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映画日記2017年7月16日~18日/イングマール・ベルイマン(1918-2007)の'50年代作品(2)

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 (『夏の夜は三たび微笑む』英語圏ポスター)

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 これまでのベルイマン監督作品13作中で最高の大ヒット作になったのは軽快な恋愛コメディの第11作『シークレット・オブ・ウーマン(女たちの期待)』(スヴェンスク・フィルム'52)だったようで、第12作『不良少女モニカ』(スヴェンスク・フィルム'53)もヒットした上にヒット実績以上の評価を獲得しましたが、独立プロに出向した野心作の第13作『道化師の夜』(サンドレウ=バウマンフィルム'53)は引き続き高い評価を得たものの興行成績は惨敗してしまいます。続く第14作『愛のレッスン』(スヴェンスク・フィルム)、第15作『女たちの夢』(サンドレウ=バウマンフィルム)、第16作『夏の夜は三たび微笑む』(スヴェンスク・フィルム)は結果的に恋愛コメディ三部作となりました。スヴェンスク・フィルムからの『愛のレッスン』は『シークレット・オブ~(女たちの期待)』の路線を要求されたものでしょうし、サンドレウ=バウマンフィルムからの『女たちの夢』は同社からの『道化師の夜』の損失を埋め合わせるためでした。『愛のレッスン』と『女たちの夢』はともにベルイマン自身の原案・単独脚本で一般的水準では十分優れたものでしたが『シークレット・オブ~(女たちの期待)』に比較すると一段か二段落ちる出来でした。しかしスヴェンスク社から喜劇という条件があったのもありますがさらに思い切ってコメディ色を強めた次作『夏の夜は三たび微笑む』はベルイマンの知らないうちにカンヌ映画祭に出品され、事実上その年のグランプリと並ぶ特設の「詩的ユーモア賞」を受賞し、『不良少女モニカ』あたりから国際的に知られるようになっていたベルイマンの名声を高めることになりました。その成功からベルイマンは長年暖めていた第17作『第七の封印』'57(カンヌ国際映画祭審査員特別賞)の映画化実現に続いて第18作『野いちご』'57(ベルリン国際映画祭金熊賞=グランプリ)、第19作『女はそれを待っている』'58(カンヌ国際映画祭監督賞)、第20作『魔術師』'58(ヴェネツィア国際映画祭審査員特別賞・イタリア批評家賞)、第21作『処女の泉』'60(カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞・アカデミー賞外国語映画賞)、第23作『鏡の中にある如く』'61(ベルリン国際映画祭国際カトリック映画事務局賞・アカデミー賞外国語映画賞)、第25作『沈黙』'63(黄金の蕾監督賞)と、フェリーニ、当時のアントニオーニと並ぶ国際映画賞常連監督になったのです。皮肉にも映画賞常連監督になってからのベルイマン作品からはコメディどころか恋愛要素も地を払ってしまったので、今回は巨匠と目される直前の3作をご紹介することになります。

●7月16日(日)
『愛のレッスン』En Lektion i karlek (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'54)*96min, B/W, Standard

