Paul Horn Quintet - Something Blue (Hifi Jazz, 1960) Full Album : https://youtu.be/IES1TOLYd_0
Recorded March, 1960, Los Angeles, CA
Produced by Dave Axelrod.
Released; Hifi Jazz J-615, 1960
All compositions by Paul Horn except as indicated
(Side A)
1.Dun-Dunnee - 7:13
2.Tall Polynesian (Paul Moer) - 8:13
3.Mr. Bond - 8:21
(Side B)
1.Fremptz (Emil Richards) - 6:03
2.Something Blue - 7:37
3.Half and Half - 7:51
[ Personnel ]
Paul Horn - alto saxophone, flute, clarinet
Emil Richards - vibraphone
Paul Moer - piano
Jimmy Bond - bass
Billy Higgins - drums
マイルス・デイヴィス(トランペット)のアルバム『Kind of Blue』の発売は1959年8月17日(59年3月2日、4月22日録音)で、これは翌月の59年9月14日に発売されたチャールズ・ミンガスの『Mingus Ah Um』(59年5月5日・12日録音)、2か月後の59年10月に発売されたオーネット・コールマンの『The Shape of Jazz to Come』(59年)、さらに『Kind of Blue』の参加メンバーでもあるジョン・コルトレーン(テナーサックス)の『Giant Steps』(59年3月4日・5日・12月2日録音、60年1月27日発売)、ビル・エヴァンス(ピアノ)の『Portrait in Jazz』(59年12月28録音、60年9月発売)とともに1960年代ジャズの幕開けになったアルバムであり、上記5枚が60年代以降のジャズに与えた音楽スタイルや楽器の奏法改革はジャズのみならずジャズと隣接した音楽ジャンルにも今なお、及んでいる。特にマイルスのアルバムは映画音楽やポップス、ロックにまで大きな影響を与えた。『Kind of Blue』が示してみせた音楽的方法はモード手法(奏法)と呼ばれる、コード進行ではなく音階(モード)の変則活用、それも非近代西洋音楽音階を応用することで得られる特殊な奏法とムードを狙ったものだった。
マイルスとミンガス、オーネットのアルバムはビ・バップ~ハード・バップとパターンが固定化しつつあった黒人ジャズに新しいコンセプトをもたらした。マイルスのバンドから『Kind of Blue』を最後に独立したコルトレーンはビ・バップの音楽的メカニズムを極めた『Giant Steps』でテナーサックス奏法を革新し、オーネットの大胆な改革に刺激を受けながら『Kind of Blue』で習得した新しい音楽構造のジャズに向かう。ビル・エヴァンスは『Kind of Blue』の音楽構造にバンド唯一の白人メンバーでありながらもっとも貢献することになり、『Portrait in Jazz』はエヴァンスが『Kind of Blue』の立役者だったことを示してジャズ・ピアノの奏法をビ・バップ以来初めて一新してみせた。新しい音楽性には、アコースティック楽器を使用するジャズといえどもすべての楽器の奏法が新しい感覚を表現するものになった。ポール・ホーン・クインテットの『Something Blue』はマイルス門下出身のエヴァンス、コルトレーンを除けばもっとも早く『Kind of Blue』の影響を反映した作品として記憶されているアルバムになる。それがマイルスらの活動するニューヨークのジャズ界ではなく、ロサンゼルスのジャズ界から現れたのも後に再評価される一因になった。もっとも活動中にはポール・ホーン・クインテットは有望新人の集まりながらロサンゼルスのアンダーグラウンド・シーンにとどまり、活動中はほとんど認められなかった。前回取り上げたジョー・ゴードンの『Looking Good!』(61年7月録音)はポール・ホーンと近い傾向の数少ない例だろう。また、こともあろうにデイヴ・アクセルロッド最初期のプロデュース作品であることでも注目される。
(Original Hifi Jazz "Something Blue" LP Liner Notes)
ポール・ホーン(アルトサックス、フルート、クラリネット/1930~2014)は70年代以降はニューエイジ/ヒーリング&ワールド・ミュージックの先駆者として知られたが、プロとしてのスタートはチコ・ハミルトン・クインテットでバディ・コレットを継いだ2代目木管奏者で、チコ・ハミルトン・クインテットはドラムス、ベース、ギターにチェロと木管(サックス、フルート、クラリネットの持ち替えが必須条件)という特異な編成の室内楽的ジャズで人気を集めた。ホーンの後はエリック・ドルフィー、チャールズ・ロイド、渡辺貞夫らがハミルトン・クインテットを去来している。1956年~58年のハミルトン・クインテット在籍中に、
