(画像上=ソプラノサックス、アルトサックス、テナーサックス)
(画像下=クラリネット、フルート、プラスチック・アルトサックス)
音楽をやりたいから楽器を習得するのは誰しも同じだろうが、やりたい楽器があるから音楽をやるのとやりたい音楽があるから楽器をやるのとは違うのではないだろうか。前者の場合は音楽教室や音楽サークル活動に参加して学ぶだろうし、後者はリスナーから始まっているから基本は独学で、実践から技術や方法を身につけていくことになる。その場合、楽器について語る前にどんないきさつで楽器にたどり着いたかから書かなければならないだろう。
もともと中学生の頃からロックが好きでギターを始め、高校時代からは仲間うちで長続きしないバンドをいくつかやっていた。長続きしないのはまだ10代だと音楽の好みがころころ変わるからで、唯一一年近く続いたバンドは全曲筆者のオリジナル曲(といっても拙いものだが)だったのでブレなかったのだと思う。
そのうちロックでも実験的なものを聴くようになって、そうしたものはインストルメンタル主体のものが多く、次第にヴォーカル・パートの入らないロックでも聴けるようになってきた。ロックの発達史でビート・グループからブルース・ロックへは断絶があり、ブルース・ロックからサイケデリック・ロック、プログレッシヴ・ロック、ハード・ロックへの発展があり、パンクやポスト・パンク以降のロックも1970年前後の混沌とした時期に孤立した先例がいくつもあるのがわかった。そうなると仲間うちで安易にコピーバンドなどやっても面白くない。
その頃には社会人になっていた。ある朝職場で仕事前の掃除をしていると、親しい同僚がラジカセでカセットテープをかけた。なんだかよくわからない管楽器の咆哮が無伴奏で始まると、これまでロックでも数回しか聴いたことがない殺気立ったスネア・ドラムの一撃で曲が姿を現した。ジャズなんだろう。これがジャズなら今までロックに求めていた要素は全部そこにあって、しかもロックより凄いじゃないか。
泡をくって同僚になんのアルバムか訊いた。エリック・ドルフィー『ラスト・デイト』、カセットテープを借りて何度も聴き、初めて買ったジャズのアルバムになる。ついていたことに、実家にお兄さんやおじさんの置いていったアナログ盤があるんだけどLPプレーヤーなくて、という同僚たちからカセットテープに録音を頼まれたアルバムはモダン・ジャズの基本ライブラリーといって良いものだった。ジョン・コルトレーンの『ヒストリック・パフォーマンス』とチャールズ・ミンガスの『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』、オーネット・コールマンの『フリー・ジャズ』、オリヴァー・ネルソンの『ブルースの真実』にもエリック・ドルフィーは参加していた。
名盤ガイドブックとして一番活用したのは油井正一『ジャズ ベスト・レコード・コレクション』(新潮文庫1986)で、ジャズの発達史についてはたまたま興味本位で蔵書にあった相倉久人『モダン・ジャズ鑑賞』(角川文庫1981・原著1963)が筋道をつけてくれた。1963年の時点で相倉氏の注目するアーティストはレニー・トリスターノ、チャールズ・ミンガス、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、エリック・ドルフィー、ビル・エヴァンス、オーネット・コールマン、セシル・テイラーで、氏の高い見識がうかがわれる。ドルフィーに続いて、ドルフィー以上に夢中にさせてくれたのはミンガスとコルトレーンだった。そこでわかったのは、ロックがビート・グループからブルース・ロック以降の発展をとげるのにはマイルス、ミンガス、コルトレーン、オーネットらのジャズが直接の音楽的アイディアになっているということで、モダン・ブルースよりもその比重は高いと思われる。
