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ヘルマン・ヘッセ 年譜と作品

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 ヘルマン・ヘッセという作家のプロフィールを年譜で示してみた。年譜は日本・ヘルマン・ヘッセ友の会編(臨川書店『ヘルマン・ヘッセ全集』公式HP)からお借りし、*の項目で注釈を加えた。14歳までのヘッセが文化的エリートの家庭に育ち、挫折と見えるものも周囲の援助によって収拾されているのに注意されたい。一貫してヘッセは恵まれた環境にいた、ということになる。

[生誕~10代まで・1877年~1896年]
・1877年 7月2日南ドイツ・シュヴァーベン地方、ヴュルテンベルク州の小都市カルプに、バルト出身の宣教師で後の「カルプ出版協会」指導者ヨハネス・ヘッセと、著名なインド学者で宣教師ヘルマン・グンデルトの長女マリー・ヘッセとの間の第二子、長男として誕生。
・1881年 4歳 4月、父が伝道館での仕事につくため、一家でバーゼルに転居。
・1883年 6歳 父がスイス国籍を取得(それ以前はロシア国籍だった)。
・1886年 9歳 7月、カルプに戻る。
・1888年 11歳 カルプのギムナージウムに入学。州試験準備のためラテン語、ギリシャ語の特別授業も受ける。
・1890年 13歳 神学校受験準備のため、ゲッピンゲンのラテン語学校入学。スイス国籍を放棄し、ヴュルテンベルク州に移籍。
・1891年 14歳 ヴュルテンベルク州試験合格。9月、マウルブロン神学校入学。
・1892年 15歳 3月、入学6カ月目で神学校から逃げ出す。4~5月、「悪魔払い」のためバート・ボルのクリストフ・ブルームハルトのもとで過ごす。6月、自殺未遂。8月までシュテッテン神経科病院シャル牧師の指導を受け、やや落ち着く。11月、カンシュタットのギムナージウムに入学。一年間の試験在学(ギムナージウム7年生資格)に合格。
*初めての反抗的挫折と言えるものだが、すぐに救済措置が取られたことに注目。ヘッセ家の社会的地位の高さがわかる。
・1893年 16歳 5月、祖父グンデルトの死後、父がカルプ出版協会の指導者となる。10月、カンシュタットのギムナージウムを退学。エスリンゲンで書店の店員となるが、三日で逃げ出す。父の助手として、カルプ出版協会を手伝う。祖父の図書室で、広範な読書をする。
*書店員経験は後に『車輪の下』で描かれるが、ヘッセの場合は縁故就職的アルバイトでしかも三日で辞め、出版協会理事長の実父の助手という名目だけの職に着いている。『車輪の下』をプロレタリア小説的に読むのは誤謬だろう。
・1894年 17歳 6月、カルプのペロット塔時計工場で見習いとして働く。
・1895年 18歳 10月、テュービンゲンのヘッケンハウアー書店で見習い店員として働く。

[20代・1897年~1906年]
・1898年 21歳 10月、『ロマン的な歌』が最初の詩集としてドレースデンのピエールゾン社から出版される。
・1899年 22歳 テュービンゲンの仲間と「プティ・セナークル(小さな結社)」を結成。6月、散文集『真夜中すぎの一時間』がイェーナのディーデリヒス社から出版される。9月、バーゼルのR・ライヒ書店の助手となり、販売および古書部担当(1901年1月まで)。
* 旺盛な文学青年活動は、実家の後援なしには考えづらい。
・1901年 24歳 秋、『ヘルマン・ラウシャー』(『真夜中すぎの一時間』の増補改作)がバーゼルのライヒ書店から出版される。
*『ヘルマン・ラウシャー』夭逝した友人の詩人の遺稿集の体裁を取った詩文集で事実上の本格的処女作。アンドレ・ジッド(1969~1951)の処女作『アンドレ・ワルテルの手記』1891に照応する点が興味深い(遺稿集形式自体は珍しくない)。
・1902年 25歳 『詩集』をベルリンのグローテ社から出版。母マリー・ヘッセに捧げるが、刊行直前に死去。バーゼルの牧師の娘、エリーザベトに恋をする。
・1903年 26歳 5月、マリーア・ベルヌリと婚約。
・1904年 27歳 『ペーター・カーメンツィント(郷愁)』出版、一躍文名をあげる。8月バーゼルでマリーア・ベルヌリと結婚。ボーデン湖畔のガイエンホーフェンに住む。
*『ペーター・カーメンツィント(郷愁)』都会生活に疲れた詩人志願の青年が故郷の田舎に安らぎを見出すまで。小説らしい体裁が整ってきた。ストーリーよりはエピソードの集積の観はまだある。
・1905年 28歳 10月、『車輪の下』出版。12月、長男ブルーノ誕生。
*『車輪の下』20代のヘッセの代表作として明快なプロットとストーリー性を持ち、順調な作家的成長を感じさせるが、テーマ的には借り物とも思える。

