ジャック・フェデーを筆頭にジュリアン・デュヴィヴィエ、ルネ・クレール、マルセル・カルネとともにフランスの古典映画の5大監督の一人とされるジャン・ルノワール(1894-1979)はフランス印象派絵画の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワールの次男に生まれ、裕福な芸術的環境に育って陶芸を手がけていましたが、父の絵画モデルの一人だったカトリーヌ・エスランとの結婚後にイヴァン・モジューヒン『火花する恋』やE・フォン・シュトロハイム『愚なる妻』に刺戟され新興芸術ジャンルだった映画に傾倒。映画製作プロダクションを起こし夫人を主演女優にした『カトリーヌ』'24のプロデュース・脚本を経て初監督作『水の娘』を発表。以後'30年代のトーキー時代にはフランス映画を代表する存在になりました。第二次世界大戦の激化からアメリカに移住し40年代はハリウッドの映画監督となり、フランス帰国後の50年代には寡作に、60年代には映画界からは半引退状態で、'69年の『ジャン・ルノワールの小劇場』まで35作の長編映画を残して再びアメリカに渡って文筆家としての余生を送り、'79年にハリウッドで逝去しました。'50年代以降は後のヌーヴェル・ヴァーグを担う新進映画監督たちからフランス最高の映画作家と敬愛されましたが一般の観客には古い世代の監督とされて人気は凋落し、長いキャリアの全時期の作品が再評価されるようになったのは歿後のことになりました。英文学者の吉田健一はイーヴリン・ウォーを優れた資質が良い陽当たりで育った大樹のような小説家と評しましたが、ルノワールも紆余曲折ありながら始終一貫して逞しい成長力を誇った人です。今は家庭用ソフトでほぼ全作品が入手できるようになり、手持ちのルノワール作品も20作以上になりましたので、年末らしくのんびり観直してみたいと思います。
12月6日(火)サイレント時代のジャン・ルノワール
ジャン・ルノワール『水の娘』(フランス'24)*72mins, Silent, B/W
・粗暴で好色な伯父に虐げられて暮らす少女が村を訪れた好青年に助けられて結ばれるメルヘン調の監督第1作。良く言えば表現が多彩、悪く言えば演出に一貫性が欠ける。伯父の性格描写など妙に生々しいのに森の中で眠り込んだ少女の夢などはシュルレアリスム的な幻想、好青年が登場すると1910年代の牧歌的アメリカ映画のように明朗なタッチになる。夫人を主演に映画を撮り続けたフランスの監督には'24年3月に急逝したルイ・デリュックがおり、夫人のイーヴ・フランシスの抑制のきいた演技とデリュックの統一感ある演出で小粒ながら成功していた。エスランはフランシスよりずっと派手目の美人ながら、こう言っては身も蓋もないが主演女優としての品位に欠ける。この時代の第一線のフランス映画監督、アベル・ガンス、マルセル・レルビエ、ジュルメーヌ・デュラック、ルイ・デリュック、ジャン・エプスタンらにはまだまだ及ばない。つまらない習作かと言うには後年のルノワールの片鱗がちらちらと見えて所々感心するし、これが無名監督の単発作品なら全力投球の意欲的なインディーズ映画と見れば好感が持てる。
ジャン・ルノワール『チャールストン』(フランス'27)*20mins, Silent, B/W
・数多の世界大戦を経た2028年、球体型UFOに乗った黒人紳士が退化した地上生存者を探索し、発見した野生の少女(エスラン)とコミュニケーションを取ろうとすると突然踊り出す少女。黒人紳士「チャールストンじゃないか!」……後は疲れてぶっ倒れるまでダンスによる会話が続き、勝敗のついた少女は着飾ってUFOへ、負けた黒人紳士はゴリラに変化してUFOを見送る、という原始的なアホSFのようなプロット。純粋な空想ナンセンス・コメディ短編を作ろうという意図は成功している。球体型UFOも当時は斬新な発想で、搭乗者の文明人が黒人(黒人メーキャップした白人俳優だが)、野生化している地上人が白人少女、チャールストン・ダンスが共通言語というのも一応ひねりはあるが、これは特に寓意を考えずに楽しみたい。エスランもこういう役なら活気のある演技を見せる。
ジャン・ルノワール『マッチ売りの少女』(フランス'28)*34mins, Silent with Sounds, B/W