それでひと仕事終えた時に、思わず買ってしまったのがアルトサックスだった。コルトレーンが好きなのにアルトを買ったのは店頭で「初めてサックスを始める方に」と札が出ていたのと、アルトもテナーも大差なかろうと思ったからだ。全然違う楽器でごさいます。音域の高さから並べるとソプラノ→アルト→テナー→バリトンと低くなるが、名称通りアルトは女性の声域、テナーは男性の声域といえて、犬でいえばチワワ→秋田犬→土佐犬→ドーベルマン、猫なら三毛猫→チーター→虎→ライオンほどの違いがある。だがチワワにもチワワの道があり、秋田犬には土佐犬にはないフットワークの軽さがある。もっともテナー奏者にコンプレックスを持たないアルト奏者は少ないし(ソプラノはテナー奏者の持ち替えの場合が多い)、サックス奏者は金管奏者には劣等感を抱いているのだ。
アルトの独学を始めるようになったら、フルートを知人から譲ってもらえることになった。そうなったらクラリネットも知りたくなって、学習用の安いプラスチック・クラリネットを買った。アルトもなんとか吹けるようになったら、アルト同様安い台湾製のソプラノサックスも手に入れた。一応アルトとソプラノ、クラリネットは同じくらい吹けるようになった頃にはジャムセッションや自分のバンド(楽器店の張り紙コーナーで集めた)で人前で演奏するようになっていた。
同じ頃から始めたのに、フルートは全然上達しなかった。楽譜を書いてあらかじめ練習しておいた分を吹くのがやっとで、アドリブがとれない。特定の曲のテーマ部で使うのがせいぜいだった。また、人前で演奏するようになってからアメリカン・セルマー(略称アメセル)のテナーサックスの新品!を知人から安く譲ってもらえることになった。アメセルのサックスといえばエレキギターならギブソン・レスポールみたいなもので、保証書つきのプロ仕様だから30万円もアコースティック楽器としては当然になる。その新品未使用品を10万円で譲ってもらえることになったのだが、吹いてみて愕然とした。吹けないことはないのだが、自分の感覚では中音域から上しか使えないのだ。つまりアルトサックスの音域より下の音域を含むフレージングをイメージできない。管体がでかいから音も遠鳴りしているように聞こえる。使い慣れているドスを日本刀に替えたような使い勝手の違いがある。重いのだ。
そんなわけで、せっかくのアメセルなのにライヴでは一度も使うことがなかった。持っている楽器の中では一番の高級品なのにだ。アメセルのアルトを人に少し吹かせてもらったことがあるが(もちろんマウスピースは替えて)、まともな楽器というのは同じアンブシュアで指づかい通りの音が正確に出るのに呆れた。筆者の使っている台湾製アルトなんかはアンブシュアで調整しないと指づかい通りの音が出ないのだ。おかげで自分に絶対音感があるのが判明してしまったが、前向きに考えれば安物楽器のせいで正確にピッチを修正しながら演奏する訓練になり、逆にピッチを歪める奏法も習得する結果になった。うちのバンドはどちらかといえばテナーをフロントにしたバンドが採用するレパートリーを演奏していたが、音域的にはテナーなら中音域以上になる吹奏をして違和感がなかったのは最初からまともなアルトサックスらしい音色ではなかったからだった。
ソプラノサックスなどはもっとピッチの悪い楽器だったから、エオリアン・モード(音階)とペンタトニック(五音階)専門に使っていた。つまり左手しか使わないのでソラシドソ、という五音階になる。ソラシドソならソがトニックになるのでエオリアンということにもなる。
通常ソプラノサックスで演奏されるようなことはクラリネットを使っていた。クラリネットは最低音はアルトサックスの最低音の半音上なだけ、しかも3オクターヴ以上の音域が可能な演奏ポテンシャルの高い楽器で、だが倍音成分は低いためにサックスとはまるで異なるキャラクターがある。フィンガリングやキー構造はサックスより複雑になるため、元々デリケートなアンブシュアを要求される楽器だがヘマをすると暴発する面白さがあり、どの楽器でもそうだがミストーンが出てしまったらそれをどう演奏の中に組み込んでしまうかがジャズのような即興演奏の音楽ではプレイヤーの腕前になる。
