Recorded in NYC, January 6, 1950 (A1 to A4), June 21, 1949 (B1 to B4), April 14, 1950 (A5, A6, B5, B6).
Released Prestige 7002, 1955
(Side A)
A1. There's A Small Hotel (Rogers-Hart) - 2:53
A2. I've Got You Under My Skin (C.Porter) - 3:16
A3. What's New (Haggart-Burke) - 3:20
A4. Too Marvelous For Words (Mercer-Whiting) - 2:54
A5. You Stepped Out Of A Dream (Kahn-Brown) -? 2:50
A6. My Old Flame (Johnston-Coslow) - 2:41
(Side B)
B1. Long Island Sound (S.Getz) - 2:56
B2. Indian Summer (V.Herbert) - 2:47
B3. Mar-Cia (S.Getz) - 2:40
B4. Crazy Chords (S.Getz) - 3:37
B5. The Lady In Red (Dixon-Wrubel) - 3:12
B6. Wrap Your Troubles In Dreams (Barris-Koheler-Moll) - 3:04
[ Personnel ]
Stan Getz - tenor saxophone (all tracks) with ;
Al Haig - piano
Gene Ramey - bass
Stan Levey - drums (tracks: B1 to B4)
Al Haig - piano
Tommy Potter - bass
Roy Haynes - drums (tracks: A1 to A4)
Tony Aless - piano
Percy Heath - bass
Don Lamond - drums (tracks: A5, A6, B5, B6)
スタン・ゲッツ(テナーサックス、1927~1991)が発足間もなかった新興インディーズ・ジャズ・レーベルのプレスティッジに残した録音は1949年6月(4曲)、1950年1月(7曲)、1950年4月(4曲)の3回のセッション・計15曲があり、LPレコードの実用化は1951年からだからこれらはまず78回転のSPレコード(シングル盤に当たる)で曲単位で発売され、LPレコードは当初片面10分強の10インチ(25cm)LPだったから2枚に分けてLP化され、1955年に実用化された12インチ(30cm、以後CDの登場までこれが標準仕様になる)LPで全15曲のうち50年1月セッションの7曲のうち統一性からジュニア・パーカー参加のヴォーカル曲2曲『Stardust』『Goodnight My Love』、収録時間の制限と出来映えからゲッツのオリジナル曲『Intoit』(ディジー・ガレスピー『チュニジアの夜』のコード進行による即興曲)を除く12曲がまとめられた。同時期にサヴォイやキャピトルに数曲の録音もあるが、アメリカ東部の白人ビッグバンドの最高峰だったウッディ・ハーマン楽団(西はスタン・ケントン楽団)の花形ソロイスト出身のゲッツの、自己名義の最初のフル・アルバムがこの『スタン・ゲッツ・カルテット』になる。