・House of Horn (Dot, 1957)
・Plenty of Horn (Dot, 1958)
・Impressions! (World Pacific, 1959)
の3アルバムを録音し、レギュラー・バンドのポール・ホーン・クインテットを結成する。その第1作が、
・Something Blue (HiFi Jazz, 1960)
で、クインテットの作品は、
・The Sound of Paul Horn (Columbia, 1961)
・Profile of a Jazz Musician (Columbia, 1962)
と続く。メジャーのコロンビアへの移籍が叶ったのだからたいしたものだろう。ただし次回2作はホーンの単独名義で、
・Impressions of Cleopatra (Columbia, 1963)
・Jazz Suite on the Mass Texts (RCA Victor, 1964) written, arranged and conducted by Lalo Schifrin
を発表し、大手RCA Victorに移籍したのは良かったがレーベルの意向で、
・Cycle (RCA Victor, 1965)
・Here's That Rainy Day (RCA Victor, 1966)
・Monday, Monday (RCA Victor, 1966) arranged and conducted by Oliver Nelson
と1作毎にポップ色を強める。ホーンはクインテットを解散し、
・Paul Horn In India (1967, World Pacific)
・Paul Horn In Kashmir (1967, World Pacific)
を皮切りに、発表年には71歳にして遺作になった、
・Imprompture (2001)
・Journey Inside Tibet (2001)
まで30枚あまりのアルバムでフルートを主楽器に世界各地で当地の伝承音楽をフィールド・レコーディングしていった。
ポール・ホーン・クインテットはメンバー面でも『Looking Good!』と親交が深く、ベースのジミー・ボンドは両方を掛け持ちしていた。また、ドラムスのビリー・ヒギンズはオーネット・コールマン・カルテットと掛け持ちだったので『Something Blue』の後コールマン・カルテットでニューヨーク進出したので、『Looking Good!』のドラムスのミルト・ターナーが入れ替わりで加入する。バンドの要はエミール・リチャーズの熱狂的なヴィブラフォンとポール・モアーの自在なピアノにもあった。だがRCA Victorからのクインテットの再デビューではホーン以外は全員メンバー・チェンジしてしまう。ポール・ホーン・クインテットの真価が発揮された最初の3作『Something Blue』『The Sound of Paul Horn』『Profile of a Jazz Musician』は同時代にはほとんど注目もされず、正当な評価も得られなかった、とされる。
(Original Hifi Jazz "Something Blue" LP Side1 Label)
クインテットはレギュラー・メンバーでクラブ出演していたので、レパートリーは十分にアレンジされ、インタープレイできるほど熟成していた。全曲がホーンとメンバーによるオリジナルで、スタンダードのコード進行を使用した曲などまったくない。A1は1コーラスAABA形式40小節だが、G7が16小節、次の16小節は2小節ずつGm, Fm, E♭m, Dmが2回反復され、最後はG7が8小節で終わる。A部分はG7のみでコード進行が存在しないので、G7もしくはGをトニックにしたミクソリディアン・モード(音階)を使用したソロになる。ホーンはフルートを吹き、猛烈なテンポを叩き切るリチャーズのヴィブラフォンが凄まじい。A2はフルートが3/4のワルツタイムのテーマを取り、8小節のコーラスが4小節の間奏で区切られるが、倍テンポ(または3/2)になるソロではホーンはアルトサックスに持ち替える。A3は8小節×4で1コーラスの構成だが、G7→B♭7→D♭7→E7、そしてコーラス冒頭のG7と、短3度ずつ上昇するコード進行で、やはりジョー・ゴードン『Looking Good!』の「Diminishing」(あちらもG7→B♭7→D♭7→E7だった)の先駆をつけており、転調するかモードで押すかの自由度がある。