・タイトル通りアンデルセンのあれです。舞台を現代ニューヨークに変更しているがあまり関係ない。『水の娘』のメルヘン調の部分で全編を統一した演出なのが成功した。少女が凍えながら見る幻想は『不思議の国のアリス』風。製作中にトーキーの到来があったのでサイレントながらサウンド版になっている。少女役を成人女優がやっているのだからリアリズム的には無理があり、『水の娘』ではリリアン・ギッシュ的役柄をエスランが演じるのに難があったが、本作では路上で雪まみれになりながら震えているだけなので年増女の扮する少女の虚構性も成り立つ。ただし1928年初上映版フィルム(現存せず)は3倍近い2200mm(約105分)の長さだったそうなので、中編映画に短縮編集されて実質的に改作されたからこそ引き締まった佳作になったのかもしれない。
12月7日(水)
ジャン・ルノワール『女優ナナ』(フランス'26)*130mins(2002 Restore Version), Silent, B/W
・これは傑作。長編第2作にしていきなり化けた。冒頭から画面の密度と緊迫感が違い、強く引き込む力がある。原作小説の読み込みと共感があるのか、表現したい焦点がギュッと絞れている。内容は有名な原作に忠実で、美貌だけが取り柄のダンサーのナナが3人の貴族を手玉にとって贅沢三昧の放蕩生活を続けた挙げ句パトロンたちもナナも破滅するまでをしつこく描いて、E・フォン・シュトロハイムからの影響が良く消化された、映画では困難な自然主義リアリズムを高い完成度で達成してみせた。サイレント映画の主流だった短いカットのモンタージュではなく、シュトロハイム的な長いカットのシークエンス演出はトーキー時代への変化を予感させる。ナナのパトロンになり振り回される放蕩貴族3人の性格造型を見事に表現、第1長編『水の娘』やフランスのサイレント映画共通の通弊だった冗長な字幕(インタータイトル)もなく、アメリカ映画のように最小限の会話字幕だけでてきぱき進めるので比較的長い尺でも画面に集中して観られる。この2002年修復版はフィルムの場面染色、室内楽アンサンブルによるサウンドトラックとも素晴らしいヴァージョンだが、唯一再生速度は意図的に改変がある。この改変は現代的解釈として妥当としたい。
ジャン・ルノワール『女優ナナ』(フランス'26)*167mins(2009 Restore Version), Silent, B/W
・なぜ130分版と167分版が生じているかというと、トーキー以降の1秒24コマ(fps)と違ったサイレント時代は16fps~24fpsまでまちまちで(喜劇映画は早送り効果のため16~18fpsで撮影された)、再生fpsは上映館が映画ごとに判断して決めていた。フランスの一般映画は早めのfpsにも遅めのfpsにも対応できるよう20fpsが多かった。130分版は明らかに微妙に動きが早いから20fps撮影のものを24fps再生でマスター製作したと思われ、もし20fpsに変換すれば1.2倍になるから156分相当のフィルムになる。167分版は20fpsに調整してさらに11min分の欠落カットを追加したものと思われ、単純に37分もの追加修復があるわけではない。実際の追加シーンは8分相当で、さらに速度調整で2時間10分から2時間47分に拡張されてテンポが緩く演技も大時代的に見えてしまった。ルノワールの意図は20pfs再生だったと思われるが上映館ではまちまちだったはずで、24pfs再生が適正なしあがりになったと見たい。ちなみにルノワール本人も真の処女作とする本作だが、興行成績は大失敗だったらしい。
12月8日(木)トーキー以降のジャン・ルノワール
ジャン・ルノワール『十字路の夜』(フランス'32)*71mins, B/W
・ジョルジュ・シムノンのメグレ警部もの『深夜の十字路』の映画化。助監督はジャック・ベッケル。これが冒頭から驚かされ、全編が驚きの連続だが、'40年代~'50年代にアメリカ映画で一時代を築いたフィルム・ノワール(暗黒映画/犯罪映画)を完璧に先取りしている。探偵推理スリラー映画でもあるがメグレ警部は頭脳派の名探偵ではなく動き回っているうちに第2、第3の事件が起こり、最後に事件の方から真相を顕してくる。ハードボイルド映画と言った方が早い。ほとんどドキュメンタリー的映像になっている面は早くも3年後の『トニ』を思わせる。しかし'32年のルノワールはさらに驚異的な作品を送り出すのだった。
ジャン・ルノワール『素晴らしき放浪者』(フランス'32)*85mins, B/W
