北村透谷(門太郎)・明治元年(1868年)12月29日生~明治27年(1894年)5月16日逝去(縊死自殺、享年25歳)。明治26年=1893年夏(24歳)、前年6月生の長女・英子と。
『楚囚之詩』明治22年(1889年)4月9日・春洋堂刊。四六判横綴・自序2頁、本文24頁。
第九
またひとあさ余は晩く醒め、
高く壁を伝ひてはひ登る日の光(め)
余は吾花嫁の方に先づ眼を送れば、
こは如何に! 影もなき吾が花嫁!
思ふに彼は他の獄舎(ひとや)に送られけん、
余が睡眠(ねむり)の中に移されたりけん、
とはあはれな! 一目なりと一せきなりと、
(何ぜ、言葉を交はす事は許されざれば)
永別(わかれ)の印をかはす事もかなはざりけん!
三個(みたり)の壮士もみな影を留めぬなり、
ひとり此広間に余を残したり、
朝寝の中に見たる夢の偽りなりき、
噫(ああ)偽りの夢! 皆な往けり!
往けり、我愛も!
また同盟の真友も!
[ 第九 ]
・全15行、この第九章ではある日寝過ごして起きるとそれまで同じ獄舎に拘置されていた恋人の姿もない、また三人の少年壮士もいない、別れのあいさつも交わせなかった、と詠嘆されます。この章も短いだけに対句単位をなす韻律と脚韻が露わなまでに技巧的に駆使されていますが、内容にはずいぶん疑問が湧きます。語り手「余」が謀叛グループのリーダーならばまず移送されたメンバーの処遇を冷静に推察するでしょう。取り調べのための一時的な移送であったり、個別のメンバーの事情によっては実刑に移った可能性や、執行猶予つき釈放や親族の援助による保釈もあり得るはずです。極端な場合処刑された可能性すらあるのです。しかし『楚囚之詩』の「余」は詠嘆するばかりなので、これでは浮かばれないな、とあまりにリーダーの責任感(能力と言い換えてもいいですが)の欠如が棚上げにされています。あるいは語り手「余」はそれらを心配しないでもいい前提に立っている、としましょう。すると語り手の中途半端な全知全能性がこの詩のリアリティの水準を混乱させることになります。物語性の稀薄な抒情詩ですらフィクション作品には客観描写の公正さと、視点人物がどこまで何を知り、どこからは知り得ないかの一貫性が不可欠です。坪内逍遥の文学近代化宣言『小説神髄』(明治18年=1885年)が英文学を援用して主張しているのもフィクションにおけるリアリティの意義でした。江戸時代後期のフィクション作品、例えば山東京傳(1761-1816)や曲亭馬琴(1767-1847)、柳亭種彦(1783-1843)の長編伝奇小説には「高潔な武士」「貞女の鑑」と叙述された人物が次の章では当然のように政敵や養子を虐殺します。これは江戸時代前期~中期の井原西鶴(1641-1693)や近松門左衛門(1653-1724)、上田秋成(1734-1809)の小説や浄瑠璃、また江戸時代後期でも町人を描いた式亭三馬(1776-1822)のユーモア小説や為永春水(1790-1843)の恋愛小説には目立たず、さらにかえって鶴屋南北(1755-1829)や河竹黙阿弥(1816-1893)ら歌舞伎の分野や幕末~明治に渡る三遊亭圓朝(1839-1900)の新作落語など舞台芸能作品では性格の一貫性が守られていたのです。なぜかというと江戸時代後期には原則的に現代小説の執筆発表が禁止されており、士族階級以上の登場人物を描くのは幕府批判として厳禁でした。三馬や春水の場合は町人社会の他愛ない世相小説なので現代小説でも一応大目に見られたわけです。しかしもっとダイナミックな長編小説を書こうとすると士族階級のドラマを描かねばならない。描いて良いのは鎌倉時代までの時代小説が限度とされている。