B面に移ると、B1は3/4拍子で16小節×3で1コーラス。C7が16小節、次の16小節は4小節B♭7、4小節G7、ここで4/4拍子のニュアンスで4小節B♭7、4小節G7が入り、最後の16小節はC7に戻る。マイルス・デイヴィスのクリシェ・フレーズで遊ぶための曲になっている。アルバム・タイトル曲B2はホーンのクラリネットによる12小節ブルースで、すべてのコード・チェンジがマイナー7thなのは異例。B1とB2はマイルス『Kind of Blue』からの影響を直接言及した曲になるだろう。最終曲B3は再びアルトサックス曲になり、ピアノとベースによる2コードの即興イントロから12小節の6/8拍子のアンサンブルになる。テーマも凝ったもので、4/4拍子で12小節(8小節アンサンブル、4小節ドラムス・ソロ)→6/8拍子×8小節→4/4拍子×8小節、という構成になっている。
(Original Hifi Jazz "Something Blue" LP Side2 Label)
1967年のパシフィック・ジャズ盤以来ポール・ホーンの関心はエスニックな方面に移り、インド、中近東、アフリカ、南米など非西欧文化圏の、主に宗教や精神修養を目的とした音楽を学習して次々とアルバム制作する、というものになった。結果的にヒーリング・ミュージック、ニューエイジ・ミュージックの先駆者とされたわけで、ジャズマン出身でホーンよりも早く神秘主義に走った人には、ホーンよりはるかに格上のジミー・ジュフリー(テナー、バリトンサックス、クラリネット)がいる。ジャズマンの多くがポップス寄りのイージーリスニング・ジャズやジャズ・ロック、ファンク、フュージョンに向かった中で、ホーンの音楽はヒッピー世代に斜めにアピールする方向性を持ったものになり、ジャズから生まれてはいるがジュフリー以上にジャズとはいえないものになったものの、オレゴンらの出現を予告し、一定の需要を持って主流ジャズの変質後も、長い音楽活動を可能にすることになった。
ニューエイジ・ミュージック化後のホーンにも稀に主流ジャズのライヴ盤『Riviera Concert』1980などがあり、すっかりフルート演奏に徹しているのだが、『Something Blue』と共通する決定的な不満を覚えずにはいられない。楽曲やアレンジのアイディアは良いしメンバーの演奏も申し分なく、むしろバンドの優れた実力は伝わってくる。だが肝心のポール・ホーンの演奏にまったく魅力がないのだ。メカニカルな演奏テクニックは素晴らしいが、フルートもクラリネットもアルトサックスもただ単に素早く鳴っているだけで全然歌っていない。音色やフレージングに抑揚もなければアドリブ・ソロ自体に情感も意外性もまるでない。悪い意味での職人的で器用な演奏でしかない。『Something Blue』は『Kind of Blue』へのロサンゼルスからのもっとも早い回答だった、という歴史的評価は、今後も歴史的評価の域を出ないだろう。それは単に意欲的な職人の亜流作品以上のものではなかった。
Recorded March, 1960, Los Angeles, CA
Produced by Dave Axelrod.
Released; Hifi Jazz J-615, 1960
All compositions by Paul Horn except as indicated
(Side A)
1.Dun-Dunnee - 7:13
2.Tall Polynesian (Paul Moer) - 8:13
3.Mr. Bond - 8:21
(Side B)
1.Fremptz (Emil Richards) - 6:03
2.Something Blue - 7:37
3.Half and Half - 7:51
[ Personnel ]
Paul Horn - alto saxophone, flute, clarinet
Emil Richards - vibraphone
Paul Moer - piano
Jimmy Bond - bass
Billy Higgins - drums
マイルス・デイヴィス(トランペット)のアルバム『Kind of Blue』の発売は1959年8月17日(59年3月2日、4月22日録音)で、これは翌月の59年9月14日に発売されたチャールズ・ミンガスの『Mingus Ah Um』(59年5月5日・12日録音)、2か月後の59年10月に発売されたオーネット・コールマンの『The Shape of Jazz to Come』(59年)、さらに『Kind of Blue』の参加メンバーでもあるジョン・コルトレーン(テナーサックス)の『Giant Steps』(59年3月4日・5日・12月2日録音、60年1月27日発売)、ビル・エヴァンス(ピアノ)の『Portrait in Jazz』(59年12月28録音、60年9月発売)とともに1960年代ジャズの幕開けになったアルバムであり、上記5枚が60年代以降のジャズに与えた音楽スタイルや楽器の奏法改革はジャズのみならずジャズと隣接した音楽ジャンルにも今なお、及んでいる。特にマイルスのアルバムは映画音楽やポップス、ロックにまで大きな影響を与えた。『Kind of Blue』が示してみせた音楽的方法はモード手法(奏法)と呼ばれる、コード進行ではなく音階(モード)の変則活用、それも非近代西洋音楽音階を応用することで得られる特殊な奏法とムードを狙ったものだった。
