人は誰しも眠らないわけにはいかないが、眠るからには目覚めなければならないのが生きている限りは続く。自然覚醒に越したことはないし、安定した生活リズムで自然覚醒できる人も多いだろうが、目覚まし時計(またはそれに類するもの)はどこの家にもあるだろう。しかるべき時刻には間に合うように起きていても、保険または確認のために枕元に目覚まし時計(スマホのアラーム設定でもいい)を置いて、初めて安眠できる、それが習慣化している人も多いのではないか。一人暮らしなら起こしてくれる人がいないのだからなおさらのことで、目覚まし時計に起こされるよりは恋人や配偶者、子供に起こされる方がいい。だが恋人や配偶者、子供だって目覚まし時計を使わないと確実に起きられる、または自然覚醒してすぐ時刻を確認することはできないとすれば、家族に起こしてもらっても間接的には目覚まし時計に頼っているのことにはならないか。
皮膚にアレルギーがあって生まれてこの方腕時計すらしたことがないが(以前は安い液晶懐中時計、今はスマホで時間を見ている)、目覚まし時計にお世話になっていたのも社会人だった頃にはあって(今は社会人ですらないから使わない。病人だから起きられない時には病状として起きない)、当時世間のアナログ式目覚まし時計とは狂いやすくて当てにならないものだった。今は知らない。電子式のものならまず狂わないのだろう。しかしアナログ式の目覚まし時計とは詐欺みたいなものだった。時間は狂いやすい、セットしても鳴らないことすらある。それに、仮にセットした通りに鳴ったとして、一瞬で怒りが全身にみなぎる。こんなチャチな機械の命令が聞けるか!とセットしたのは昨夜の自分なのだが、目覚まし時計で起きてしまった自分に腹が立って意地でも起きるものか、おれは自然覚醒以外では起きないのだ、と10分後、と念じて寝直すが、こういう2度寝が上手くいくことはめったにない。
画像の目覚まし時計はほぼ25年前のもらい物で、娘たちが幼い頃に数回厭々使ったことしかない。結婚前から持っていたものだが、離婚して置いてきて清々したと思っていたら別れた妻が他の私物(海水パンツとか結婚式のVHSテープとか)と一緒に送りつけてきた。こんなのは送りつけてくるのに離婚後足かけ10年の消息は、娘たちの誕生日プレゼントやクリスマス、お年玉、進級祝いの受け取り確認がゆうパックの配達通知でわかるだけだ。プレゼントの受け取り報告はおろか年賀状の返事ももらえない。もっとも、離婚後(執行猶予で、妻<当時>の告訴による足かけ5か月の拘置所生活から釈放後)に生活困窮と精神疾患の発症が診断されて生活保護受給者になり、一人暮らしの自宅療養中の病人になってからは、元旦に届く年賀状など2枚だけになってしまった。
それでこの目覚まし時計は今は年賀状のやりとりもない5歳下の弟の結婚式の引き出物だったのだが、帰宅して箱を開けて見ていったい何の冗談だと思った。テスト用の電池を入れて鳴らしてみると、ベルの代わりにお囃子の音声が鳴る。♪ニャニャンがニャン!きょーも元気にごくろーさん・ニャニャンがニャン!きょーも元気にごくろーさん、というのが止めるまで続く。弟は医療用電子機器の会社の営業マンで、地方営業用に裏モノのアダルトビデオを頼まれて(地方じゃ良く効くんだよ、と言っていた)調達したこともあった。これもきっとどこかの取引先との商談の交換契約でどっさり買い取ったデッドストックか何かに違いない。それを普通結婚式の引き出物にするか?