このアルバムに収録されたセッションはアル・ヘイグ、トミー・ポッター、ロイ・ヘインズらチャーリー・パーカー・クインテットからの参加メンバー含め、当時ビ・バップの精鋭として活動していたジャズマンを集めたもので、ゲッツが自分のレギュラー・カルテットを率いた録音はプレスティッジの次に契約したルースト・レーベル(ルーレット・レコーズ)からになり、ツアー中に見出した新人ピアニスト、ホレス・シルヴァー(1928~2014)をフィーチャーしたルーストからのアルバム『スウィーティ・パイ』『ザ・サウンド』(現在は『コンプリート・ルースト・セッション』Vol.1、Vol.2に再編集)に収録された50年12月~51年8月の録音はプレスティッジの『スタン・ゲッツ・カルテット』よりさらに素晴らしいが、ルースト録音をまとめたリンクがなく、やむなくこちらをご紹介することになった。だが、これだって絶品のアルバムなのはどれか1曲でも聴けばわかる。
ルースト録音に較べれば八分咲きとはいえ、これが22~23歳の録音なのだから恐ろしい。天才というのは本当にいる見本みたいなもので、完全な個性が完璧に完成したかたちでデビュー作にして出来上がっている。ゲッツは晩年約5年間は肝臓癌と闘病しながら限界まで演奏活動を続け、没年は1991年だからデビュー作から40年間白人ジャズ・テナーの頂点を守り続けた。私生活で事件を起こしてしばらくはアメリカのジャズ界を干されてヨーロッパに移住せざるを得なくなったり、ジャズ不況の時代にはボサ・ノヴァでしのいだら(ゲッツはボサ・ノヴァを、クール・ジャズ時代のマイルスやゲッツ自身の音楽のブラジル風ポップ化と捉えていた)『ジャズ・サンバ』1962が全米アルバム・チャート1位、『ビッグ・バンド・ボサ・ノヴァ』1963・同13位、『ゲッツ/ジルベルト』1964・同2位(1位が『ミート・ザ・ビートルズ』だったため)、シングル『イパネマの娘』も64年に5位(上位4曲はビートルズが独占)と、ビートルズの『抱きしめたい』の次にヴォーカル曲『ハロー・ドゥーリー』でNo.1ヒットを獲得したルイ・アームストロングとともにビートルズに拮抗した数少ないジャズマンになる。だがゲッツの本心はジャズ一筋の人で、クラブ出演ではボサ・ノヴァはやらず、黒人テナーの最先端ジョン・コルトレーン・カルテット(コルトレーンはゲッツより1歳年長だが、デビュー作は30歳と晩熟だった)との競演を好んだ。
ジャズがきつかった時代をボサ・ノヴァで乗り切ったゲッツはジャズ・ロック~ファンク、フュージョンには行かずに済んだ。ゲッツは中学中退でビッグバンドに就職し、教育の不足を痛感していたが、5人の子供を大学卒業させる経済的余裕もボサ・ノヴァ作品のヒットによるものだと割り切っていた。時たまポピュラー寄りの企画アルバムも引き受けたが、それから晩年までのゲッツ、特に肝臓癌の発症が判明してからのゲッツは純粋にデビュー作当初の主流モダン・ジャズに徹する。ゲッツと同世代で、ゲッツと似たキャリアを送ったのがチェット・ベイカー(トランペット、1929~1988)で、ゲッツよりも生活の不安定(60年代以降のチェットは没年まで転々とヨーロッパ諸国を移住した)に生涯さらされながらもビ・バップの白人ジャズ・トランペット奏者であり続けた。ゲッツとチェットとの共演アルバムも初期から晩年まで残されている。
ジャズ・テナーの巨匠の系列というと、まずコールマン・ホーキンス(1903~1969)がジャズ史上初のテナー・ソロイストとして上がり、ハードなトランペット・スタイルのホーキンスに対してソフトなクラリネット・スタイルを発明したレスター・ヤング(1909~1959)が現れ、ホーキンスとレスターの折衷的スタイルとしてソニー・ロリンズ(1929~)とジョン・コルトレーン(1926~1967)が戦後のモダン・ジャズをリードした。白人ジャズマンで唯一黒人テナーの巨匠に伯仲できるテナー奏者と生前から評価が揺るぎなかったのがスタン・ゲッツだった。次点と言える白人奏者はズート・シムズと、グッと渋くなってしまう。ズートはジミー・ジュフリー系のクール・スタイルもボサ・ノヴァもこなし、ズートにありゲッツにない味はアーシーなブルース・フィーリングがある。だがゲッツほどのイマジネーションの豊かさや鋭さ、スケールの大きさには届かないのが音楽の難しさで、ズートは超一流だがゲッツは唯一無二と感じさせる違いが両者を分けている。