しかも人物の性格描写は士族なら必ず高潔・貞女としなければならず、物語は必ず徳川幕府の規範に沿った勧善懲悪にしなければならない。これではフィクションのリアリティに一貫性を通しようもありません。町人社会の恋愛小説には曲山人(生没年不詳)の『假名文章娘節用』(1831-1834)という、近松の心中物を下敷きに西鶴の世話物の物語性を引き継いだ江戸時代後期唯一のリアリズム長編悲劇小説の傑作があります。しかし江戸時代後期の小説は鎌倉時代の士族社会を描こうと徳川時代の町人現代社会を描こうと作品の内部ではなく作品外部の倫理コードにフィクションの基準を合わせたものであり、それではフィクション自体の自律性を欠いたものになるのも仕方ありません。曲山人が例外的にリアリズム小説を書き得たのは徳川幕府の倫理コードに抵触せずに町人社会のドラマチックな悲劇を描く着想を得たからで、京傳や馬琴は士族階級のドラマしか描けず不自然な時代小説になり(京傳の本領は町人を描いた軽い短編現代小説にありました)、三馬や春水の小説には町人社会の日常的で肯定的な側面しか描かれませんでした。『假名文章娘節用』で曲山人が描いた町人社会の悲劇は幕府の目をすり抜けるものでしたが、町人社会自体が幕府の管理する身分制度によって自由を制限されたものである以上、そこで起こる悲劇は現実の不条理を反映したものに他なりません。『楚囚之詩』第九章からやや話が逸れましたが、『楚囚之詩』が坪内逍遥の徳川時代小説批判とフィクションの近代化を提唱した『小説神髄』からまだ4年しか経ていない年の作品であること、また透谷が東京専門学校(現・早稲田大学)政治学科に入学した明治16年(1883年)は逍遥が同校の西洋史・西洋憲法講師に就任した年で、透谷の退学時期は特定できませんが明治21年(1888年)の友人への書簡で逍遥の小説を批判していること(批判は関心の裏返しです)からも透谷が『小説神髄』を参看していないはずはありません。透谷には後期江戸文学論「徳川氏時代の平民的理想」もあります。さらに『楚囚之詩』の「自序」で透谷自身が「元とより是は吾国語の所謂歌でも詩でもありませぬ、寧ろ小説に似て居るのです。左れど、是れでも詩です、余は此様にして余の詩を作り始めませう。」とも宣言しています。しかし第五章以降混乱の著しい設定について「又た此篇の楚囚は今日の時代に意を寓したものではありませぬから獄舎の模様なども必らず違つて居ます。」と虚構性を認めた上で「唯だ獄中にありての感情、境遇などは聊(いささ)か心を用ひた処です。」とするなら、まさに「獄中にありて」の「境遇」に一貫性がなければ「感情」に説得力もないでしょう。第九章の唐突な恋人と少年壮士たちの移送は獄中ドラマの展開に詰まった詩人の強引な思いつきで、全16章の折り返し点にあまりに不自然なこの章があるのは後半の展開に不安を抱かせずにはいられません。この章で透谷は「吾花嫁」も「三個の壮士」も生きた作中人物ではなく単なる物語詩のための仕掛けにしてしまったので、語り手「余」の関心は移送された彼らへの心配ではなくひとり取り残された「余」の詠嘆にしか向かわないのも当然です。それでは次の章も何となく予想がつくというものです。
第十
倦(う)み来りて、記憶も歳月も皆な去りぬ、
寒くなり暖(あつ)くなり、春、秋、と過ぎぬ、
暗さ物憂さにも余は感情を失ひて
今は唯だ膝を組む事のみ知りぬ、
罪も望も、世界も星辰(せいしん)も皆尽きて、
余にはあらゆる者皆な、……無に帰して
たゞ寂寥、……微かなる呼吸――
生死の闇の響きなる、
甘き愛の花嫁も、身を抛(なげう)ちし国事も
忘れては、もう夢とも又た現とも!
嗚呼数歩を運べずすなはち壁、
三回(みたび)まはれば疲る、流石に余が足も!
