前回に続いて蒲原有明詩集『有明集』収録のソネット連作について書いていきたい。
前回は『有明集』全48編・訳詩4編から、詩集巻頭の連作ソネット「豹の血」8編中、傑作と名高い3編をご紹介した。テキストは後年の改稿によらず、『有明集』初版によった。本論の前に今回も再掲載しておきたい。
有明集 / 明治41年(1908年)1月・易風社刊
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智慧の相者は我を見て
智慧(ちゑ)の相者(さうじや)は我を見て今日(けふ)し語(かた)らく、
汝(な)が眉目(まみ)ぞこは兆(さが)惡(あ)しく日曇(ひなぐも)る、
心弱くも人を戀ふおもひの空の
雲、疾風(はやち)、襲(おそ)はぬさきに遁(のが)れよと。
噫(ああ)遁(のが)れよと、嫋(たを)やげる君がほとりを、
緑牧(みどりまき)、草野(くさの)の原のうねりより
なほ柔かき黒髮の綰(わがね)の波を、----
こを如何(いか)に君は聞き判(わ)きたまふらむ。
眼をし閉(とづ)れば打續く沙(いさご)のはてを
黄昏(たそがれ)に頸垂(うなだ)れてゆくもののかげ、
飢ゑてさまよふ獸(けもの)かととがめたまはめ、
その影ぞ君を遁れてゆける身の
乾ける旅に一色(ひといろ)の物憂き姿、----
よしさらば、香(にほひ)の渦輪(うづわ)、彩(あや)の嵐に。
(「文章世界」明治40年6月発表)
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月しろ
淀(よど)み流れぬわが胸に憂(うれ)ひ惱みの
浮藻(うきも)こそひろごりわたれ黝(くろ)ずみて、
いつもいぶせき黄昏(たそがれ)の影をやどせる
池水(いけみづ)に映るは暗き古宮(ふるみや)か。
石の階(きざはし)頽(くづ)れ落ち、水際(みぎは)に寂びぬ、
沈みたる快樂(けらく)を誰かまた讃(ほ)めむ、
かつてたどりし佳人(よきひと)の足(あ)の音(と)の歌を
その石になほ慕ひ寄る水の夢。
花の思ひをさながらの祷(いのり)の言葉、
額(ぬか)づきし面(おも)わのかげの滅(き)えがてに
この世ならざる縁(えにし)こそ不思議のちから、
追憶(おもひで)の遠き昔のみ空より
池のこころに懷かしき名殘(なごり)の光、
月しろぞ今もをりをり浮びただよふ。
(「文庫」明治40年6月発表・初出題名「月魂(つきしろ)」)
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茉莉花
咽(むせ)び嘆かふわが胸の曇り物憂き
紗(しや)の帳(とばり)しなめきかかげ、かがやかに、
或日は映(うつ)る君が面(おも)、媚(こび)の野にさく
阿芙蓉(あふよう)の萎ぬえ嬌なまめけるその匂ひ。
魂(たま)をも蕩(た)らす私語(ささめき)に誘はれつつも、
われはまた君を擁(いだ)きて泣くなめり、
極祕の愁、夢のわな、----君が腕(かひな)に、
痛ましきわがただむきはとらはれぬ。
また或宵は君見えず、生絹(すずし)の衣(きぬ)の
衣(きぬ)ずれの音のさやさやすずろかに
ただ傳ふのみ、わが心この時裂けつ、
茉莉花(まつりくわ)の夜(よる)の一室(ひとま)の香(か)のかげに
まじれる君が微笑(ほほゑみ)はわがの痍(きず)を
もとめ來て沁(し)みて薫(かを)りぬ、貴(あて)にしみらに。
(「新思潮」明治40年10月発表)
これらの詩編は当時有明が陥っていた破滅的な恋愛経験が反映したものだが、一読して何を語っているのかわからない難解さがある。だが実は具体的なシチュエーションは詩句の中で語られており、決して思索的概念から発想されたものではなく、生々しい情念に象徴主義による普遍的な抽象表現を試みることで精神的危機を昇華し、有明以前には類例のない抒情詩を実現したものと言える。詩集の巻頭に置かれたソネット(14行詩)集「豹の血」8編のうち「智慧の相者は我を見て」は最初に、「月しろ」は4編目に、「茉莉花」は6番目に配置された。「豹の血」全8編がトータルな構成で読まれるべき作品だがそれでは話題の規模が大きくなりすぎる。ともあれ、この3編は完成度、主題への異なるアプローチ、何より印象的な訴求力で傑出しており、「豹の血」全8編への入り口にも出口にもなっている。