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・昭和41年(1966年)8月日本公開。ベルイマン自作のオリジナル・シナリオで演出した恋愛コメディ。撮影はシューベルイ監督作品『もだえ』のマッティン・ボディーン、音楽はやはりシューベルイ監督作品『令嬢ジュリー』のダグ・ヴィレーンで、スヴェンスク・フィルムの会社指定と思われる。映画は踊るオルゴール人形に重なるナレーションから始まる。「これから始まる喜劇は悲劇になる可能性もありました。首尾良く上手く事が運んだのでめでたく喜劇になったのです」。中年の婦人科医ダーヴィッド(グンナル・ビョーンストランド)は診察室で猛烈に愛人の人妻スーサン夫人に結婚か別れかを迫られる。冷静に別れを告げるダーヴィッドにスーサン夫人は憤然として出て行き、次の女性患者の不倫相談中に口実を作って診察を中断し運転手サムの車で駅に急ぐ。駅までの車中でダーヴィッドは最初にスーサン夫人に迫られた時の事を思い出して苦笑し、サムに神は女を先に創って女の相手をするため男を創ったに違いない、と話す。列車に乗り込んだダーヴィッドはたまたま乗りあわせた商人と同室の美人をどちらが先に落とすか賭けをして勝つ。その美人は実はダーヴィッドの避暑地に別居中の妻マリアン(エーヴァ・ダールベック)だった。結婚生活16年目のダーヴィッドとマリアンは長女ニックス(ハリエット・アンデション)と推さない息子ペッレの2子があり、平凡だが円満な生活を送っていた。ところがダーヴィッドがスーサン夫人と愛人関係に陥ってから夫婦の間はうまくいかなくなった、とマリアンは回想する。そんな両親を見て年頃の娘ニックスは、恋愛なんて愚劣だと言ったり家出したり、はては父親に性転換したいとさえ訴える。驚いたダーヴィッドが家庭や愛情の問題について娘と真剣に話し合ううちに、ふと娘の口からマリアンの情事のことがもれた。相手は元マリアンの婚約者でダーヴィッドとも無二の親友だった彫刻家カール=アーダム(オーケ・グレーンベルイ)だった。そこまで回想したダーヴィッドは列車でマリアンと二人きりになると、夫婦ともマリリンとカール=アーダムの結婚式の最中に突然結婚の破談とダーヴィッドとマリアンの結婚披露に終わった大事件を回想する。駅ではカール=アーダムが出迎えていた。三人はコペンハーゲンの酒場へ飲みに出かけ、カール=アーダムはマリアンとの自由結婚を宣言し、商売女リスがカール=アーダムの計略でダーヴィッドを誘惑する。大げさに接吻する二人。それを見ていたマリアンヌはリスとダーヴィッドにくってかかって大騒動となり、疲れ、いつのまにかダーヴィッドの胸に抱かれていた。「優秀な戦略家とは、あらゆる可能性を見通さなくてはね」とダーヴィッドはつぶやき、ホテルの一室に消えたダーヴィッドとマリアンの部屋のドアにキューピッドが「愛のレッスン中」の札をかけ、オルゴール人形が踊って映画は終わる。要するに浮気性の夫が少し心を入れ替えるだけ(どれだけ反省したかは怪しいが)の話だが、この時までに正式な離婚・結婚だけで3回、スタッフや女優など手近なところで浮気すること数知れずの私生活だったベルイマンだけに本気で反省しているわけはないだろう。あらすじだけでも少し回想によるフラッシュバックは書いておいたが、実物はこれどころではなく回想回想また回想でもっと些末なエピソードが盛り込まれており、『シークレット・オブ・ウーマン(女たちの期待)』でエレヴェーターに閉じ込められた中年夫婦(本作と同じグンナル・ビョーンストランドとエーヴァ・ダールベック)の15分のシークエンスをフラッシュバックで拡張して90分を越える映画にしたものと言っていい。『道化師の夜』のサーカス団長アルベット役だったオーケ・グレーンベルイが妻をめぐる恋敵で親友のカール=アーダム役に起用されており、結婚式の大騒動でピアノをひっくり返し大テーブルにまで手をかける時の壁に張りついた列席者たちのリアクションが可笑しい。部分部分で光るものがあるが全体的には引き延ばしの印象が強く、第10作『夏の遊び』以来の回想の多用は今回内容に釣り合いがとれず複雑に過ぎて、しかも水増し的エピソードが多い。映画後半でオーケ・グレーンベルイが出てきてなんとか面白く観られたが、ビョーンストランドとダールベックの夫婦+親友兼恋敵グレーンベルイだけでこなすにはあまりに煩雑で、『シークレット~』や後出の『夏の夜は三たび微笑む』のように数組のカップルに性格を振り分けた方が内容・構成ともに無理がなかった。回想(しかも必ずしも時間軸通りには進まない)が多すぎて推進力に欠ける。水準を保つとはいえ『シークレット~』より一段落ちる。今回もオリジナル脚本によるのは感心するが、才人才に溺れるの観は否めない。