[ 第十 ]
・全12行=4行+4行(2行+2行)+4行=A+B+'A、というとまるでブルース形式そのままですが、Aと'Aは同じ韻律と押韻構造を持っていますから形式には実に配慮の行き届いた章です。しかし内容は支離滅裂甚だしいもので、ひたすら禁固刑状態にあると詠われてはいるものの、この禁固の実体はレトリックばかりで具体性がまるでない。運動や沐浴も許されていないようですし刑務官の巡回もなく、衣類の替えも食事すらもないように描かれています。「獄舎」に向ける透谷の想像力は純粋に精神的・感覚的苦痛にしかないので、具体的な監禁環境を想定して肉体的な裏づけを与える発想はありません。禁固刑の目的は死刑とは違い生きたまま長く監禁する懲罰ですから、健康面ではむしろ保護されている、とも言えます。この場合の保護はイコール監禁なのですが、長期間の禁固刑状態ならばこそ「獄舎」なりの衣食住環境は整備されている、という皮肉があります。ですが透谷は楚囚という設定に具体性を与えることはせず、監禁とは単にゼロ状態にあることとして描いています。肉体が仮死にされ精神(たま)だけが生きている状態、というのがこの詩の「獄舎」です。この精神は「甘き愛の花嫁」や「身を抛ちし国事」と口癖のようにくり返しますが、恋人についてはこれまでも相当饒舌なノロケを聞かされましたが、「国事」の方は大層だったとほのめかされるばかりで一向に事情を詳らかにしません。禁固刑というのも第十章の叙述からの推測ですが第一章の調子からは裁判があったとも思えません。これも作品の外部にフィクションの基準を委ねたせいであり、これでは作品意識は徳川時代の文学作品と変わりません。一体に『楚囚之詩』の透谷は具体性に触れそうな面はレトリックではぐらかす癖があり、レトリックにレトリックを重ねた結果招いた矛盾からますますリアリティが失われていく、という誤算が章を重ねるごとに目立っています。第十章の過剰なレトリックは明らかにやりすぎで、これではまるで自分が処刑されたのを知らない獄舎の呪縛霊の嘆き歌です。
第十一
余には日と夜との区別なし、
左れど余の倦みたる耳にも聞きし、
暁けの鶏や、また塒(ねぐら)に急ぐ烏の声、
兎(と)は言へ其形……想像の外には曽(か)つて見ざりし。
ひと宵(よい)余は早くより木の枕を
窓下に推し当て、眠りの神を
祈れども、まだこの疲れたる脳は安まらず、
半分(なかば)眠り――且つ死し、なほ半分は
生きてあり、――とは願はぬものを。
突如窓を叩いて余が霊を呼ぶ者あり
あやにくに余は過にし花嫁を思い出でたり、
弱き腰を引立て、窓に飛上らんと企てしに、
こは如何に! 何者……余が顔を撃ちたり!
計らざりき、幾年月の久しきに、
始めて世界の生物が見舞ひ来れり。
彼は獄舎の中を狭しと思はず、
梁の上梁の下俯仰(ふぎよう)自由に羽(は)を伸ばす、
能(よ)き友なりや、こは太陽に嫌はれし蝙蝠(こうもり)、
我が無聊(ぶりよう)を訪ね来れり、獄舎の中を厭はず、
想ひ見る! 此は我花嫁の化身ならずや
嗚呼約せし事望みし事は遂に来らず、
忌はしき形を仮りて、我を慕ひ来るとは!
