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現代詩の起源(5); 山村暮鳥『聖三稜玻璃』(iv)

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山村暮鳥(1884-1924)、大正2~4年頃(1913~1915年)、第1詩集『三人の處女』(大正2年)~第2詩集『聖三稜玻璃』成立時。

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 詩集『聖三稜玻璃』全編はほぼ均等な4部に分かれ、本文中の該当ページに「1915 III-V」「1914 V-」「1914 VII-XII」「1915 I-II」と印刷された(作品制作年月を表す)トレーシング・ペーパーの小さな紙片が挟み込んであります。今回は最終回で、「1915 I-II」に収められた12編をご紹介します。この詩集の持つ性格はこれまでの3回でほぼ尽くしましたが、第1詩集『三人の處女』(大正2年=1913年5月刊)からこの『聖三稜玻璃』(大正4年=1915年12月刊)までの2年半に山村暮鳥が創作した詩編は発表作品だけで200編以上に上るのが確認されています。『聖三稜玻璃』収録作品は大正3年(1914年)5月以降の創作から選ばれていますが、詩集収録の全35編は本当に氷山の一角だったわけです。暮鳥の生前編纂詩集は、最初期の自費出版パンフレット詩集『LA BONNE CHANSON』(明治43年=1910年8月)と『夏の歌』(明治43年9月)を除くと、
『三人の處女』大正2年(1913年)5月
『聖三稜玻璃』大正4年(1915年)12月
『風は草木にささやいた』大正7年(1918年)11月
『梢の巣にて』大正10年(1921年)5月
『穀粒』大正10年7月 *選詩集
『風は草木にささやいた』大正13年(1924年)8月 *改版
『雲』大正14年(1925年)1月 *歿後出版
 があり、暮鳥自身による編集として残された未刊詩集には、
『初稿版・三人の處女』推定・明治45年(1912年)3月成立 *全集初出
『黒鳥集』大正13年(1924年)秋校了・生前未刊 *昭和35年(1960年)1月刊
 の2冊を数えます。『初稿版・三人の處女』は島崎藤村序文で刊行された『三人の處女』とはまったく異なる内容の詩集で、実質的には『三人の處女』に先立つ真の第1詩集と言うべき未刊詩集です。これら暮鳥本人による自選詩集は原則的に前詩集以降の新作から編まれたものですが、『黒鳥集』は例外的に第1部は大正2年~大正5年の『聖三稜玻璃』補遺というべき編集となっており、第2部は大正10年~13年の近作(次の詩集『雲』刊行に先立つ補遺に当たる)という対照的な構成が採られています。

 暮鳥歿後に有志によって編まれた補遺詩集は選詩集を除けば『月夜の牡丹』大正15年(1926年)7月刊(花岡謙二編)、『土の精神』昭和4年(1929年)2月刊(花岡謙二編)、『萬物節』昭和15年(1940年)12月(百田宗治編)があり、実際はそれでも詩集未収録詩編の3分の1程度なのですが、それら3冊と暮鳥自選の補遺詩集『黒鳥集』を収録作品年代順に並べると、
『黒鳥集』第1部(大正2年~大正5年)
『萬物節』第3部(大正6年)
『萬物節』第2部(未発表・推定~大正10年)
『萬物節』第4部(大正4年~大正13年)
『土の精神』大正12年~大正13年
『月夜の牡丹』大正13年
『黒鳥集』第2部(大正13年)
『萬物節』第1部(大正14年・遺稿)
 となり、25歳のパンフレット詩集2冊から40歳の享年(うち晩年5年間は重篤な結核療養生活で、それまでの10年間は地方赴任の伝道師として多忙を極めていました)まで創作のブランクがありません。地方新聞連載の長編小説4編と童話・童謡集10冊、随筆集2冊、ドストエフスキーの書簡集と伝記の翻訳2冊も手がけ、随筆と翻訳は単行本未収録のものが多数あります。ただし暮鳥はドストエフスキー文献もボードレール詩集も英訳からの重訳により、しかも直ちに頻繁な誤訳が指摘されたため真剣に断筆を思い詰めるほどでした。最初の暮鳥全集は全作品の4分の1にも満たない選集で、平成元年(1989年)にようやくほぼ完全な全集(ノートや書簡も収録されましたが、翻訳は割愛されました)が刊行されます。全4巻のうち半分以上は単行本未収録作品が占め、その全集は享年57歳だった萩原朔太郎の全著作とほぼ同量になります。