プロのジャズ・プレイヤーに話をうかがっても「プロだってミスするよ」と率直に打ち明けてくださる方は多い。だからと言ってアマチュアと同じレヴェルのミスではないのはもちろんだが、ジャズの管楽器奏者にとって音はヴォイスなのだから、一人の奏者のヴォイスには一貫性がなければならないだろう。管楽器奏者に限らずアマチュアのジャズ・プレイヤーには「いろんなジャズマンのいいとこ取り」みたいなつぎはぎ演奏が多いのもジャムセッションではよく見られる。それからやたら長い音階練習をアドリブ・ソロと勘違いしているテクニックひけらかしプレイヤー。ひとに聴かせたい演奏、なにを言いたいのか内容をこめた演奏など、演奏者自身にどれだけの自覚があるかは少し聴けばわかる。
筆者は結婚やら子育てやら失業やら離婚やらでもう15年近く楽器に触れなかった。プラスチック(ポリカーボネート)・アルトサックスは昨年末、サックスを始めて以来ずっと探し求めていたもので、1950年代には生産されていたがこのモデルがつい最近発売されるまでは50年以上製造メーカーがなかったものだ。チャーリー・パーカーが『ジャズ・アット・マッセイ・ホール』1953で、オーネット・コールマンが『ジャズ来たるべきもの』1959や『フリー・ジャズ』1960で吹いたのも白いプラスチック・アルトだった(材質は旧来のプラスチックだろうが)。リハビリにはまだ相当時間がかかるだろうが、長女(高一)がフルート歴三年半、次女(中一)がオーボエ歴半年ならまだサックスでなら勝ち目がある。少なくとも音楽的ボキャブラリーではとーちゃんに分がある。楽器経験値をリセットしても聴いてきた音楽は消えない。長女がもうドビュッシーやメシアンにまでたどり着いていたらちょっとやばいが、土俵がジャズならどんとこいだ。いや、しかし姉妹でジャズフルート&オーボエ・プレイヤーなんていったらどう見ても親父の方が華がないな。自分の娘たちに華があるなら結構なことだが。
(画像下=クラリネット、フルート、プラスチック・アルトサックス)
音楽をやりたいから楽器を習得するのは誰しも同じだろうが、やりたい楽器があるから音楽をやるのとやりたい音楽があるから楽器をやるのとは違うのではないだろうか。前者の場合は音楽教室や音楽サークル活動に参加して学ぶだろうし、後者はリスナーから始まっているから基本は独学で、実践から技術や方法を身につけていくことになる。その場合、楽器について語る前にどんないきさつで楽器にたどり着いたかから書かなければならないだろう。
もともと中学生の頃からロックが好きでギターを始め、高校時代からは仲間うちで長続きしないバンドをいくつかやっていた。長続きしないのはまだ10代だと音楽の好みがころころ変わるからで、唯一一年近く続いたバンドは全曲筆者のオリジナル曲(といっても拙いものだが)だったのでブレなかったのだと思う。
そのうちロックでも実験的なものを聴くようになって、そうしたものはインストルメンタル主体のものが多く、次第にヴォーカル・パートの入らないロックでも聴けるようになってきた。ロックの発達史でビート・グループからブルース・ロックへは断絶があり、ブルース・ロックからサイケデリック・ロック、プログレッシヴ・ロック、ハード・ロックへの発展があり、パンクやポスト・パンク以降のロックも1970年前後の混沌とした時期に孤立した先例がいくつもあるのがわかった。そうなると仲間うちで安易にコピーバンドなどやっても面白くない。
その頃には社会人になっていた。ある朝職場で仕事前の掃除をしていると、親しい同僚がラジカセでカセットテープをかけた。なんだかよくわからない管楽器の咆哮が無伴奏で始まると、これまでロックでも数回しか聴いたことがない殺気立ったスネア・ドラムの一撃で曲が姿を現した。ジャズなんだろう。これがジャズなら今までロックに求めていた要素は全部そこにあって、しかもロックより凄いじゃないか。