ても可憐(あわれ)な! 余は蝙蝠を去らしめず。
[ 第十一 ]
・韻律と脚韻構造は23行=4行+5行+6行(2行+4行)+8行(4行+4行)。最終連8行(4行+4行)の「~獄舎の中を厭はず、/想ひ見る!~」の改行は4行+4行の2連にまたがる大胆な用法で、蒲原有明・薄田泣菫の円熟期の作品まで見られないものです。さて、第十一章はようやく動きが出てきました。冒頭の4行+5行はやや冗長な導入部ですが、第10行で突然侵入者が現れます。それは第13行で「余」の顔を打ち、第18行で正体を蝙蝠と明かします。恋人の代わりにこの蝙蝠が心の慰めに来てくれたのだ、「忌はしき形を仮りて、我を慕ひ来るとは!/ても可憐(あわれ)な! 余は蝙蝠を去らしめず。」という結びは、次回もこの蝙蝠をめぐる章になる予告でもあり、ようやく具体的な事件を通して楚囚の心情を描くアイディアをつかんだ透谷の筆の弾みでもあるでしょう。冒頭の4行+5行の導入部は後から付け足された、または冗長を承知で加筆修正されたものかもしれません。
第十二
余には穢(きた)なき衣類のみなれば、
是を脱ぎ、蝙蝠に投げ与ふれば、
彼は喜びて衣類と共に床に落ちたり、
余ははひ寄りて是を抑ゆれば、
蝙蝠は泣けり、サモ悲しき声にて、
何(な)ぜなれば、彼はなほ自由を持つ身なれば、
恐るゝな! 捕ふる人は自由を失ひたれ、
卿(おんみ)を捕ふるに……野心は絶えて無ければ。
嗚呼! 是(こ)は一の蝙蝠!
余が花嫁は斯(かか)る悪(に)くき顔にては!
左れど余は彼を逃げ去らしめず、
何ぜ……此生物は余が友となり得れば、
好し……暫時(しばし)獄中に留め置かんに、
左れど如何にせん? 彼を留め置くには?
吾に力なきか、此一獣を留置くにさへ?
傷ましや! なほ自由あり、此の獣には。
余は彼を放ちやれり、
自由の獣……彼は喜んで、
疾(と)く獄窓を逃げ出たり。
-------------------------------------------
次ぎの画は甚しき失策でありました、是れでも著名なる画家と熱心なる彫刻師との手に成りたる者です。野辺の夕景色としか見えませぬが、獄舎の中と見て下さらねば困ります。
-------------------------------------------
[ 第十二 ]
・全19行、3字下げの末尾3行までの10行は不規則に行末「~ば、」で脚韻を踏む文語自由詩で、韻律形式よりも物語性を重視した章です。前章で「余は蝙蝠を去らしめず。」と前振りをしてあるため、第十二章は単刀直入に衣類を投げて蝙蝠を捕らえたこと、だがその哀れさと蝙蝠の訪れを恋人との思いに重ねて慰めとする虚しさにすぐ解放し、蝙蝠が窓から飛び去っていくまでを叙述します。透谷の意図ではないかもしれませんがこの章の場景にはサイレント映画の悲喜劇的場面のような無言の滑稽と哀愁があり、映画の発明は『楚囚之詩』から5年後、劇映画の発展までにさらに20年後と思うと、視覚的な物語性に興味を集中した第十二章は映画の発明以前のシナリオ的物語詩として面白い着想です。透谷の発想はおそらく徳川時代の草双紙(大人の読者向けの物語木版絵本)に由来すると思われ、典型的な草双紙風木版挿画が章末を飾ります。透谷自身が「甚しき失策」と弁明しているこの挿画は作者不明らしいのですが、『楚囚之詩』のために依頼して描いてもらい、第十二章の視覚的効果を挿画によってさらに印象づけようとしたもので、透谷もこの章を作中の劇的なエピソードと見ていたということです。失策と言いながら弁明つきで掲載したのは描き直し、または他の画家に依頼し直す余裕はなかったものの、自費出版詩集のためにせっかく用意した挿画を没とするに忍びなかったのでしょう。弁明部分が「自序」と同様に口語文で書かれているのは詩集『楚囚之詩』の中で「自序」とこの弁明は長編詩「楚囚之詩」とは別々のパートであると示します。透谷の口語文を読むと明治22年(1889年)にはまだ安定した日本語の口語文は確立されておらず、漢文脈の文語自由詩以外には長編詩「楚囚之詩」は書き得なかったのも詩に適した口語文体の獲得以前だったからです(二葉亭四迷の明治20年作品『浮雲』の自在な口語体小説とは対照的です)。不幸な夭逝を避け得て盟友・島崎藤村のように熟成した文業を成したら、透谷も口語文による創作に進めたか、短い晩年の抒情的な短詩を読むと案外軽やかな作風にも才能が感じられるだけ透谷の才能は未完成なまま途絶した印象が強いのです。
『楚囚之詩』明治22年(1889年)4月9日・春洋堂刊。四六判横綴・自序2頁、本文24頁。
第九
またひとあさ余は晩く醒め、
高く壁を伝ひてはひ登る日の光(め)
余は吾花嫁の方に先づ眼を送れば、
こは如何に! 影もなき吾が花嫁!