ちなみに出所した初年は引っ越し報告も兼ねて50枚くらい年賀状を出し、翌年も同じ枚数を出したが、年々元旦に届く年賀状が減っていき、返信も毎年のように減る一方でついには返信すらなくなった。今でも年賀状をやり取りしているのは家庭持ちの時に家族ぐるみでお世話になったO野先生夫妻(内科・小児科)、このご夫妻にはご心配をおかけしたが、それは離婚にいたった事情をいちばんご存知なのはO野先生夫妻のクリニックのかたがただったからで、毎年年賀状に見舞いの言葉が添えてある。O野先生のクリニックでしょっちゅう処置を受けていなかったら、S井さんのように奥さんと子供の留守中に縊死していたかもしれない。S井さんが自殺した時、次はぼくだと思った。……それと5回目で現在最後の精神科入院で同室になり、他は慢性化患者ばかりの閉鎖病棟でおたがい唯一話相手だった同室のM橋さん。こちらからもきちんと送り、先方からも元旦に届く年賀状はこの両者からしかない。
執行猶予判決で足かけ5か月の拘置所生活から出てきて、ひと晩実家に泊めてもらって翌日には即入居できるアパートを見つけて離婚後の一人暮らしを始めた。学生時代に実家を出てから生まれ育った町に都落ちしてきて、せいぜい小学生の時からの親友1名と、隣町に世帯を構える5歳下の弟とは会える機会が増えるかな、と思った。まったく呑気もいいところだった。越してきてすぐ会いに行ったが離婚してその上拘置所出、と知ると親友も弟も態度が一変した。その時「今これだけしかないから」とお金を渡された。間もなく精神疾患で要療養の診断を受けて生保受給者になったのでまずお金を返すと連絡したら、その日のうちに取りにきた。それ以降、偶然町中やスーパーでばったり会って、ちょっと立ち話でもしないかと言ってもそんな暇はないから、と露骨に避けられてしまう。年賀状を出しても返信もくれないので数年目で諦めた。幼なじみも弟も離婚者で(事実上)前科者で精神障害者で生活保護受給者とはもう一切の関わりを絶ちたいのだ。要するに幼なじみの親友とか実の弟との間にあると思っていた絆は一方的な錯覚でしかなかった。
別れた妻には告訴直前に捺印した離婚の同意書を渡してあったのだが、妻は保健所と警察署からその年の春から施行された県の新条例の違犯で告訴して追い討ちをかけるのを推奨されていた。まだ住民票は別れた妻と娘たちの住むマンションにあるが離婚したので戻るわけにはいかない。仕方なく実家に戻ると、あらかじめ実家は警察から立ち寄ったら通報するように言われていたらしい。住所不定者として補導されて留置場にぶちこまれ、それを受けて告訴状が作成されて、妻は告訴状内容を知らずに、読みたくもなくて、離婚手続きに当たって保健所と警察が調停したことを記録するための必要書類だと説明されて署名捺印したという。
こんなに長くなるなんて知らなかったのよ、と出所を公衆電話から報告した時、別れた妻は言った。彼女は告訴状内容を被告人が受諾して誓約書でも書けば出て来られるものと思っていたらしい。普通裁判は警察から検察(ここまでは留置場)、検察に上がれば裁判の結審まで拘置所に、合わせて最短2か月、通常3か月はかかる。裁判所の日程があるからだ。足かけ5か月・満4か月になったのは新年度からの新条例で起訴内容に先例が少なく検察が起訴状まとめに時間がかかったのと、お盆休みを挟んでその間裁判所の稼働率が通常の半分以下だったからだった。実質的な禁固刑のようなもので、こういう不運も世の中にはある。S井さんが自殺した時、次はぼくだと思った。だが留置場~拘置所の満4か月の禁固生活は生きてここを出ることだけが望みのすべてだった。