また「豹の血」巻頭、つまり詩集全体にとっても巻頭詩に「智慧の相者」を置いたのは読者にとって挑発的なばかりではなく、詩人自身にとっても自己の詩法とテーマ自体を宣言して成功した作品を生み出す、という高いハードルを課したことになる(実際には詩集は発表後の詩から選択・配列されているが、「智慧の相者」がソネット連作の要として、詩による詩論を試みた作品であることは間違いない)。詩人自らそれを後の『有明詩集』自序で「感覚の綜合整調」と語っている。第1連で自我との対話、第2連で恋人の黒髪の賛美、第3連で心象風景、第4連で感覚の綜合を謳いあげる意外性のある構成も決まっている。それは「月しろ」では第1連で叙景、第2連で聴覚による崩壊の知覚、第3連の思念による再構築、第4連で回帰する叙景となり、「茉莉花」ではさらに突き詰められて第1連の視覚、第2連の触覚、第3連の聴覚、第4連の嗅覚と細分化される。
しかしこのソネット連作の成否は高揚した言語感覚の鋭敏さにあり、たとえば「茉莉花」第2連の前半2行の、
魂(たま)をも蕩(た)らす私語(ささめき)に誘はれつつも、
われはまた君を擁(いだ)きて泣くなめり、
をあえて誇張した改悪を作成すれば、
心をば迷はす囁きに抗ふすべもなく、
われはまた君を抱きて泣きにけり、
では意味は同じだが、まるで印象が異なってしまう。改悪例は文語体散文を単に行分けしたにすぎない。「君を擁きて泣くなめり、」では「君を擁きて」の「Ki」音の2回の強調、「泣くなめり、」は言うまでもなく「Na」音の畳みかけが素晴らしい音楽的効果を生んでいる。あえて改悪した例「君を抱きて泣きにけり」では面白くも何ともないどころか、「君を抱きて泣き」まで「Ki」音が3音重複するのが耳障りなばかりか、「泣きにけり」では子音「k」音と母音「i」の連続が散文的にすぎる。
だが蒲原有明の同時代の文語詩人、また有明を芸術至上主義詩人として排斥した「民衆詩派」の口語詩人たちのほとんどは、言語感覚においては散文のレベルでしか詩を書けなかった。高村光太郎、山村暮鳥、三富朽葉、室生犀星、萩原朔太郎ら卓越した詩人のみが口語詩で有明の水準を継承したが、一般的な詩のレベルでは河井醉茗、三木露風、川路柳虹、生田春月ら「散文の行分け」の意識でしか詩を生み出せない詩人が本流であり、最大の存在だった北原白秋ですら(最大であるがゆえに、とも言えるが)作品の質は一定しなかった、と言える。
現代ではさまざまなメディアに趣味が広がっているが、昭和40年頃までは学生が進む芸術系の趣味というと文学か美術、ぐっと少なく音楽だった。クラシック音楽が主流の時代には音楽はハードルが高かった。美術も修練と実践にコストがかかる。文学とはいちばん取りかかりやすく仲間も集めやすいわけで、広津和郎『年月のあしおと』、高見順『昭和文学盛衰史』や尾崎一雄『あの日この日』などを読むと大正・昭和(戦前)の文学同人誌がウンカのごとく全国の高校・大学・社会人によって発行されていたか、また戦後の昭和では小説は商業誌が積極的に採用するので詩歌(詩・短歌・俳句)の同人誌(短歌・俳句では結社と呼ばれる)が文学同人誌の主流になり、現在でも詩歌の分野では依然同人誌が続いている。
戦前の日本文学では詩歌の地位は小説と匹敵するものだった。文筆専業の職業詩人(歌人・俳人)も多く、アマチュア詩人も無数にいた。その意識や理想が低かったとは思えないのだが、作品の質はお世辞にも高いとは言えないのが実態で、それは現在でもあまり変わらない。優れた才能が勢いのある他分野に流れた結果むしろレベルは低下した、とも言える。先に「茉莉花」から2行をあえて改悪した例を作って載せたが、たいがいの当時の詩人はその改悪例の水準でしか書けなかったし、現代の詩でも優れた詩を凡庸な詩に改悪すれば、改悪した方が一般的な詩の水準になる。
ところが有明自身が『有明集』1908からほぼ15年後の全詩集『有明詩集』1922から最晩年まで、自作の全作品の改作に没頭することになる。『有明集』が33歳、『有明詩集』が47歳、没年が77歳だから、『有明詩集』には新詩集1冊分の新作も含むといえ、こうした詩人もかなり珍しい(若くして筆を折る詩人なら多い)。では有明は自作をどのように改作していったか、その成否と意図はどんなものだったか。それは有明が自作に込めた、抑圧され鬱屈した恋愛体験とどのように照応する角度を変化させていったか。次回のテーマとしたい。