[30代・1907年~1916年]
・1907年 30歳 5月、小説集『此の岸』出版。ガイエンホーフェンに自宅「エルレンロー」を新築し移転。
*『ペーター・カーメンツィント(郷愁)』と『車輪の下』の成功で経済的な自立が成り、短編小説の多作時代に入る。短編小説がテーマの集中、プロットの緊密化のトレーニングとなる。
・1908年 31歳 小説集『隣人』出版。
・1909年 32歳 3月、次男ハイナー誕生。
・1910年 33歳 小説『ゲルトルート(春の嵐)』出版。
* 一人の女性をめぐり自滅していく二人の男、という陰惨な話だが、短編小説の多作が功を奏したか『車輪の下』から飛躍的に社会的視野の拡大、人間関係への洞察に進展が見られる。
・1911年 34歳 7月、三男マルティン誕生。詩集『途上』出版。9月~12月、画家ハンス・シュトゥルツェンエガーとともにインド旅行。
・1912年 35歳 小説集『まわり道』出版。家族とともにドイツを去り、ベルンに移住。
・1913年 36歳 紀行『インドから』出版。
*夫人との不和からか、家庭生活からの逃避願望が作品中に表れる。
・1914年 37歳 小説『ロスハルデ(湖畔のアトリエ)』出版。この年から19年にかけて『おお友よ、その調べにあらず!』などの警告文、公開書簡をドイツ、スイス、オーストリアの新聞、雑誌に発表、ドイツ全土の新聞によって売国奴と罵られ、排斥される。
*『ロスハルデ(湖畔のアトリエ)』画家の夫とピアニストの妻(ヘッセ夫人と同じく)の家庭崩壊小説。ヘッセ作品中ドイツ語圏でもっとも読まれている作品。図式的だがブルジョワ小説として大戦中の雰囲気をよく反映しているのが人気の高さにつながっていると思われる。
・1915年 38歳 小説『クヌルプ』、小品集『路傍』、詩集『孤独者の音楽』、小説集『青春は美わし』出版。
*『クヌルプ』『ペーター・カーメンツィント(郷愁)』と同時期に草稿が書かれた作品を短編小説3編の連作として改作・完成させたもの。アイヒェンドルフ『のらくら者日記』1826の流れをくむロマン主義的放浪者もので、伝統回帰の傾向が見られる。
・1916年 39歳 父ヨハネス・ヘッセ死去。妻と三男マルティン発病。
* ヘッセ自身も第一次大戦開戦前後からノイローゼを患い、治療を受けていた。夫人と子息(5歳)の同時発症は尋常な危機ではないだろう。

[40代・1917年~1926年]
・1917年 40歳 ユングと出会う。『デーミアン』執筆。
・1918年 41歳 妻の精神病発作。
・1919年 42歳 1月、『ツァラトゥストラの再来 -ドイツの青年に一言』執筆、匿名で発表。6月、『デーミアン』をエーミル・シンクレアの匿名で出版。同時に『メールヒェン』出版。
* 精神分析治療小説『デーミアン』とロマン主義的作品集『メールヒェン』の同時発表も奇妙だが、実験的・告白的な『デーミアン』が匿名出版されたのは有名作家の新作としてより、より純粋な反響を見たかったからと思われる。
・1920年 43歳 2月、テッシン州より定住許可を得る。5月、『クリングゾルの最後の夏』出版。7月、『混沌を見る』出版。10月、『放浪』出版。
*『クリングゾルの最後の夏』は表題作他『子どもの心』『クラインとワグナー』を収め、『デーミアン』と並ぶ重要作。後に『シッダールタ』と合本され『内面への道』と題される。『混沌を見る』はドストエフスキー論2編を中心にした全3編のエッセイ集で、ヨーロッパ文化の没落を論じてエリオットの『荒地』1922に影響を与えたもの。
・1921年 44歳 ダダイズムの創始者フーゴー・バル夫妻との交友。ユングのもとで精神分析を受ける。
* フロイトではなくユングだったのも、ヘッセの大乗的志向には相性が良かっただろう。
・1922年 45歳 10月、『シッダールタ』出版。
*ヘッセの祖父母はインドでの伝道経験があり、古代インドの修行者を描いた『シッダールタ』は『荒野のおおかみ』とともに1960年代アメリカでヒッピーの聖典になった。
・1923年 46歳 妻マリーアと離婚。
・1924年 47歳 1月、ルート・ヴェンガーと結婚。ベルンの市民権獲得。
* 前夫人とは発症から5年間経っていた。新夫人は知友の女流作家令嬢だった。
・1925年 48歳 『湯治客』『ピクトルの変身』出版。
*『湯治客』は坐骨神経痛で通っていた湯治場を描いたもの。『ピクトルの変身』は『メールヒェン』新版に編入されたが『デーミアン』以降の作風を示す。
・1926年 49歳 スケッチ集『絵本』出版。