思ふに彼は他の獄舎(ひとや)に送られけん、
余が睡眠(ねむり)の中に移されたりけん、
とはあはれな! 一目なりと一せきなりと、
(何ぜ、言葉を交はす事は許されざれば)
永別(わかれ)の印をかはす事もかなはざりけん!
三個(みたり)の壮士もみな影を留めぬなり、
ひとり此広間に余を残したり、
朝寝の中に見たる夢の偽りなりき、
噫(ああ)偽りの夢! 皆な往けり!
往けり、我愛も!
また同盟の真友も!
[ 第九 ]
・全15行、この第九章ではある日寝過ごして起きるとそれまで同じ獄舎に拘置されていた恋人の姿もない、また三人の少年壮士もいない、別れのあいさつも交わせなかった、と詠嘆されます。この章も短いだけに対句単位をなす韻律と脚韻が露わなまでに技巧的に駆使されていますが、内容にはずいぶん疑問が湧きます。語り手「余」が謀叛グループのリーダーならばまず移送されたメンバーの処遇を冷静に推察するでしょう。取り調べのための一時的な移送であったり、個別のメンバーの事情によっては実刑に移った可能性や、執行猶予つき釈放や親族の援助による保釈もあり得るはずです。極端な場合処刑された可能性すらあるのです。しかし『楚囚之詩』の「余」は詠嘆するばかりなので、これでは浮かばれないな、とあまりにリーダーの責任感(能力と言い換えてもいいですが)の欠如が棚上げにされています。あるいは語り手「余」はそれらを心配しないでもいい前提に立っている、としましょう。すると語り手の中途半端な全知全能性がこの詩のリアリティの水準を混乱させることになります。物語性の稀薄な抒情詩ですらフィクション作品には客観描写の公正さと、視点人物がどこまで何を知り、どこからは知り得ないかの一貫性が不可欠です。坪内逍遥の文学近代化宣言『小説神髄』(明治18年=1885年)が英文学を援用して主張しているのもフィクションにおけるリアリティの意義でした。江戸時代後期のフィクション作品、例えば山東京傳(1761-1816)や曲亭馬琴(1767-1847)、柳亭種彦(1783-1843)の長編伝奇小説には「高潔な武士」「貞女の鑑」と叙述された人物が次の章では当然のように政敵や養子を虐殺します。これは江戸時代前期~中期の井原西鶴(1641-1693)や近松門左衛門(1653-1724)、上田秋成(1734-1809)の小説や浄瑠璃、また江戸時代後期でも町人を描いた式亭三馬(1776-1822)のユーモア小説や為永春水(1790-1843)の恋愛小説には目立たず、さらにかえって鶴屋南北(1755-1829)や河竹黙阿弥(1816-1893)ら歌舞伎の分野や幕末~明治に渡る三遊亭圓朝(1839-1900)の新作落語など舞台芸能作品では性格の一貫性が守られていたのです。なぜかというと江戸時代後期には原則的に現代小説の執筆発表が禁止されており、士族階級以上の登場人物を描くのは幕府批判として厳禁でした。三馬や春水の場合は町人社会の他愛ない世相小説なので現代小説でも一応大目に見られたわけです。しかしもっとダイナミックな長編小説を書こうとすると士族階級のドラマを描かねばならない。描いて良いのは鎌倉時代までの時代小説が限度とされている。しかも人物の性格描写は士族なら必ず高潔・貞女としなければならず、物語は必ず徳川幕府の規範に沿った勧善懲悪にしなければならない。これではフィクションのリアリティに一貫性を通しようもありません。