・最初に観た時はボロボロの民生用16mmプリントだし、主演のミシェル・シモンはジャン・ヴィゴの『アタラント号』'34の老船員の印象が強く若々しい『アタラント号』に較べるとサイレント映画を引きずった古い映画に見えた。未熟でした。『十字路の夜』も本作も確かにサイレントの痕跡があるが、それが映画を簡潔で締まりのあるものにしている。本作は入水自殺を図ったホームレスを裕福な書店主が助けて身柄を引き取るが、ホームレスは書店主の夫人や愛人に手を出して大混乱、という喜劇。'85年のアメリカ映画『ビバリーヒルズ・バム』(ポール・マザースキー)は本作のリメイク。この、階級の異なる人物同士の邂逅と顛末というテーマは以後ルノワールの映画に頻出することになり、その頂点をなす『ゲームの規則』'39の原点が大胆なコメディに徹した本作なのも深刻がらないルノワールらしい。
12月9日(金)
ジャン・ルノワール『トニ』(フランス'35)*85mins, B/W
・これも最初観た時は退屈でならず、クライマックスのカット割りのコンテの大胆さだけが印象に残ったが、2度目に観た時はぐいぐい引き込まれて世界一面白い映画を観ている気分だった。ルキノ・ヴィスコンティが助監督に付き、イタリアの戦後ネオ・レアリズモ映画の原点になったと言われるが、流れ者の日雇い人不が居着いた現場で女関係のトラブルに巻き込まれ、思わぬ悲劇が……というのは初期ヴィスコンティの下層階級ものに似ているかもしれない。ルノワール作品中もっとも無愛想で硬質な印象を受けるのは、石切場を舞台にした労働者の話だからだろうか。ルノワールは一度観て退屈と決めつけられるような作品はほとんどない。『素晴らしき放浪者』や『トニ』はその典型。
ジャン・ルノワール『どん底』(フランス'36)*92mins, B/W
・日本でも'21年に村田実『路上の霊魂』(松竹所有の完全版プリントが確認されているのになぜDVDを出さない?)として、'57年に黒澤明が同題で映画化しているゴーリキーの戯曲のルノワール版で、ルノワール作品にジャン・ギャバン初出演の記念すべき佳作でもある。意外と毎回実験的試みをしているルノワールにしては本作は役者にのびのび演技させて、社会的敗残者の吹き溜まりになっている宿屋の群像劇を暖かく描いて後味の良い作品になった。ギャバンは貴族階級の男と友人になる庶民階級の男の役で、これが『大いなる幻影』にも持ち越されることになる(貴族の人物像は対照的だが)。
12月10日(土)
ジャン・ルノワール『ピクニック』(フランス'36/'46)*41mins, B/W
・長編映画を作るつもりで製作を始めたらスケジュールの無理、製作資金の不足、第二次世界大戦勃発など予定通りの撮影ができず、製作開始から10年目に結局撮影済みのフィルムから40分ほどの中編映画にまとめられて公開された踏んだり蹴ったりの問題作。ところが40分の短さも奏功して、とある1日のピクニックの刹那を切り取って胸に迫る痛切な名作になった。ピクニックを無理矢理に終了させるものすごいどしゃ降りは一度観たら忘れられない。映画で描かれたどしゃ降りの最高のどしゃ降りだと思う。
ジャン・ルノワール『大いなる幻影』(フランス'37)*113mins, B/W
・少しだけ出てきてジャン・ギャバンをかくまう未亡人役に『アタラント号』の新妻ディタ・パルロ、これはわかったがやはり『アタラント号』の船長役のジャン・ダステ、ブニュエルの『黄金時代』'30やクレール『巴里の屋根の下』'30などのガストン・モドーが兵士役で出ているのは全然わからなかった。第一次世界大戦、ドイツ軍の捕虜収容所からのフランス兵の脱獄物語で、収容所所長を演じるシュトロハイムの強烈な存在感でルノワールにしては甘口の話に筋を通している。兵士にも階級格差があり、軍人家系の名家出身者と召集された庶民兵士では軍役の位は大差なくてもプライドと使命感が異なる。そうした職業軍人意識を「グランド・イリュージョン」(原題)と呼んでいるのだが、ルノワールにしては図式に忠実にきれいにまとめて、まとめて終わりになっている。まだ'37年には親独派も多かったフランスでは第一次世界大戦のヒューマニズム的側面の強調が時流への抵抗の限界で、第二次世界大戦の真の陰惨さへの抵抗は'43年のアメリカ亡命中の作品『自由への闘い』まで持ち越されることになる。
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映画日記2016年12月6日~10日/ジャン・ルノワール(前)
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