 萩原朔太郎が『月に吠える』『青猫』『氷島』の代表詩集で3期に分けられるように、山村暮鳥も生涯の詩集のうち、
『聖三稜玻璃』大正4年(1915年)12月
『風は草木にささやいた』大正7年(1918年)11月
『雲』大正14年(1925年)1月 *歿後出版
 の3詩集が作風の変遷を示しているという評価が定まっています。『聖三稜玻璃』に先立って『三人の處女』があり、また『黒鳥集』収録の『聖三稜玻璃』補遺詩編があり、『風は草木にささやいた』には『萬物節』収録の補遺詩編と『風は草木に~』の作風を引き継いだ『梢の巣にて』が続きます。『梢の巣にて』以降は、逝去前月に編集・校了が完了した『雲』に至る結核療養生活期間の作品が暮鳥の最晩年の作風になり、この時期は暮鳥自身が『黒鳥集』で先に『雲』には収めない補遺詩編をまとめている他、『萬物節』収録の半数の補遺詩編と『土の精神』『月夜の牡丹』がまるごと『雲』未収録詩集に当たります。暮鳥のかろうじてポピュラーな部分は『雲』の平易な日常的短詩によるところが大きく、『聖三稜玻璃』で言えば「いちめんのなのはな」の反復で有名な「風景」がその先駆をなしています。それにしても日夏耿之介の「暮鳥は単に奇巧をてらつて素人威しをした以外に何の業績もない駄詩人にすぎぬ」という評言は過剰な憎悪が感じられる異様なもので、ちょうど大正年間の15年間に当たる暮鳥の詩歴は100年あまりを経て読むと率直に言って面白い、興味の尽きないものです。

 西脇順三郎は愛弟子の瀧口修造の追悼文で瀧口を最高のシュルレアリスム詩人と賞賛し、それはシュルレアリスムを代表するアンドレ・ブルトンより瀧口修造の方が優れた詩人だったからだ、と断言しましたが、もし『聖三稜玻璃』が必ずしもシュルレアリスムの先取りとなるシュルレアリスム詩集ではなくても、シュルレアリスム詩人には山村暮鳥以上の詩人は出現しなかった、とも言えるでしょう。詩集を締めくくる第4部「1915 I-II」は『聖三稜玻璃』の中では比較的弱い詩が集中していますが(「風景」はどう見てもこの詩集最悪の1編です)、

  つりばりぞそらよりたれつ
  まぼろしのこがねのうをら
  さみしさに
  さみしさに
  そのはりをのみ。
  (「いのり」)

 は第3部「1914 VII-XII」の、

  岬の光り
  岬のしたにむらがる魚ら
  岬にみち盡き
  そら澄み
  岬に立てる一本の指。
  (「岬」)

 と見事な照応を見せて詩集の最終詩編となっています。暮鳥がこの詩集で多用している「噴水」「銀色」「ぷらちな」「臍のを」「はりがね」「刺さる」そして「魚」は日常言語とはまったく異なる機能を与えられており、アンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』1924に10年先立つどころか言語の転位的使用ではシュルレアリスムとも異質の驚異的な効果を上げています。暮鳥の謎めいた点は明らかに意識的な方法論から『聖三稜玻璃』に到達しながらも詩集の刊行間もなく完全に作風を転換してしまったことで、『風は草木にささやいた』は『聖三稜玻璃』の面影はまったくなく、さらに『雲』でも『聖三稜玻璃』はもとより『風は草木にささやいた』ともまったく違った作風にたどり着いており、村野四郎や伊藤信吉の暮鳥批判は具体的に暮鳥の作風の一貫性の欠如を指弾したものですし、日夏耿之介の嫌悪感に満ちた罵倒も暮鳥へのイデア的不信感によるものでしょう。暮鳥自身が作風の転換に意識的だったのは詩集ごとの明確なカラーや、『黒鳥集』の補遺詩編の分類でも明白です。

 暮鳥の『聖三稜玻璃』期の作品は思い切った文体破壊でも際立っており、破格文法というより極端な断片化によって構文をなさない手法は詩集巻頭の単語の羅列詩「囈語」でもっとも徹底しており、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』(大正12年=1923年)以降の日本のダダイズム詩でも高橋と同時期に書かれた平戸廉吉の晩年の連作(遺稿集『平戸廉吉詩集』は昭和6年=1931年刊)、萩原恭次郎『死刑宣告』(大正14年=1925年)の一部に類似の発想が見られる以外はダダイズム詩はおおむね構文の明確な散文詩の形態を取ることが多かったのです。『聖三稜玻璃』は現実的対応物の存在しない言語使用において一般的な「言語=表現」すら逸脱したものでした。暮鳥自身も『風は草木にささやいた』では明確な構文の雄弁体の宗教詩に文体を変え、『雲』では簡潔な口語体の日常詩に落ち着きます。文体面では日本のダダイズム詩は『聖三稜玻璃』ではなく『雲』の系譜に発展したものでした。暮鳥自身にとっても『三人の處女』から『聖三稜玻璃』に飛躍した時、その試みの一回性を意識していたのかもしれません。「囈語」と同じ手法は二度と使えないわけで、200編あまりの発表作から35編に絞ってもまだ手法的には収録詩編にかなり重複があり、テーマ的な変奏としてもここまでが限度だったと考えられます。『聖三稜玻璃』以降の作風の転換も暮鳥にとっては必然だったとも思われるのです。