マイルスとミンガス、オーネットのアルバムはビ・バップ~ハード・バップとパターンが固定化しつつあった黒人ジャズに新しいコンセプトをもたらした。マイルスのバンドから『Kind of Blue』を最後に独立したコルトレーンはビ・バップの音楽的メカニズムを極めた『Giant Steps』でテナーサックス奏法を革新し、オーネットの大胆な改革に刺激を受けながら『Kind of Blue』で習得した新しい音楽構造のジャズに向かう。ビル・エヴァンスは『Kind of Blue』の音楽構造にバンド唯一の白人メンバーでありながらもっとも貢献することになり、『Portrait in Jazz』はエヴァンスが『Kind of Blue』の立役者だったことを示してジャズ・ピアノの奏法をビ・バップ以来初めて一新してみせた。新しい音楽性には、アコースティック楽器を使用するジャズといえどもすべての楽器の奏法が新しい感覚を表現するものになった。ポール・ホーン・クインテットの『Something Blue』はマイルス門下出身のエヴァンス、コルトレーンを除けばもっとも早く『Kind of Blue』の影響を反映した作品として記憶されているアルバムになる。それがマイルスらの活動するニューヨークのジャズ界ではなく、ロサンゼルスのジャズ界から現れたのも後に再評価される一因になった。もっとも活動中にはポール・ホーン・クインテットは有望新人の集まりながらロサンゼルスのアンダーグラウンド・シーンにとどまり、活動中はほとんど認められなかった。前回取り上げたジョー・ゴードンの『Looking Good!』(61年7月録音)はポール・ホーンと近い傾向の数少ない例だろう。また、こともあろうにデイヴ・アクセルロッド最初期のプロデュース作品であることでも注目される。
(Original Hifi Jazz "Something Blue" LP Liner Notes)
ポール・ホーン(アルトサックス、フルート、クラリネット/1930~2014)は70年代以降はニューエイジ/ヒーリング&ワールド・ミュージックの先駆者として知られたが、プロとしてのスタートはチコ・ハミルトン・クインテットでバディ・コレットを継いだ2代目木管奏者で、チコ・ハミルトン・クインテットはドラムス、ベース、ギターにチェロと木管(サックス、フルート、クラリネットの持ち替えが必須条件)という特異な編成の室内楽的ジャズで人気を集めた。ホーンの後はエリック・ドルフィー、チャールズ・ロイド、渡辺貞夫らがハミルトン・クインテットを去来している。1956年~58年のハミルトン・クインテット在籍中に、
・House of Horn (Dot, 1957)
・Plenty of Horn (Dot, 1958)
・Impressions! (World Pacific, 1959)
の3アルバムを録音し、レギュラー・バンドのポール・ホーン・クインテットを結成する。その第1作が、
・Something Blue (HiFi Jazz, 1960)
で、クインテットの作品は、
・The Sound of Paul Horn (Columbia, 1961)
・Profile of a Jazz Musician (Columbia, 1962)
と続く。メジャーのコロンビアへの移籍が叶ったのだからたいしたものだろう。ただし次回2作はホーンの単独名義で、
・Impressions of Cleopatra (Columbia, 1963)
・Jazz Suite on the Mass Texts (RCA Victor, 1964) written, arranged and conducted by Lalo Schifrin
を発表し、大手RCA Victorに移籍したのは良かったがレーベルの意向で、
・Cycle (RCA Victor, 1965)
・Here's That Rainy Day (RCA Victor, 1966)
・Monday, Monday (RCA Victor, 1966) arranged and conducted by Oliver Nelson
と1作毎にポップ色を強める。ホーンはクインテットを解散し、
・Paul Horn In India (1967, World Pacific)
・Paul Horn In Kashmir (1967, World Pacific)
を皮切りに、発表年には71歳にして遺作になった、
・Imprompture (2001)
・Journey Inside Tibet (2001)
まで30枚あまりのアルバムでフルートを主楽器に世界各地で当地の伝承音楽をフィールド・レコーディングしていった。
