性とジョン・ギルモアのテナー演奏でした。コルトレーンはさらにアルバート・アイラーのテナー演奏にショックを受けてアイラーの音楽性をバンドに取り入れようと考えるのですが、ファロア・サンダースはアイラーとコルトレーンの中間に位置するような演奏をするテナー奏者だったわけです。20代半ばだけあってサン・ラの本作と較べて翌年のオーネットやコルトレーンのアルバムでのサンダースの成長は1年足らずのうちに目覚ましいものですが、コルトレーンのバンドの1965年~1967年のサンダースでもやはりサン・ラの音楽の中では十分に役割を果たした上でギルモアのように突出した存在感を放つような演奏はできなかったのではないでしょうか。サンダース加入後のコルトレーンのバンドが演奏していたのもコルトレーン流のフリー・ジャズでサンダースは良い演奏をしているのですが、コルトレーンがサンダースのために花道を敷いているからこそ名演になっている印象が強く、サン・ラ・アーケストラの音楽とはフリー・ジャズでも方法的に相当な違いを感じさせます。フリー・ジャズは特定のイディオムがあるわけではなく各人各様だからフリーなので、コルトレーンやギルモア、シェップ、アイラーにはそれぞれ独自のコンセプトがありました。サンダースはそこがいまひとつ弱く、むしろ無名フルート奏者のハロルドが素直にサン・ラの音楽に乗っているのがわかるあたり、何だかんだ言っても凡手ではないサンダースでさえもギルモアの代役を勤めるのは難しかったのが他のポジションは流動的でもサックス・セクションだけはレギュラーで通してきたサン・ラ・アーケストラの音楽性だった事情が痛感されます。もっと後、'70年代後半や'80年代のサン・ラ、またサンダースなら音楽的に譲りあった演奏をしてみせたかもしれませんが、サン・ラは翌年の代表作『The Heliocentric World of Sun Ra』『Magic City』に向けてバンドを鍛え上げているところでした。本作のA2「The World Shadow」は『Magic City』中の代表曲でライヴの定番レパートリーになった「The Shadow World」の初期ヴァージョンです。
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(1977 Reissued El Saturn "Sun Ra Featuring Pharoah Sanders & Black Harold" LP Handpainted Side A & Side B Label)
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こうした動きとサン・ラはニューヨークのジャズ界で密接な位置にいたのですが、1964年に50歳を迎えたサン・ラ率いるアーケストラは1965年にESPに録音され、発売前からヨーロッパ各地と日本のジャズ誌にプロモーション盤が送られ一躍サン・ラの名前を世界に知らしめた『The Heliocentric World of Sun Ra』以降上り調子に入ります。サン・ラより一回り年下(1926年生まれ、コルトレーンと同年)のマイルス・デイヴィスのキャリアがメンバーの変遷、ライヴとアルバムの充実とは必ずしも関わりなく激しい振幅を示していくのとは対照的で、そもそも反時代的なポスト・バップの黒人ビッグバンドはディジー・ガレスピーですら維持できなかったのです。アーケストラがニューヨークに進出してきた時まっ先にサン・ラを励ましたのがディジーだったという美談がありますが、ディジー自身の苦い挫折がありサン・ラもまた5年あまりバンド解散の危機にさらされながらライヴの機会もほとんどなく発表の当てのないアルバムを作り続けていたのです。何もかもが無駄になる、という不安は常につきまとっていたでしょう。サン・ラを始めとしたアーケストラのメンバーの粘り強さには驚嘆を通り越して一種の諦観すら感じ、実際は時代がサン・ラに追いついた形が次々続き、アーケストラの音楽もアヴァンギャルド・ジャズからエレクトロニック・エクスペリメント、スペース・ジャズ・ファンクからエレクトリック・ビッグバンド、さらにソロ・ピアノでの実験を経てテクノポップ・ジャズ、アブストラクト・ジャズから1984年の『Nuclear War』ではプロト・ヒップホップまで進みますが、ついに最晩年までメジャー・レーベル専属のアーティストにはならず自主レーベルのサターンからのリリース、せいぜいローカルなインディー・レーベルのリリースが続くのです。アルバム売り上げでバンドが維持できた期間はほとんどないでしょう。膨大なアルバム制作とともに終わりのない巡業が続き、サン・ラ歿後25年近くを経た現在も今年93歳のマーシャル・アレンをリーダーに巡業とライヴ録音を続けているのです。アレン歿後の後継者もきっと決まっているのでしょう。グレン・ミラー楽団(創設者のミラーは第2次世界大戦に従軍中に戦死)のようになっているのですが、1964年にはその後のサン・ラ・アーケストラを予見できる批評家もリスナーも皆無でした。そうした成功前夜の記録として、『Sun Ra Featuring Pharoah Sanders & Black Harold』は録音後12年を経て発表された、サン・ラの公式アルバムではもっとも録音時期の古いライヴ・アルバムです(数曲ライヴを含むアルバムはこれ以前もありますが)。1976年はアーケストラがモントルー・ジャズ・フェスティヴァルでトリを勤めるまでになり、マイルス・デイヴィスが5年間の引退に入った年でした。本作は廃盤期間が長く続いたといえ初回プレスも重版し、翌'77年には再版がリリースされています。売る気があるのか、この方が稀少感があるのかよくわからないジャケット(再版は見本盤用白ジャケットにハンドペインティング・レーベル)はいったいどういう美意識の産物なのでしょうか。