ゲッツ自身は自分をビ・バップからクール・ジャズに進んだモダニストとしてマイルスと同じ方向性のプレイヤーだと考えていたが、一般的にモダン・ジャズのテナー奏者とは言えてもゲッツのスタイルはレニー・トリスターノ(ピアノ)が理論的指導者になったリー・コニッツ(アルトサックス)らのクール・スタイルとも、ギル・エヴァンス(アレンジャー)をブレインにマイルス・デイヴィスやジェリー・マリガン(バリトンサックス)らが作り出したクール・スタイルとも直接の関係のないもので、リー・コニッツの革新的スタイルは白人サックス奏者にアルト、テナー、バリトンの違いを超えて大きかった。それはトリスターノの指導でビ・バップの主流だったチャーリー・パーカーのスタイルをレスター・ヤングのスタイルから再構成したもので(パーカー自身がコールマン・ホーキンスのスタイルをレスターのスタイルから再解釈したもの、またはその逆だったが)、ゲッツはごく大雑把に、感覚的にコニッツ経由のレスター・ヤング・スタイルをクール・ジャズと考えていたと思われる。コニッツはゲッツと同年生まれだから、影響力の大きさではゲッツ以上の上、88歳の現在も現役という早熟の天才にして長命ジャズマンだが、ゲッツのようなポピュラリティを一度も持ち得なかった。レスターやパーカー、ゲッツ、またコニッツと並ぶ白人アルト最高峰のアート・ペッパーは不調ややっつけの演奏でも惹きつけられるが、コニッツの不出来な演奏はまったく面白くない。コニッツほど徹底して演奏から人間味を削ぎ落としたジャズマンはないからで、それが画期的なクール・スタイルとクールの限界をどちらも体現することになった。ゲッツは本能的にトリスターノ派ともマイルス一派とも理論的接触は避けていたと思える。
問題はゲッツにとってのレスター・ヤングで、生前刊行の自伝でアート・ペッパーは自分の影響のすべてはレスターから、60年代以降はコルトレーンも、そしてスタン・ゲッツの演奏は大嫌いだし一度も良いと思ったことがない、とゲッツを目の敵にしていた。アート・ペッパーは白人アルトサックス奏者として、テナーのゲッツに対抗し得る唯一の天才プレイヤーだろう。アルトサックスは黒人・白人ともに優れた奏者を多く生んでいるが、モダン・ジャズはそもそもチャーリー・パーカー以降のジャズを指すくらいだからパーカーの存在感が突出して大きく、方法的に非パーカー的手法を編み出したのはコニッツだが、コニッツの感化があったにせよ方法的でなくまったくパーカーと異なるモダン・ジャズのアルトサックス奏法をほとんど独力で発見したのがペッパーだった。パーカーの演奏については具体的に醜悪として退けるペッパーが、ゲッツに対しては無条件に、ほとんど憎悪といえる感情を抱いていたのは、ともにレスター・ヤングから受けた大きな影響の決定的相違によるものだと思える。
ゲッツは白人モダン・ジャズテナーの雄だが、レスター・ヤングを取ったら何も残らないではないか、という評価が生前からあり、没後もゲッツに否定的な評価はゲッツをレスターの安易な通俗化とする。ペッパーについてはアルト奏者という違いもあるし、パーカーがレスターからの影響を感じさせるよりもペッパーがレスターやパーカーを突き抜けた個性的なスタイルを打ち出した印象の方が大きい。ペッパーのゲッツへの憎悪も同様の見解によるものと思われる。ではゲッツは単なるレスター・ヤング模倣者の白人テナーだったのか。レスターがいなければゲッツはなかったと、ひとまずは言えるのだが、単なる模倣者ならこれほど鮮やかなデビューも充実したキャリアもなかっただろう。『スタン・ゲッツ・カルテット』録音の1949年体1950年はビ・バップの勢いは頂点で、ゲッツのサウンドはビ・バップの洗礼を受けたモダン・ジャズながら特異で、しかも親しみやすいスタイルのものだった。ペッパーの『サーフ・ライド』1952の過剰なまでにめまぐるしく圧倒してくるサウンドの饒舌さとは違う。また、レスターの演奏が好調な時でさえいつ壊れそうな臨界点を感じさせたようには、ゲッツの音楽は不安定にはならない。これらの特徴を評価の基準にするのは妥当なのか、音楽の良し悪しとは難しいものだと思う。