ポール・ホーン・クインテットはメンバー面でも『Looking Good!』と親交が深く、ベースのジミー・ボンドは両方を掛け持ちしていた。また、ドラムスのビリー・ヒギンズはオーネット・コールマン・カルテットと掛け持ちだったので『Something Blue』の後コールマン・カルテットでニューヨーク進出したので、『Looking Good!』のドラムスのミルト・ターナーが入れ替わりで加入する。バンドの要はエミール・リチャーズの熱狂的なヴィブラフォンとポール・モアーの自在なピアノにもあった。だがRCA Victorからのクインテットの再デビューではホーン以外は全員メンバー・チェンジしてしまう。ポール・ホーン・クインテットの真価が発揮された最初の3作『Something Blue』『The Sound of Paul Horn』『Profile of a Jazz Musician』は同時代にはほとんど注目もされず、正当な評価も得られなかった、とされる。
(Original Hifi Jazz "Something Blue" LP Side1 Label)
クインテットはレギュラー・メンバーでクラブ出演していたので、レパートリーは十分にアレンジされ、インタープレイできるほど熟成していた。全曲がホーンとメンバーによるオリジナルで、スタンダードのコード進行を使用した曲などまったくない。A1は1コーラスAABA形式40小節だが、G7が16小節、次の16小節は2小節ずつGm, Fm, E♭m, Dmが2回反復され、最後はG7が8小節で終わる。A部分はG7のみでコード進行が存在しないので、G7もしくはGをトニックにしたミクソリディアン・モード(音階)を使用したソロになる。ホーンはフルートを吹き、猛烈なテンポを叩き切るリチャーズのヴィブラフォンが凄まじい。A2はフルートが3/4のワルツタイムのテーマを取り、8小節のコーラスが4小節の間奏で区切られるが、倍テンポ(または3/2)になるソロではホーンはアルトサックスに持ち替える。A3は8小節×4で1コーラスの構成だが、G7→B♭7→D♭7→E7、そしてコーラス冒頭のG7と、短3度ずつ上昇するコード進行で、やはりジョー・ゴードン『Looking Good!』の「Diminishing」(あちらもG7→B♭7→D♭7→E7だった)の先駆をつけており、転調するかモードで押すかの自由度がある。
B面に移ると、B1は3/4拍子で16小節×3で1コーラス。C7が16小節、次の16小節は4小節B♭7、4小節G7、ここで4/4拍子のニュアンスで4小節B♭7、4小節G7が入り、最後の16小節はC7に戻る。マイルス・デイヴィスのクリシェ・フレーズで遊ぶための曲になっている。アルバム・タイトル曲B2はホーンのクラリネットによる12小節ブルースで、すべてのコード・チェンジがマイナー7thなのは異例。B1とB2はマイルス『Kind of Blue』からの影響を直接言及した曲になるだろう。最終曲B3は再びアルトサックス曲になり、ピアノとベースによる2コードの即興イントロから12小節の6/8拍子のアンサンブルになる。テーマも凝ったもので、4/4拍子で12小節(8小節アンサンブル、4小節ドラムス・ソロ)→6/8拍子×8小節→4/4拍子×8小節、という構成になっている。
(Original Hifi Jazz "Something Blue" LP Side2 Label)
1967年のパシフィック・ジャズ盤以来ポール・ホーンの関心はエスニックな方面に移り、インド、中近東、アフリカ、南米など非西欧文化圏の、主に宗教や精神修養を目的とした音楽を学習して次々とアルバム制作する、というものになった。結果的にヒーリング・ミュージック、ニューエイジ・ミュージックの先駆者とされたわけで、ジャズマン出身でホーンよりも早く神秘主義に走った人には、ホーンよりはるかに格上のジミー・ジュフリー(テナー、バリトンサックス、クラリネット)がいる。ジャズマンの多くがポップス寄りのイージーリスニング・ジャズやジャズ・ロック、ファンク、フュージョンに向かった中で、ホーンの音楽はヒッピー世代に斜めにアピールする方向性を持ったものになり、ジャズから生まれてはいるがジュフリー以上にジャズとはいえないものになったものの、オレゴンらの出現を予告し、一定の需要を持って主流ジャズの変質後も、長い音楽活動を可能にすることになった。
ニューエイジ・ミュージック化後のホーンにも稀に主流ジャズのライヴ盤『Riviera Concert』1980などがあり、すっかりフルート演奏に徹しているのだが、『Something Blue』と共通する決定的な不満を覚えずにはいられない。楽曲やアレンジのアイディアは良いしメンバーの演奏も申し分なく、むしろバンドの優れた実力は伝わってくる。だが肝心のポール・ホーンの演奏にまったく魅力がないのだ。メカニカルな演奏テクニックは素晴らしいが、フルートもクラリネットもアルトサックスもただ単に素早く鳴っているだけで全然歌っていない。音色やフレージングに抑揚もなければアドリブ・ソロ自体に情感も意外性もまるでない。悪い意味での職人的で器用な演奏でしかない。『Something Blue』は『Kind of Blue』へのロサンゼルスからのもっとも早い回答だった、という歴史的評価は、今後も歴史的評価の域を出ないだろう。それは単に意欲的な職人の亜流作品以上のものではなかった。