●7月17日(月)
『女たちの夢』Kvinnodrom (スウェーデン/サンドレウ=バウマンフィルム'55)*87min, B/W, Standard

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・日本未公開、日本版未映像ソフト化。撮影は『道化師の夜』(屋外撮影分)のヒルディング・ブラッド、音楽はストゥアート・ヨーリングでこの時期製作会社ごとにスタッフは流動的。女性ファッション写真エージェントのスーサン(エーヴァ・ダールベック)は売り出し中の新人モデル、ドーリス(ハリエット・アンデション)を起用した撮影セッションがはかばかしきなく一旦中断する。楽屋でドーリスはスーサンがイェテルボルイ市で会社社長を営む恋人ヘンリック(ウルフ・バルメ)がいる噂を聞く。楽屋にドーリスの婚約者パッレが間食の差し入れに来る。スーサンは撮影の続きはイェテルボルイでロケを行うとスポンサーを強引に承諾させ、一方ドーリスは些細なことで恋人に噛みつき、パッレが苦笑して去った後パッレの写真を破り捨てる。スタッフ一行は寝台車でイェテルボルイに向かう。同じ車室のスーサンとドーリスは寝つけず、スーサンは廊下に出て立ちすくむ。翌朝到着したスーサンは愛人ヘンリックの家を訪ねてヘンリックの妻子が外出するのを見、ヘンリックの会社に電話するが会議中だと迷惑がられる。ドーリスは街を歩くが、ショーウィンドーをのぞくドーリスに領事オットー(グンナル・ビョーンストランド)と名乗る中年紳士がドレスを選ばせて買い、さらに古美術店でネックレスを買い与える。ドーリスは感謝するが、撮影時刻なのに気づいてオットーを残して急ぐ。野外ロケの準備が済んでいた現場ではドーリスの遅刻にスーサンが怒りを爆発させて撮影を中止し、スタッフも撤収してドーリスは一人泣くが、またオットーに出会う。喫茶店で落ち着いた後で遊園地でジェットコースターや回転カップに乗るが、中年のオットーは息を切らしてしまう。オットーの家に招かれドーリスが昨日のドレスやネックレスを身に着けていると、突然オットーの娘マリアンが訪ねてくる。ドア越しの会話からドーリスはオットーの妻は数年前から精神病院に入院中で、家出して遊び暮らしているマリアンは時々金を無心に来るのを知る。シャンペン・グラスに気づいたマリアンは隣室のドーリスを見つけ、売春婦呼ばわりした上ネックレスをむしりとりドーリスに平手打ちして出ていく。一方ヘンリックと密会したスーサンは遠まわしに関係の解消を持ち出し、さらに現れた妻マッタの前ではっきり別れを告げる。耐えきれず泣くスーサンの部屋に一度出て行ったヘンリックが戻ったのでスーサンは一瞬希望を抱くが「鞄を忘れた」とすぐ出て行ってしまう。スーサンとドーリスが和解し、当初の予定どおりストックホルムでのスタジオ撮影に取りかかって映画は終わる。前作『愛のレッスン』の内容・構成上の無理を反省したか二人のヒロインに内容を振り分けたが、いかんせんそれぞれのストーリーを単純化しすぎて『シークレット~』より今度は二段落ちてしまった。初期最多撮影監督のグンナル・フィッシェルに較べてブラッドの撮影は硬質で冷たく、『道化師の夜』の屋外シーンも荒涼として良かったが本作でも撮影で持っているシーンが多い。ただし構図の細やかさではフィッシェルほどベルイマンの意を酌んでいないように思える。物語は労使関係にある二人のヒロイン、スーサンとドーリスが平行して描かれるがスーサンの方はまったく面白くない不倫話だし、ドーリスの方は短編映画に小さくまとまってしまうような話で有機的に絡まりあって相乗効果をもたらす次元に達していない。ベルイマン作品の成功作は本作で言えばパッレやマリアン、マッタのような素描程度に描かれた人物からも作品世界の奥行きを感じさせる巧みさがあったが、本作で名優グンナル・ビョーンストランド演じるオットーのエピソードはヒロインよりも孤独な中年男オットーの方が主役になってしまい別にドーリスというヒロインならではという話になっていないのに難がある。観ている時には感じないのだが観終えてあっけないなあと思ってしまうのはそうしたことからで、まとまりを取ってアイディアを出し惜しみしたように見える。遊園地の場面も思いつきめいていてまさか遊園地のシーンのためのイェテルボルイ市ロケ?と勘ぐってしまう(ロケ協賛地だったのかもしれない)。しかも興行価値を狙った本作はまたしても興行的惨敗に終わってしまうはめになった。前作、次作があるので三部作として1作ごとの試みを比較して楽しめるが、本作単独での魅力はこの時期のベルイマンにしては稀薄と思える。