[50代・1927年~1936年]
・1927年 50歳 妻ルートの希望で結婚を解消。5月、『ニュルンベルクの旅』出版。6月、『荒野のおおかみ』出版。フーゴー・バルの『ヘッセ伝』出版。
* ヘッセ最大の問題作のひとつ『荒野のおおかみ』は『デーミアン』『シッダールタ』と並んで1960年代にヒッピーの聖典となったが、ヒッピーに人気の高かった作家カート・ヴォネガットJr.はヘッセとの比較に猛反発し、講演用論文でヘッセ作品の文学的価値を一刀両断している。確かにそれだけの文学的破綻を含んだ作品ではある。
* フーゴー・バルとの交友も『荒野のおおかみ』に影響したと思えるが、バルは『ヘッセ伝』出版直後に急逝する。
・1928年 51歳 4月、詩集『危機』出版。夏、随筆集『観察』出版。
*『危機』は限定出版で、短い再婚生活を通した精神的危機をテーマにした詩集版『荒野のおおかみ』。
・1929年 52歳 新詩集『夜の慰め』、読書案内『世界文学文庫』出版。
*『世界文学案内』は『世界文学をどう読むか』などさまざまな邦題で翻訳されて読まれた文学ガイドブック。
・1930年 53歳 長編『ナルツィスとゴルトムント(知と愛)』出版。
*『ナルツィスとゴルトムント(知と愛)』は『デーミアン』『シッダールタ』以降のテーマを、『クヌルプ』や『メールヒェン』『クリングゾルの最後の夏』などロマン主義系列のテーマと上手く融合させた。分量的にもそれまでの最長の『荒野のおおかみ』をさらに上回る大作となった。
・1931年 54歳 ニノン・アウスレンダーと正式に結婚。『内面への道』を出版。
・1932年 55歳 3月、『東方への旅』出版。『ガラス玉遊戯』執筆開始。
・1933年、ヒトラー政権成立。1935年、弟ハンス自殺。
・1936年 59歳 「ゴットフリート・ケラー賞」受賞。『庭のひととき』出版。

[60代・1937年~1946年]
・1937年 60歳 『新詩集』、散文集『思い出草紙』出版。
・1939年、ヒトラー政権から「退廃的作家」とされ、ヘッセ作品への印刷用紙割り当てが止められる。
・1942年 65歳 『ガラス玉遊戯』脱稿。
・1943年 66歳 『ガラス玉遊戯』二巻出版。
*『ガラス玉遊戯』は『荒野のおおかみ』や『ナルツィスとゴルトムント(知と愛)』の、さらに二倍の分量(文庫本で700ページ相当)になった大作。22世紀の未来社会を描いたユートピア小説で広義のファンタジーであり、思想的には普遍性に達しているか出版当時から論議された。だがノーベル文学賞の受賞の決め手になったのは間違いない。
・1946年 69歳 フランクフルト市のゲーテ賞受賞。ノーベル文学賞受賞。評論集『戦争と平和』出版。

[70代~晩年・1947年~1962年]
・1950年 73歳 ヴィルヘルム・ラーベ賞受賞。
・1951年 74歳 『晩年の散文』、『書簡選集』出版。
・1952年 75歳 ズーアカンプ社より『全作品集』を六巻本として出版。
・1954年 77歳 『ヘッセとロマン・ロラン往復書簡集』出版。
・1958年 78歳 西ドイツ出版社協会から平和賞を贈られる。
・1956年 79歳 ヘルマン・ヘッセ賞がカールスルーエ市に設けられる。
・1957年 80歳 80歳を記念して、『全作品集』に第7巻(観察、書簡、日記、断片)を増補、『全著作集』とする。
・1962年 85歳 8月9日、モンタニョーラで死去する。11日、近くの聖アボンディオ教会に葬られる。

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