町人社会の恋愛小説には曲山人(生没年不詳)の『假名文章娘節用』(1831-1834)という、近松の心中物を下敷きに西鶴の世話物の物語性を引き継いだ江戸時代後期唯一のリアリズム長編悲劇小説の傑作があります。しかし江戸時代後期の小説は鎌倉時代の士族社会を描こうと徳川時代の町人現代社会を描こうと作品の内部ではなく作品外部の倫理コードにフィクションの基準を合わせたものであり、それではフィクション自体の自律性を欠いたものになるのも仕方ありません。曲山人が例外的にリアリズム小説を書き得たのは徳川幕府の倫理コードに抵触せずに町人社会のドラマチックな悲劇を描く着想を得たからで、京傳や馬琴は士族階級のドラマしか描けず不自然な時代小説になり(京傳の本領は町人を描いた軽い短編現代小説にありました)、三馬や春水の小説には町人社会の日常的で肯定的な側面しか描かれませんでした。『假名文章娘節用』で曲山人が描いた町人社会の悲劇は幕府の目をすり抜けるものでしたが、町人社会自体が幕府の管理する身分制度によって自由を制限されたものである以上、そこで起こる悲劇は現実の不条理を反映したものに他なりません。『楚囚之詩』第九章からやや話が逸れましたが、『楚囚之詩』が坪内逍遥の徳川時代小説批判とフィクションの近代化を提唱した『小説神髄』からまだ4年しか経ていない年の作品であること、また透谷が東京専門学校(現・早稲田大学)政治学科に入学した明治16年(1883年)は逍遥が同校の西洋史・西洋憲法講師に就任した年で、透谷の退学時期は特定できませんが明治21年(1888年)の友人への書簡で逍遥の小説を批判していること(批判は関心の裏返しです)からも透谷が『小説神髄』を参看していないはずはありません。透谷には後期江戸文学論「徳川氏時代の平民的理想」もあります。さらに『楚囚之詩』の「自序」で透谷自身が「元とより是は吾国語の所謂歌でも詩でもありませぬ、寧ろ小説に似て居るのです。左れど、是れでも詩です、余は此様にして余の詩を作り始めませう。」とも宣言しています。しかし第五章以降混乱の著しい設定について「又た此篇の楚囚は今日の時代に意を寓したものではありませぬから獄舎の模様なども必らず違つて居ます。」と虚構性を認めた上で「唯だ獄中にありての感情、境遇などは聊(いささ)か心を用ひた処です。」とするなら、まさに「獄中にありて」の「境遇」に一貫性がなければ「感情」に説得力もないでしょう。第九章の唐突な恋人と少年壮士たちの移送は獄中ドラマの展開に詰まった詩人の強引な思いつきで、全16章の折り返し点にあまりに不自然なこの章があるのは後半の展開に不安を抱かせずにはいられません。この章で透谷は「吾花嫁」も「三個の壮士」も生きた作中人物ではなく単なる物語詩のための仕掛けにしてしまったので、語り手「余」の関心は移送された彼らへの心配ではなくひとり取り残された「余」の詠嘆にしか向かわないのも当然です。それでは次の章も何となく予想がつくというものです。
第十
倦(う)み来りて、記憶も歳月も皆な去りぬ、
寒くなり暖(あつ)くなり、春、秋、と過ぎぬ、
暗さ物憂さにも余は感情を失ひて
今は唯だ膝を組む事のみ知りぬ、
罪も望も、世界も星辰(せいしん)も皆尽きて、
余にはあらゆる者皆な、……無に帰して
たゞ寂寥、……微かなる呼吸――
生死の闇の響きなる、
甘き愛の花嫁も、身を抛(なげう)ちし国事も
忘れては、もう夢とも又た現とも!
嗚呼数歩を運べずすなはち壁、
三回(みたび)まはれば疲る、流石に余が足も!