●7月18日(火)
『夏の夜は三たび微笑む』Sommarnattens leende (スウェーデン'55)*104min, B/W, Standard

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・日本公開昭和32年(1957年)2月、1956年度カンヌ国際映画祭詩的ユーモア賞受賞作。同年のグランプリは『沈黙の世界』、監督賞はセルゲイ・ユトケヴィッチ『オセロ』、審査員特別賞は『ピカソ-天才の秘密』だから、劇映画として特別賞を設けた実質的なグランプリ作品だったろう。20世紀初頭、かつては伊達男だった中年弁護士フレードリック(グンナル・ビョーンストランド)は16歳の処女妻アン(ウッラ・ヤーコブソン)と再婚していたが、ある日昔愛人関係にあった女優デジレー(エーヴァ・ダールベック)と再開してヨリを戻しかけたことから現在のデジレーの愛人の軍人マルコム伯爵(ヤール・クッレ)といがみあう仲になる。デジレーは昔社交界で鳴らした妖婆じみた老母(ナイマ・ヴィーウストランド)主催のパーティーを利用してマルコム伯爵夫人シャロッテ(マルギット・カールクヴィスト)と共謀してデジレーとフレードリックの復縁と、シャロッテとマルコム伯爵の夫婦仲をフレードリックとマルコム伯爵をあえて対決させることから回復し、かつアンをフレードリックの先妻の息子の神学生ヘンリック(ビョーン・ビェルヴヴェンスタム)と駆け落ちさせるようアンのメイドのペートラ(ハリエット・アンデション)とデジレー家の御者フリード(オーケ・フリデル)に仕組ませて、4組のカップルがすべてめでたしめでたしとなるまでをベルイマン自身の原案・単独脚本、常連スタッフの撮影グンナル・フィッシェル、音楽エーリック・ノードグレーン、美術P・A・ルンドグレーンに加え衣装担当マゴで時代情緒もおおらかに描く。『愛のレッスン』『女たちの夢』から本作に移ると格段に驚異的な腕前の向上にあぜんとするが、『シークレット・オブ・ウーマン(女たちの期待)』から自然に出てきたものとしては理想的なのではないか。ジャン・ルノワールの大傑作『ゲームの規則』'39との類似は本作初公開時からフランスの映画批評界から指摘されており、ルノワールと同世代の'30年代フランス映画はフランス本国では戦後にはルノワール以外ほとんど忘れられていたが、ベルイマン自身の発言によるとスウェーデンではフランス映画はデュヴィヴィエやカルネが人気がありベルイマンも初期作品ではその影響を認める一方、ルノワールはスウェーデンではまったく上映されず『ゲームの規則』も観たことがないという。『ゲームの規則』は上流階級内で組んず解れつする数組の恋愛遊戯が結末では終末的な社会秩序の崩壊すら予感させる、シェークスピア喜劇で始まってドストエフスキーで終わるような、小説ではE・M・フォースターの『ハワーズ・エンド』1910に匹敵する傑作で、ベルイマンの本作はさすがにそこまでは達していない。狙い自体が『ハワーズ・エンド』や『ゲームの規則』とは違う。あくまで軽みを軽みのまま精密にしていった職人的作品で、ただし今回はすみずみまで観客を楽しませようとする工夫と創意に満ちている。本作では目立たないがベルイマンは日常的な犬猫を出すのが上手く、ベルイマン映画を観るとスウェーデンの犬や特に猫はなんて演技が上手いのか舌を巻くが、猫が最高の演技を見せるタイミングをつかむように俳優の最高の演技のタイミングをつかんでみせる。本作は前述のプロットに加えてあらすじを起こせば省略できるエピソードがないほど細かいシークエンスの積み重ねで出来ており、フランス映画で言えばフェデー→デュヴィヴィエ→カルネ→クレマンの系譜で細分化されてきた演出の精密度の先端にあって、リアリズムの次元でルノワールとは異質の資質と見た方がいいが、クレマンに至る系譜にはかえってフランス古典演劇のマリヴォー(『愛と偶然の戯れ』1730)やボーマルシェ(『フィガロの結婚』1784)からルノワールに流れ込んだ社会的把握によるドラマ形成の発想が乏しく、ベルイマンの本作も『ゲームの規則』の風刺的告発性はないが、社会的把握への指向はブルジョワ階級に限定されるにせよ感じられる。ただしベルイマンが現代社会批判に踏み込むとルノワールのように一見コメディに見えて痛烈な批判を秘めたものではなく、題材・内容からして深刻で悲劇的な方向に向かってしまう。次のベルイマン映画の喜劇は10作後の第26作『この女たちのすべてを語らないために』'64までなく(1960年の寓話作品『悪魔の眼』もあるが)その後は1982年の引退声明作『ファニーとアレクサンデル』までないと思うと一人の監督に望みすぎてはいけないとはいえ、喜劇は一旦これでやり尽くしたという気分だったのかもしれない。それほど充実した作品に文句は言えない。文句は翌年の次作『第七の封印』『野いちご』から始まる。

*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。

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