泡をくって同僚になんのアルバムか訊いた。エリック・ドルフィー『ラスト・デイト』、カセットテープを借りて何度も聴き、初めて買ったジャズのアルバムになる。ついていたことに、実家にお兄さんやおじさんの置いていったアナログ盤があるんだけどLPプレーヤーなくて、という同僚たちからカセットテープに録音を頼まれたアルバムはモダン・ジャズの基本ライブラリーといって良いものだった。ジョン・コルトレーンの『ヒストリック・パフォーマンス』とチャールズ・ミンガスの『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』、オーネット・コールマンの『フリー・ジャズ』、オリヴァー・ネルソンの『ブルースの真実』にもエリック・ドルフィーは参加していた。
名盤ガイドブックとして一番活用したのは油井正一『ジャズ ベスト・レコード・コレクション』(新潮文庫1986)で、ジャズの発達史についてはたまたま興味本位で蔵書にあった相倉久人『モダン・ジャズ鑑賞』(角川文庫1981・原著1963)が筋道をつけてくれた。1963年の時点で相倉氏の注目するアーティストはレニー・トリスターノ、チャールズ・ミンガス、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、エリック・ドルフィー、ビル・エヴァンス、オーネット・コールマン、セシル・テイラーで、氏の高い見識がうかがわれる。ドルフィーに続いて、ドルフィー以上に夢中にさせてくれたのはミンガスとコルトレーンだった。そこでわかったのは、ロックがビート・グループからブルース・ロック以降の発展をとげるのにはマイルス、ミンガス、コルトレーン、オーネットらのジャズが直接の音楽的アイディアになっているということで、モダン・ブルースよりもその比重は高いと思われる。
それでひと仕事終えた時に、思わず買ってしまったのがアルトサックスだった。コルトレーンが好きなのにアルトを買ったのは店頭で「初めてサックスを始める方に」と札が出ていたのと、アルトもテナーも大差なかろうと思ったからだ。全然違う楽器でごさいます。音域の高さから並べるとソプラノ→アルト→テナー→バリトンと低くなるが、名称通りアルトは女性の声域、テナーは男性の声域といえて、犬でいえばチワワ→秋田犬→土佐犬→ドーベルマン、猫なら三毛猫→チーター→虎→ライオンほどの違いがある。だがチワワにもチワワの道があり、秋田犬には土佐犬にはないフットワークの軽さがある。もっともテナー奏者にコンプレックスを持たないアルト奏者は少ないし(ソプラノはテナー奏者の持ち替えの場合が多い)、サックス奏者は金管奏者には劣等感を抱いているのだ。
アルトの独学を始めるようになったら、フルートを知人から譲ってもらえることになった。そうなったらクラリネットも知りたくなって、学習用の安いプラスチック・クラリネットを買った。アルトもなんとか吹けるようになったら、アルト同様安い台湾製のソプラノサックスも手に入れた。一応アルトとソプラノ、クラリネットは同じくらい吹けるようになった頃にはジャムセッションや自分のバンド(楽器店の張り紙コーナーで集めた)で人前で演奏するようになっていた。
同じ頃から始めたのに、フルートは全然上達しなかった。楽譜を書いてあらかじめ練習しておいた分を吹くのがやっとで、アドリブがとれない。特定の曲のテーマ部で使うのがせいぜいだった。また、人前で演奏するようになってからアメリカン・セルマー(略称アメセル)のテナーサックスの新品!を知人から安く譲ってもらえることになった。アメセルのサックスといえばエレキギターならギブソン・レスポールみたいなもので、保証書つきのプロ仕様だから30万円もアコースティック楽器としては当然になる。その新品未使用品を10万円で譲ってもらえることになったのだが、吹いてみて愕然とした。吹けないことはないのだが、自分の感覚では中音域から上しか使えないのだ。つまりアルトサックスの音域より下の音域を含むフレージングをイメージできない。管体がでかいから音も遠鳴りしているように聞こえる。使い慣れているドスを日本刀に替えたような使い勝手の違いがある。重いのだ。