[ 第十 ]
・全12行=4行+4行(2行+2行)+4行=A+B+'A、というとまるでブルース形式そのままですが、Aと'Aは同じ韻律と押韻構造を持っていますから形式には実に配慮の行き届いた章です。しかし内容は支離滅裂甚だしいもので、ひたすら禁固刑状態にあると詠われてはいるものの、この禁固の実体はレトリックばかりで具体性がまるでない。運動や沐浴も許されていないようですし刑務官の巡回もなく、衣類の替えも食事すらもないように描かれています。「獄舎」に向ける透谷の想像力は純粋に精神的・感覚的苦痛にしかないので、具体的な監禁環境を想定して肉体的な裏づけを与える発想はありません。禁固刑の目的は死刑とは違い生きたまま長く監禁する懲罰ですから、健康面ではむしろ保護されている、とも言えます。この場合の保護はイコール監禁なのですが、長期間の禁固刑状態ならばこそ「獄舎」なりの衣食住環境は整備されている、という皮肉があります。ですが透谷は楚囚という設定に具体性を与えることはせず、監禁とは単にゼロ状態にあることとして描いています。肉体が仮死にされ精神(たま)だけが生きている状態、というのがこの詩の「獄舎」です。この精神は「甘き愛の花嫁」や「身を抛ちし国事」と口癖のようにくり返しますが、恋人についてはこれまでも相当饒舌なノロケを聞かされましたが、「国事」の方は大層だったとほのめかされるばかりで一向に事情を詳らかにしません。禁固刑というのも第十章の叙述からの推測ですが第一章の調子からは裁判があったとも思えません。これも作品の外部にフィクションの基準を委ねたせいであり、これでは作品意識は徳川時代の文学作品と変わりません。一体に『楚囚之詩』の透谷は具体性に触れそうな面はレトリックではぐらかす癖があり、レトリックにレトリックを重ねた結果招いた矛盾からますますリアリティが失われていく、という誤算が章を重ねるごとに目立っています。第十章の過剰なレトリックは明らかにやりすぎで、これではまるで自分が処刑されたのを知らない獄舎の呪縛霊の嘆き歌です。
第十一
余には日と夜との区別なし、
左れど余の倦みたる耳にも聞きし、
暁けの鶏や、また塒(ねぐら)に急ぐ烏の声、
兎(と)は言へ其形……想像の外には曽(か)つて見ざりし。
ひと宵(よい)余は早くより木の枕を
窓下に推し当て、眠りの神を
祈れども、まだこの疲れたる脳は安まらず、
半分(なかば)眠り――且つ死し、なほ半分は
生きてあり、――とは願はぬものを。
突如窓を叩いて余が霊を呼ぶ者あり
あやにくに余は過にし花嫁を思い出でたり、
弱き腰を引立て、窓に飛上らんと企てしに、
こは如何に! 何者……余が顔を撃ちたり!
計らざりき、幾年月の久しきに、
始めて世界の生物が見舞ひ来れり。
彼は獄舎の中を狭しと思はず、
梁の上梁の下俯仰(ふぎよう)自由に羽(は)を伸ばす、
能(よ)き友なりや、こは太陽に嫌はれし蝙蝠(こうもり)、
我が無聊(ぶりよう)を訪ね来れり、獄舎の中を厭はず、
想ひ見る! 此は我花嫁の化身ならずや
嗚呼約せし事望みし事は遂に来らず、
忌はしき形を仮りて、我を慕ひ来るとは!