眠りと死は兄弟、とはシェイクスピアの史劇にある一節だが、禁固刑同然の拘置所生活では眠りは唯一の自由だった。肉体の自由はもちろん外から鍵をかけられた、12畳に男10人(しかも自分以外は全員職業的犯罪者)なんていうタコ部屋の中に閉じ込められている。だが、たとえこじつけにこじつけを重ねて自分を条例違犯の犯罪者にしようとする流れに逆らえないにしても(要するにもう、修復不可能な離婚を認めるにはありもしなかった「DV防止条例違犯」を引き受けて事態を収めるしかなかった)、頭の中だけは自由なんだ、自分が知っている真実を守ることができるんだ、誰にも踏み入らせはしないんだと思った。
奥さんがそうしたのは(とこの話になると主治医に言われるのだ)、怖かったからじゃないの?別れた妻が怖かったからそうしたのかどうかは知らない。それはどちらの行動も正当化もしないし、娘たちの手を最後まで離さなかったのは別れた妻で、一方ぼくはもう娘たちには夢の中でしか会えない。眠りから醒めればいつも寒々しい療養の毎日だけがある。これがまるごと悪夢で、目覚めると娘たちがいる(という悪夢も実際今でも見る)としたら……。目覚めるたびに確認して安心する、ひとりきりなんだ、娘たちはいないんだ、なにも間違ってはいないんだ、これでいいんだ、と。
皮膚にアレルギーがあって生まれてこの方腕時計すらしたことがないが(以前は安い液晶懐中時計、今はスマホで時間を見ている)、目覚まし時計にお世話になっていたのも社会人だった頃にはあって(今は社会人ですらないから使わない。病人だから起きられない時には病状として起きない)、当時世間のアナログ式目覚まし時計とは狂いやすくて当てにならないものだった。今は知らない。電子式のものならまず狂わないのだろう。しかしアナログ式の目覚まし時計とは詐欺みたいなものだった。時間は狂いやすい、セットしても鳴らないことすらある。それに、仮にセットした通りに鳴ったとして、一瞬で怒りが全身にみなぎる。こんなチャチな機械の命令が聞けるか!とセットしたのは昨夜の自分なのだが、目覚まし時計で起きてしまった自分に腹が立って意地でも起きるものか、おれは自然覚醒以外では起きないのだ、と10分後、と念じて寝直すが、こういう2度寝が上手くいくことはめったにない。
画像の目覚まし時計はほぼ25年前のもらい物で、娘たちが幼い頃に数回厭々使ったことしかない。結婚前から持っていたものだが、離婚して置いてきて清々したと思っていたら別れた妻が他の私物(海水パンツとか結婚式のVHSテープとか)と一緒に送りつけてきた。こんなのは送りつけてくるのに離婚後足かけ10年の消息は、娘たちの誕生日プレゼントやクリスマス、お年玉、進級祝いの受け取り確認がゆうパックの配達通知でわかるだけだ。プレゼントの受け取り報告はおろか年賀状の返事ももらえない。もっとも、離婚後(執行猶予で、妻<当時>の告訴による足かけ5か月の拘置所生活から釈放後)に生活困窮と精神疾患の発症が診断されて生活保護受給者になり、一人暮らしの自宅療養中の病人になってからは、元旦に届く年賀状など2枚だけになってしまった。
それでこの目覚まし時計は今は年賀状のやりとりもない5歳下の弟の結婚式の引き出物だったのだが、帰宅して箱を開けて見ていったい何の冗談だと思った。テスト用の電池を入れて鳴らしてみると、ベルの代わりにお囃子の音声が鳴る。♪ニャニャンがニャン!きょーも元気にごくろーさん・ニャニャンがニャン!きょーも元気にごくろーさん、というのが止めるまで続く。弟は医療用電子機器の会社の営業マンで、地方営業用に裏モノのアダルトビデオを頼まれて(地方じゃ良く効くんだよ、と言っていた)調達したこともあった。これもきっとどこかの取引先との商談の交換契約でどっさり買い取ったデッドストックか何かに違いない。それを普通結婚式の引き出物にするか?
