アメリカで1940年代最高の人気推理小説作家だったという女流作家クレイグ・ライスの代表作に印象的な書き出しの『素晴らしい犯罪』Having a Wonderful Crime, 1943(翻訳・早川書房)があり、その書き出しは「彼にとって毎朝寝起きの1時間は、地獄の実在を信じたい気分だった」と始まっていた。10代の頃に読んで、たぶん大人、いわゆる社会人になるとそういう風に思うんだろうな、と記憶に残ったものだ。しかし1943年といえば昭和18年で、昭和18年の軍国日本ではこんなアンニュイな書き出しの小説はとうてい刊行できなかっただろう、と今さらながら気づいた。
思い返せばいい歳をして社会人だったことは全然なかったのだが、仕事を持って自活していたのが社会人なら大学生時代から生活だけはそうだった。大学生の頃は何をやっていたか思い出したくもないくらいだが、とにかく映画ばかり観ていたのと、飽き飽きしながらたまに学生ロック・バンドに参加してギターを弾いていた。高校時代からの延長が当時のガールフレンドとロック・バンドだったのだが、そのどちらもご破算になった頃に無茶苦茶な雑誌編集社の仕事にまずアルバイトで入り、仕事と学業の両立は無理なのがすぐにわかって、卒業できずに4年で退学して2年間は勤め人をやり、それからライターとレイアウト、編集のフリーランサーになった。勤め人だったのはフリーになるまでの見習いみたいなものだったから訓練校みたいなもので、社会人だったとはとても言えないのはそういうことになる。
その頃やり始めたのがアルトサックスで、実はテナーサックスをやりたかったのだが似たようなものかとアルトにしてしまった。後からテナーサックスとソプラノサックスも始めたが全然別の楽器で、ソプラノはまだしもテナーはいまだにコツがつかめない。アルトサックスはE♭、テナーはそれより下のB♭、ソプラノはアルトより上のB♭管でテナーよりソプラノは1オクターヴ上になるが、ソプラノはアルトの高音域の延長で吹ける、だがテナーを吹いてもアルトサックスより上の音域でしかアドリブの発想ができない。たぶんテナーが基礎にあるプレイヤーならテナー音域を使いこなせる上にアルト音域、ソプラノ音域もいけるんじゃないかと思う。アルトにはテナーのような豊かなサブトーンもないし、ソプラノのような金管楽器的なテンションもない。ひと口でサックスと言っても、並べてみると大きさだけでもこれほど違う。バリトンサックスなどはアルトの倍の大きさになるのだ。サウンド・キャラクターが同じになりようがない。
自分の力量ではアルトに限界を感じたからではないが、ジャズの木管奏者はサックスが主楽器でもフルートとクラリネットもやっておくことになっている。歴史が古いだけあってフルートとクラリネットは完成度の高いすごい楽器で、しかもこの2つは別方向に機能性と表現力を向けて完成している。クラリネットは音域は低音ではアルト音域まで、高音はソプラノ音域までをかるくカヴァーするという楽器で、しかも音域ごとに音色面の変化が豊かなのでサックスの表現力とは異なり、むしろヴァイオリン的な幾何学的に切り込むフレージングになりやすい。クラリネットをヴァイオリンに比較するならフルートはギターかというとそうでもなく、金管楽器の総称がラッパなら木管楽器の総称は笛だが、クラリネット、オーボエ、サックスなどよりも笛のイメージがもっとも強いのがフルートになる。サウンド的にはオルガンに近い、というよりオルガンが鍵盤木管楽器なのでオルガンの方がフルートの発展した楽器で、ただし発音構造やキーシステムの原理もプリミティヴな分、人の音感の基本的な感受性に直接訴える力が大きい。クラリネットの人工性とはそこがまるで逆方向になっている。
白いプラスチック・アルトサックスは練習用に使っているが、アルトサックスとクラリネットの中間のような音色で、クラリネットにしては抑揚の幅があるし、アルトとしては詰まった音がする。ジャズのアルバムの有名なものでこれを使ったものは、チャーリー・パーカーの『January at Massey Hall』1953、オーネット・コールマンの『The Shape of Jazz To Come』1959があるが、パーカーやオーネットのようなすごい人が使うと奏者の個性が楽器の限界を超えて伝わってくるものの、普通は実演向けの楽器とされないのも音色が憂鬱だからだろう。奏者の調子が悪いのではないか、と思えてくるような低血圧な音が出るのだ。それがかえって面白いのだが、奏者本人には面白くても聴かされる人が面白がってもらえるとは限らない。
学校も春休みに入った頃で、別れてから足かけ10年になる娘たちに進級祝いを送った。手渡しなら「贈る」としたいところだが離婚、もっと言えば離婚に先立つ別居から今まで一度も会わないまま10年目になり、指を折って数えないと現在の学年もわからなくなった。この春で高校3年生と中学3年生になる。長女は中学入学時々から吹奏楽部でフルートを、次女は姉を追うようにオーボエをやっている。娘たちが幼児の頃に、そのうち何か楽器をやらせて、中高生くらいになったらジャズクラブのセッションにでも連れて行けば面白いぞ、と思っていたが、別れてから楽器をやる子に育っていたとは皮肉なものだ。貧しい生活費をやりくりして定期的に送金する。送っても送らなくても悔いが残るのだからどのみち辛い選択しかない。寝起きの1時間は地獄かもしれないが、つねに寝起きのような気分なら慣れるしかないのだ。