ても可憐(あわれ)な! 余は蝙蝠を去らしめず。
[ 第十一 ]
・韻律と脚韻構造は23行=4行+5行+6行(2行+4行)+8行(4行+4行)。最終連8行(4行+4行)の「~獄舎の中を厭はず、/想ひ見る!~」の改行は4行+4行の2連にまたがる大胆な用法で、蒲原有明・薄田泣菫の円熟期の作品まで見られないものです。さて、第十一章はようやく動きが出てきました。冒頭の4行+5行はやや冗長な導入部ですが、第10行で突然侵入者が現れます。それは第13行で「余」の顔を打ち、第18行で正体を蝙蝠と明かします。恋人の代わりにこの蝙蝠が心の慰めに来てくれたのだ、「忌はしき形を仮りて、我を慕ひ来るとは!/ても可憐(あわれ)な! 余は蝙蝠を去らしめず。」という結びは、次回もこの蝙蝠をめぐる章になる予告でもあり、ようやく具体的な事件を通して楚囚の心情を描くアイディアをつかんだ透谷の筆の弾みでもあるでしょう。冒頭の4行+5行の導入部は後から付け足された、または冗長を承知で加筆修正されたものかもしれません。
第十二
余には穢(きた)なき衣類のみなれば、
是を脱ぎ、蝙蝠に投げ与ふれば、
彼は喜びて衣類と共に床に落ちたり、
余ははひ寄りて是を抑ゆれば、
蝙蝠は泣けり、サモ悲しき声にて、
何(な)ぜなれば、彼はなほ自由を持つ身なれば、
恐るゝな! 捕ふる人は自由を失ひたれ、
卿(おんみ)を捕ふるに……野心は絶えて無ければ。
嗚呼! 是(こ)は一の蝙蝠!
余が花嫁は斯(かか)る悪(に)くき顔にては!
左れど余は彼を逃げ去らしめず、
何ぜ……此生物は余が友となり得れば、
好し……暫時(しばし)獄中に留め置かんに、
左れど如何にせん? 彼を留め置くには?
吾に力なきか、此一獣を留置くにさへ?
傷ましや! なほ自由あり、此の獣には。
余は彼を放ちやれり、
自由の獣……彼は喜んで、
疾(と)く獄窓を逃げ出たり。
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次ぎの画は甚しき失策でありました、是れでも著名なる画家と熱心なる彫刻師との手に成りたる者です。野辺の夕景色としか見えませぬが、獄舎の中と見て下さらねば困ります。
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[ 第十二 ]
・全19行、3字下げの末尾3行までの10行は不規則に行末「~ば、」で脚韻を踏む文語自由詩で、韻律形式よりも物語性を重視した章です。前章で「余は蝙蝠を去らしめず。」と前振りをしてあるため、第十二章は単刀直入に衣類を投げて蝙蝠を捕らえたこと、だがその哀れさと蝙蝠の訪れを恋人との思いに重ねて慰めとする虚しさにすぐ解放し、蝙蝠が窓から飛び去っていくまでを叙述します。透谷の意図ではないかもしれませんがこの章の場景にはサイレント映画の悲喜劇的場面のような無言の滑稽と哀愁があり、映画の発明は『楚囚之詩』から5年後、劇映画の発展までにさらに20年後と思うと、視覚的な物語性に興味を集中した第十二章は映画の発明以前のシナリオ的物語詩として面白い着想です。透谷の発想はおそらく徳川時代の草双紙(大人の読者向けの物語木版絵本)に由来すると思われ、典型的な草双紙風木版挿画が章末を飾ります。透谷自身が「甚しき失策」と弁明しているこの挿画は作者不明らしいのですが、『楚囚之詩』のために依頼して描いてもらい、第十二章の視覚的効果を挿画によってさらに印象づけようとしたもので、透谷もこの章を作中の劇的なエピソードと見ていたということです。失策と言いながら弁明つきで掲載したのは描き直し、または他の画家に依頼し直す余裕はなかったものの、自費出版詩集のためにせっかく用意した挿画を没とするに忍びなかったのでしょう。弁明部分が「自序」と同様に口語文で書かれているのは詩集『楚囚之詩』の中で「自序」とこの弁明は長編詩「楚囚之詩」とは別々のパートであると示します。透谷の口語文を読むと明治22年(1889年)にはまだ安定した日本語の口語文は確立されておらず、漢文脈の文語自由詩以外には長編詩「楚囚之詩」は書き得なかったのも詩に適した口語文体の獲得以前だったからです(二葉亭四迷の明治20年作品『浮雲』の自在な口語体小説とは対照的です)。不幸な夭逝を避け得て盟友・島崎藤村のように熟成した文業を成したら、透谷も口語文による創作に進めたか、短い晩年の抒情的な短詩を読むと案外軽やかな作風にも才能が感じられるだけ透谷の才能は未完成なまま途絶した印象が強いのです。