『聖三稜玻璃』初版=四方貼函入り型押し三方山羊革表紙特製本/にんぎょ詩社・大正4年(1915年)12月10日発行

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(着色型押し三方山羊革表特紙本)

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草野心平編『聖三稜玻璃』再刻版=十字屋書店・昭和22年(1947年)7月発行

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1915 I-II

  くれがた  山村暮鳥

くれがたのおそろしさ
くりやのすみの玉葱
ほのぐらきかをりに浸りて
青き芽をあげ
ものなべての罪は
ひき窓の針金をつたはる。

(大正4年=1915年1月「地上巡禮」)

  さりゆてゑしよん  山村暮鳥

純銀霜月の
光にびしよ濡れ
いちねん
智慧の玉乘り
頭蓋(あたま)がないぞ、おい、
玉は陰影(かげ)を引き
みちばたの草にかくれた。

(大正4年=1915年1月「詩歌」)

  鑿心抄  山村暮鳥

秋ふかみ
さみしらに
栗鼠鳴き
(め)を永遠につらならせ。

   *

立てる十字架
立てるは胸の上
ひねもす
にくしんの蟲を刺し。

   *

しろがねの
ほんねんのかねは
こずゑに
しづかなり。
わがそら
わがてのうへに
ゆれゆれて
したたる。

   *

やまにはやまのしんねん
ひとにはひとのりんくわく。

(大正3年=1914年10月「風景」)

  肉  山村暮鳥

癩病める冬の夜天
聖靈のとんねる
ふおくは悲しめ斷末魔
純銀食堂車
卓上に接吻あり
卓上永生はかなしめ。

(大正4年=1915年1月「地上巡禮」)

  晝  山村暮鳥

としよりのゐねむり
ゐねむりは
ぎんのはりをのむ
たまのりむすめ
ふゆのひのみもだえ
そのはなさきに
ぶらさがりたるあをぞら。

(大正4年=1915年2月「詩歌」)

  汝に  山村暮鳥

大空
純銀
船孕み
水脈
一念
腹に
臍あり。

(大正4年=1915年3月「三光」)

  燐素  山村暮鳥

指を切る
飛行機
麥の芽青み
さみしさに
さみしさに
(め)を削げ
空にぷらちなの脚
胴體紫紺
冬は臍にこもり
ひるひなか
ひとすぢのけむりを立て。

(大正4年=1915年3月「地上巡禮」)

  午後  山村暮鳥

さめかけた黄(きいろ)い花かんざしを
それでもだいじさうに
髮に插してゐるのは土藏の屋根の
無名草
ところどころの腐つた晩春……
壁ぎはに轉がる古い空(から)つぽの甕
一つは大きく他は小さい
そしてなにか祕密におそろしいことを計畫(たくら)んでゐる
その影のさみしい壁の上
どんよりした午後のひかりで膝まで浸し
瞳の中では微風の纖毛の動搖。

(大正4年=1915年6月「詩歌」)

  風景  山村暮鳥
   純銀もざいく

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。

(大正4年=1915年6月「詩歌」)

  誘惑  山村暮鳥

ほのかなる月の觸手
薔薇の陰影(かげ)のじふてりあ
みなそこでなくした瞳
それらが壺にみちあふれる。
榲のふくらみ
空間のたるみ
そして愛の重み
蟲めがねの中なる悲哀。

(大正4年=1915年6月「新評論」)

  冬  山村暮鳥

ふところに電流を仕掛け
眞珠頸飾りのいりゆじよん
ひかりまばゆし
ぬつとつき出せ
餓ゑた水晶のその手を……
おお酒杯
何といふ間抜けな雪だ
何と……凝視(みつむ)るゆびさきの噴水。

(大正4年=1915年1月「詩歌」)

  いのり  山村暮鳥

つりばりぞそらよりたれつ
まぼろしのこがねのうをら
さみしさに
さみしさに
そのはりをのみ。

(大正4年=1915年6月「新評論」)

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