ちなみに出所した初年は引っ越し報告も兼ねて50枚くらい年賀状を出し、翌年も同じ枚数を出したが、年々元旦に届く年賀状が減っていき、返信も毎年のように減る一方でついには返信すらなくなった。今でも年賀状をやり取りしているのは家庭持ちの時に家族ぐるみでお世話になったO野先生夫妻(内科・小児科)、このご夫妻にはご心配をおかけしたが、それは離婚にいたった事情をいちばんご存知なのはO野先生夫妻のクリニックのかたがただったからで、毎年年賀状に見舞いの言葉が添えてある。O野先生のクリニックでしょっちゅう処置を受けていなかったら、S井さんのように奥さんと子供の留守中に縊死していたかもしれない。S井さんが自殺した時、次はぼくだと思った。……それと5回目で現在最後の精神科入院で同室になり、他は慢性化患者ばかりの閉鎖病棟でおたがい唯一話相手だった同室のM橋さん。こちらからもきちんと送り、先方からも元旦に届く年賀状はこの両者からしかない。
執行猶予判決で足かけ5か月の拘置所生活から出てきて、ひと晩実家に泊めてもらって翌日には即入居できるアパートを見つけて離婚後の一人暮らしを始めた。学生時代に実家を出てから生まれ育った町に都落ちしてきて、せいぜい小学生の時からの親友1名と、隣町に世帯を構える5歳下の弟とは会える機会が増えるかな、と思った。まったく呑気もいいところだった。越してきてすぐ会いに行ったが離婚してその上拘置所出、と知ると親友も弟も態度が一変した。その時「今これだけしかないから」とお金を渡された。間もなく精神疾患で要療養の診断を受けて生保受給者になったのでまずお金を返すと連絡したら、その日のうちに取りにきた。それ以降、偶然町中やスーパーでばったり会って、ちょっと立ち話でもしないかと言ってもそんな暇はないから、と露骨に避けられてしまう。年賀状を出しても返信もくれないので数年目で諦めた。幼なじみも弟も離婚者で(事実上)前科者で精神障害者で生活保護受給者とはもう一切の関わりを絶ちたいのだ。要するに幼なじみの親友とか実の弟との間にあると思っていた絆は一方的な錯覚でしかなかった。
別れた妻には告訴直前に捺印した離婚の同意書を渡してあったのだが、妻は保健所と警察署からその年の春から施行された県の新条例の違犯で告訴して追い討ちをかけるのを推奨されていた。まだ住民票は別れた妻と娘たちの住むマンションにあるが離婚したので戻るわけにはいかない。仕方なく実家に戻ると、あらかじめ実家は警察から立ち寄ったら通報するように言われていたらしい。住所不定者として補導されて留置場にぶちこまれ、それを受けて告訴状が作成されて、妻は告訴状内容を知らずに、読みたくもなくて、離婚手続きに当たって保健所と警察が調停したことを記録するための必要書類だと説明されて署名捺印したという。
こんなに長くなるなんて知らなかったのよ、と出所を公衆電話から報告した時、別れた妻は言った。彼女は告訴状内容を被告人が受諾して誓約書でも書けば出て来られるものと思っていたらしい。普通裁判は警察から検察(ここまでは留置場)、検察に上がれば裁判の結審まで拘置所に、合わせて最短2か月、通常3か月はかかる。裁判所の日程があるからだ。足かけ5か月・満4か月になったのは新年度からの新条例で起訴内容に先例が少なく検察が起訴状まとめに時間がかかったのと、お盆休みを挟んでその間裁判所の稼働率が通常の半分以下だったからだった。実質的な禁固刑のようなもので、こういう不運も世の中にはある。S井さんが自殺した時、次はぼくだと思った。だが留置場~拘置所の満4か月の禁固生活は生きてここを出ることだけが望みのすべてだった。
眠りと死は兄弟、とはシェイクスピアの史劇にある一節だが、禁固刑同然の拘置所生活では眠りは唯一の自由だった。肉体の自由はもちろん外から鍵をかけられた、12畳に男10人(しかも自分以外は全員職業的犯罪者)なんていうタコ部屋の中に閉じ込められている。だが、たとえこじつけにこじつけを重ねて自分を条例違犯の犯罪者にしようとする流れに逆らえないにしても(要するにもう、修復不可能な離婚を認めるにはありもしなかった「DV防止条例違犯」を引き受けて事態を収めるしかなかった)、頭の中だけは自由なんだ、自分が知っている真実を守ることができるんだ、誰にも踏み入らせはしないんだと思った。
奥さんがそうしたのは(とこの話になると主治医に言われるのだ)、怖かったからじゃないの?別れた妻が怖かったからそうしたのかどうかは知らない。それはどちらの行動も正当化もしないし、娘たちの手を最後まで離さなかったのは別れた妻で、一方ぼくはもう娘たちには夢の中でしか会えない。眠りから醒めればいつも寒々しい療養の毎日だけがある。これがまるごと悪夢で、目覚めると娘たちがいる(という悪夢も実際今でも見る)としたら……。目覚めるたびに確認して安心する、ひとりきりなんだ、娘たちはいないんだ、なにも間違ってはいないんだ、これでいいんだ、と。