思い返せばいい歳をして社会人だったことは全然なかったのだが、仕事を持って自活していたのが社会人なら大学生時代から生活だけはそうだった。大学生の頃は何をやっていたか思い出したくもないくらいだが、とにかく映画ばかり観ていたのと、飽き飽きしながらたまに学生ロック・バンドに参加してギターを弾いていた。高校時代からの延長が当時のガールフレンドとロック・バンドだったのだが、そのどちらもご破算になった頃に無茶苦茶な雑誌編集社の仕事にまずアルバイトで入り、仕事と学業の両立は無理なのがすぐにわかって、卒業できずに4年で退学して2年間は勤め人をやり、それからライターとレイアウト、編集のフリーランサーになった。勤め人だったのはフリーになるまでの見習いみたいなものだったから訓練校みたいなもので、社会人だったとはとても言えないのはそういうことになる。
その頃やり始めたのがアルトサックスで、実はテナーサックスをやりたかったのだが似たようなものかとアルトにしてしまった。後からテナーサックスとソプラノサックスも始めたが全然別の楽器で、ソプラノはまだしもテナーはいまだにコツがつかめない。アルトサックスはE♭、テナーはそれより下のB♭、ソプラノはアルトより上のB♭管でテナーよりソプラノは1オクターヴ上になるが、ソプラノはアルトの高音域の延長で吹ける、だがテナーを吹いてもアルトサックスより上の音域でしかアドリブの発想ができない。たぶんテナーが基礎にあるプレイヤーならテナー音域を使いこなせる上にアルト音域、ソプラノ音域もいけるんじゃないかと思う。アルトにはテナーのような豊かなサブトーンもないし、ソプラノのような金管楽器的なテンションもない。ひと口でサックスと言っても、並べてみると大きさだけでもこれほど違う。バリトンサックスなどはアルトの倍の大きさになるのだ。サウンド・キャラクターが同じになりようがない。
自分の力量ではアルトに限界を感じたからではないが、ジャズの木管奏者はサックスが主楽器でもフルートとクラリネットもやっておくことになっている。歴史が古いだけあってフルートとクラリネットは完成度の高いすごい楽器で、しかもこの2つは別方向に機能性と表現力を向けて完成している。クラリネットは音域は低音ではアルト音域まで、高音はソプラノ音域までをかるくカヴァーするという楽器で、しかも音域ごとに音色面の変化が豊かなのでサックスの表現力とは異なり、むしろヴァイオリン的な幾何学的に切り込むフレージングになりやすい。クラリネットをヴァイオリンに比較するならフルートはギターかというとそうでもなく、金管楽器の総称がラッパなら木管楽器の総称は笛だが、クラリネット、オーボエ、サックスなどよりも笛のイメージがもっとも強いのがフルートになる。サウンド的にはオルガンに近い、というよりオルガンが鍵盤木管楽器なのでオルガンの方がフルートの発展した楽器で、ただし発音構造やキーシステムの原理もプリミティヴな分、人の音感の基本的な感受性に直接訴える力が大きい。クラリネットの人工性とはそこがまるで逆方向になっている。
白いプラスチック・アルトサックスは練習用に使っているが、アルトサックスとクラリネットの中間のような音色で、クラリネットにしては抑揚の幅があるし、アルトとしては詰まった音がする。ジャズのアルバムの有名なものでこれを使ったものは、チャーリー・パーカーの『January at Massey Hall』1953、オーネット・コールマンの『The Shape of Jazz To Come』1959があるが、パーカーやオーネットのようなすごい人が使うと奏者の個性が楽器の限界を超えて伝わってくるものの、普通は実演向けの楽器とされないのも音色が憂鬱だからだろう。奏者の調子が悪いのではないか、と思えてくるような低血圧な音が出るのだ。それがかえって面白いのだが、奏者本人には面白くても聴かされる人が面白がってもらえるとは限らない。
学校も春休みに入った頃で、別れてから足かけ10年になる娘たちに進級祝いを送った。手渡しなら「贈る」としたいところだが離婚、もっと言えば離婚に先立つ別居から今まで一度も会わないまま10年目になり、指を折って数えないと現在の学年もわからなくなった。この春で高校3年生と中学3年生になる。長女は中学入学時々から吹奏楽部でフルートを、次女は姉を追うようにオーボエをやっている。娘たちが幼児の頃に、そのうち何か楽器をやらせて、中高生くらいになったらジャズクラブのセッションにでも連れて行けば面白いぞ、と思っていたが、別れてから楽器をやる子に育っていたとは皮肉なものだ。貧しい生活費をやりくりして定期的に送金する。送っても送らなくても悔いが残るのだからどのみち辛い選択しかない。寝起きの1時間は地獄かもしれないが、つねに寝起きのような気分なら慣れるしかないのだ。