そんなわけで、せっかくのアメセルなのにライヴでは一度も使うことがなかった。持っている楽器の中では一番の高級品なのにだ。アメセルのアルトを人に少し吹かせてもらったことがあるが(もちろんマウスピースは替えて)、まともな楽器というのは同じアンブシュアで指づかい通りの音が正確に出るのに呆れた。筆者の使っている台湾製アルトなんかはアンブシュアで調整しないと指づかい通りの音が出ないのだ。おかげで自分に絶対音感があるのが判明してしまったが、前向きに考えれば安物楽器のせいで正確にピッチを修正しながら演奏する訓練になり、逆にピッチを歪める奏法も習得する結果になった。うちのバンドはどちらかといえばテナーをフロントにしたバンドが採用するレパートリーを演奏していたが、音域的にはテナーなら中音域以上になる吹奏をして違和感がなかったのは最初からまともなアルトサックスらしい音色ではなかったからだった。
ソプラノサックスなどはもっとピッチの悪い楽器だったから、エオリアン・モード(音階)とペンタトニック(五音階)専門に使っていた。つまり左手しか使わないのでソラシドソ、という五音階になる。ソラシドソならソがトニックになるのでエオリアンということにもなる。
通常ソプラノサックスで演奏されるようなことはクラリネットを使っていた。クラリネットは最低音はアルトサックスの最低音の半音上なだけ、しかも3オクターヴ以上の音域が可能な演奏ポテンシャルの高い楽器で、だが倍音成分は低いためにサックスとはまるで異なるキャラクターがある。フィンガリングやキー構造はサックスより複雑になるため、元々デリケートなアンブシュアを要求される楽器だがヘマをすると暴発する面白さがあり、どの楽器でもそうだがミストーンが出てしまったらそれをどう演奏の中に組み込んでしまうかがジャズのような即興演奏の音楽ではプレイヤーの腕前になる。
プロのジャズ・プレイヤーに話をうかがっても「プロだってミスするよ」と率直に打ち明けてくださる方は多い。だからと言ってアマチュアと同じレヴェルのミスではないのはもちろんだが、ジャズの管楽器奏者にとって音はヴォイスなのだから、一人の奏者のヴォイスには一貫性がなければならないだろう。管楽器奏者に限らずアマチュアのジャズ・プレイヤーには「いろんなジャズマンのいいとこ取り」みたいなつぎはぎ演奏が多いのもジャムセッションではよく見られる。それからやたら長い音階練習をアドリブ・ソロと勘違いしているテクニックひけらかしプレイヤー。ひとに聴かせたい演奏、なにを言いたいのか内容をこめた演奏など、演奏者自身にどれだけの自覚があるかは少し聴けばわかる。
筆者は結婚やら子育てやら失業やら離婚やらでもう15年近く楽器に触れなかった。プラスチック(ポリカーボネート)・アルトサックスは昨年末、サックスを始めて以来ずっと探し求めていたもので、1950年代には生産されていたがこのモデルがつい最近発売されるまでは50年以上製造メーカーがなかったものだ。チャーリー・パーカーが『ジャズ・アット・マッセイ・ホール』1953で、オーネット・コールマンが『ジャズ来たるべきもの』1959や『フリー・ジャズ』1960で吹いたのも白いプラスチック・アルトだった(材質は旧来のプラスチックだろうが)。リハビリにはまだ相当時間がかかるだろうが、長女(高一)がフルート歴三年半、次女(中一)がオーボエ歴半年ならまだサックスでなら勝ち目がある。少なくとも音楽的ボキャブラリーではとーちゃんに分がある。楽器経験値をリセットしても聴いてきた音楽は消えない。長女がもうドビュッシーやメシアンにまでたどり着いていたらちょっとやばいが、土俵がジャズならどんとこいだ。いや、しかし姉妹でジャズフルート&オーボエ・プレイヤーなんていったらどう見ても親父の方が華がないな。自分の娘たちに華があるなら結構なことだが。